8
仕事を終え、アパートに帰ってきた。軽くシャワーを浴び、冷蔵庫にあった昨日の残り物をレンジで温める。今朝炊いたお釜のご飯を茶碗に盛る。立ったままキッチンで食べる。茶碗とタッパーを洗う。部屋に戻って電気を消す。ベッドの上に寝転んだ。布団をかけて目を閉じる。
記憶がなかった。電車を降りてから、帰宅するまでの景色。眠れなかった。私の睡眠欲が思考停止を促してくれない。暗闇で目を開ける。部屋の丸い蛍光灯が見える。
頭から離れなかった。歩いているときも、シャワーを浴びているときも、夕飯を食べているときも、ずっとそのことを考えていた。
具合の悪さはいつの間にかなくなっていた。普段こんなに重いことはなかったが、今日はいつもより怠く、仕事中も何度か頭を抱えた。帰宅途中、住宅街の道端で人の目も気にせずうずくまってしまった私に、ペットボトルの水を手渡してくれたのは、高校生くらいの男の子だった。
その子は何も喋らなかった。もしかしたら、喋れなかったのかもしれない。お礼を言おうとちらっとその子の顔を見たときに、口許周辺を覆うようについていた血と、目元の切り傷が見えた。え、とは思った。喧嘩したのかな、とか、街灯があるとはいえ夜だったから、暗闇でこの体調だし見間違えたのかもしれない。でも、気にしている余裕が私にはなかった。
私は自分を優先し男の子からもらった水を飲んだ。立ち上がってもう一度ちゃんとお礼を言わなければいけないと振り返ろうとしたとき、聞きなれない鈍い音が鳴った。
見てはいけないものを見てしまった気がした。
男の子の顔を叩く男の人と視線が合った。私の身体がその瞬間に怯えたのがわかった。男の人の無造作に伸びた髪と生やした髭で、柄が悪いと思ったんだと思う。脚が震えている。でもお門違いだった。目が合ったにもかかわらず、その人は私には構わず男の子を殴り続けた。男の子の顔が左右に振れる。「お前に人のこと気にしてる暇があんのか! なあ! なあ! 考えろよ! 雑魚はどうやって生き抜くんだ! 人に優しくしてる暇あったら頭を回せ!」
私が何もせず立ち尽くしている間に、男の人が男の子の肩を掴んで家の中に入っていった。
私は怯えというものを知った。と、同時に、いかに自分の今までの環境が恵まれていたのかを知った。
男の子の家の事情も男の子のことも何も知らない。でもあそこまでしなくてもいいのではないか。止めればよかっただろうか。どうして止めなかったんだよ、私。
ベッドの上で眠りにつくどころか、反省会が始まってしまった。
いろいろ考えた結果、明日、仕事終わりに家に行ってみようと思い、その日は眠りについた。
翌日、会社に出勤し、業務をしっかりとこなして、定時で帰れることに安心した。気になって仕方なかったのだ。仕事中はさすがに私情は持ち込めないので、何とか業務に専念した。退勤直前になって、早く行かなくてはならない、と責任の念が急かした。
「どうしたの、珍しくそんなにそわそわして。なんかあるの? この後」
私がデスクで荷物をまとめていると、大学からの同期である仁美に声を掛けられる。
「あ、いや、ほんと大したことじゃないんだけど……」
「あんたがそう言うときは大体、大したことなんだよ。こないだなんて家の鍵開けっ放しだったかもしれないとか言って、タクシーで帰ってなかったっけ? そんでもって結局電車の方が速かった挙句、ちゃんと鍵閉まってるっていうね。まあ、あたしからしたら大したことじゃないんだけど、有紗にとっては気になることなんでしょ? とにかくあたしに言ってみな。大したことじゃないって笑ってあげるから」
仁美は「ほら」と急かした。いつもこうなるのだった。もしかしたら私の顔が喋りたそうにしているのかもしれない。喋って、仁美に笑って「大丈夫だから」っていつも通り言って欲しいと思っているのかもしれない。
私は渋々といった風に、昨日のことを話した。
大丈夫、と仁美は笑ってくれなかった。
「やめときな」
いつもの高笑いはなかった。凛々しい顔つきで一言、だった。
「どうして? 心配じゃないの? それに私、助けてもらったのにお礼言ってないし……」
「何か感じたらいったん考える! あんたはいつも感情と行動が同時なの。悪いことじゃないけど、もう少し考えてからでも遅くないから」
「ちゃんと考えたよ! 昨日ちゃんと考えて決めた!」
「少ない! 仕事と同じ。仕事でアイディア出すとき、有紗はちょっとベッドの上で考えたことをすぐ取引先に提案するの? もっと吟味して、試行錯誤して、いろんな人に頼りながら時間をかけるものでしょう? 感情で動くものじゃないの」
「いや、でも、それじゃあ……」
「言いたいことはわかる。でもわかってよ。あたしの友達は有紗、あなたなの。その子はあたしの友達じゃない。そりゃ可哀想だとは思う。けどね、あなたが心配なの。普通だよね? 知り合いか知らない人か、どっちか一人を選べ、って言われたら知り合い選ぶのなんて普通だよね?」
「……うん。仁美が正しいよ」
「なら、今日は家帰ってじっくり考えな。それともこの後どっかでご飯でも食べながら……」
仁美の言葉を私は最後まで聞いていなかった。仁美も多分それに気づいている。私は、今思っていることを仁美に伝えた。
「心配してくれるのはすごくうれしい。でも、今行かないと、明日も、明後日も、その次の日も、ずーっと、それから迷い続けると思うんだ。今行っちゃえば、その悩んでる時間を仕事に充てられるでしょ? 様子見てくるだけだから。何もなかったらすぐ連絡するって約束する」
納得してくれただろうか、と私は仁美の顔をじっと見ていた。仁美は呆れたように、溜息をついて腕を組んだ。
「今やっと、あんたがみんなに馬鹿真面目って呼ばれる意味が分かったわ。すごく真面目って意味で解釈してたけど、真面目過ぎると馬鹿になっちゃうんだね。あんた馬鹿だよ」
「……いいの?」
「いいも何も、あんた、あたしが止めても行くじゃない、いつも」そう言うと、仁美は私に背を向けた。「連絡なかったら肉奢ってもらうからねー」手を振って出て行った。
私は昨日私がうずくまっていた場所に向かった。たどり着き、昨日の記憶を元にそこが確かに男の子の家だと確認する。玄関のドアの前に立つ。インターホンが映る。ボタンを押した。家の中で鳴っているのが聞こえる。
しばらくしても音沙汰がなく、もう一度押そうと手を伸ばしたときだった。ドン、とドアから大きな音がする。ドアも揺れた。見れば、ドアの下の方の強化ガラスに黒い影が映っている。人……。恐る恐る、私はノブに手を掛けた。ゆっくりと引く。鍵がかかっていない……そのままドアを開けると、見上げる彼と目が合った。顔に青痣を残す昨日の男の子が、タイルの上で尻餅をついていた。手にはなぜかガラスの灰皿を持っている。
「だいじょう……」
彼に手を掛けようとしたとき、奥から大きな足音がして、彼はそちらに顔を振った。近づいてきた足音は、彼の前で止まる。私に気づいていないのか、私のことなどお構いなしに、髭面の男は彼の胸倉をつかんだ。「よくもそんな口が利けたもんだな。煙草を吸わないでくださいだって? 飲んだくれよりよっぽどましだろ!」
とても大きな声だった。私自身、もう昨日みたいに逃げないと覚悟していたはずなのに、慄いている。男の子の顔が腫れている。青く、黒く。彼は、目と鼻の先で凄む鬼の形相と、その大声に怯えることなく面と向かって呟く。「でも、母さんは……」と。私は確かに聞いた。だが、父親の耳には届いていなかった。父親は聴く耳を持っていなかったのだ。頭に血が上っているのかもしれない。周りの声など聴こえず、周りのものなど何も見えず、ただ言いたいことを言いたかっただけ。あの日言えなかったことを、言いたかったのに言えなかったことを、言える関係性のその子に。
「たとえ本音だったとしてもな、酔ってたら伝わらないんだよ。俺は酔っ払って暴れる親父が嫌いだった。酔ってないと言えなかっただと? ふざけるなよ。俺がどれだけあの親父のことを嫌いになったかわかんないだろ。どれだけただのアルコールに嫌気がさしたかわかんないだろ。嫌いになりたくて嫌いになるわけねえーだろ。あいつが、あの親父が、酒なんか飲まずに、面と向かって俺の顔面ひっぱたいてりゃこんなに……」
髭面は、数秒男の子の胸倉をつかんだまま静止した。私は髭面の腕を掴んでいた。髭面は動かなかった。数秒。数秒して、私の腕を無造作に振り払い、胸ぐらをつかんだまま男の子を家の中へと引きずった。
私はよろめきながらそれを追う。靴を脱ぐことを忘れ。髭面の顔も声も忘れ。どうしてこの家にいるのか、何をしに来たかも忘れ、ただ、自分が勝手に動いている感覚を持った。この俯瞰のような感覚。身体は現に動いているのに、頭は行動とは解離されたように冴えていて、穏やか。冷静な判断ができるのであれば、非合理な行動に出ようとする自分の身体を止められるはずだ。でも止まらない。止められない。止めようとさえ思わない。それが正しいとか、正しくないとか、そういう次元じゃなかった。さっき自分でも感じたじゃないか。頭と身体が解離していると。冷静な判断ができたところで身体と頭は切断されている。結合部はどこにもない。どうしようもなかった。ぶつかる、とわかっていても、もう止まれない車のように、私の手は男の子の手に向かっていた。リビングで胸倉を掴まれている男の子。血管が浮き立つ彼の腕。ぎゅっと握った爪先の白。ああ、そうか。今、彼は耐えている。どうしようもない感情をどうしようもない方法で発散しようとしている。そういう状況に置かれてしまった時点で、諦める他ない。頑張れるのは、明確な発散方法を描ける頭のいい人だけなんだよな――。
鐘が鳴った。
続けて床が鳴った。
私の手には灰皿が握られている。
隣の男の子を見る。
襟がよれている。息が整っている。床を見下ろしている。その隣に、心臓が揺れている私がいる。
「地獄で、会ったら一緒にいてくれますか」
拍車が、かかる。
「なんか、普通にうれしかったんですよ。あなたがこの家に入ってきたことが。地獄だとわかっていて自ら足を踏み入れるみたいじゃないですか。でも、こう思っている僕も許されない。どの道地獄なんですよ。どの地獄に行きたいか選ぶってだけで。父も、母も、僕も。でもあなたは違ったはず。わかります。見て見ぬふりをするな、いつか返ってくるって小学校のとき教わりましたもんね。あれは最早、呪いですよ。社会を知らない子どもに暗示をかけた教師が悪い。大人になれば嫌でもわかる。見て見ぬふりをしないと自分が潰れる。それが普通で合理的だとみんな知っているのに、未だにガキの頃の約束を、初恋みたく引きずっている馬鹿真面目な人が、稀にいるんですよ」
灰皿が手から滑り落ちる。バリンとは割れてくれない。いっそ割れてくれれば腹を括れたかもしれないのに。小学校の頃の暗示も約束も忘れられたかもしれないのに。それらは、粉々に壊れてはくれなかった。ただ、そこに落ちた。形を保ったまま、別の場所に。頭から足元に移動したかのように、ドンという音は、幕が下りたように鳴った。
リビングの蛍光灯が嫌に眩しい。
幕の内側は明るいようだ。外の暗がりで鳴る歓声をよそに、私の心の中には、やってしまった、という感情だけが残る。だから言ったじゃないの、と仁美の声がする。でもこうも言う。
「あんたが行かなかったら私が行ってた。誰がやったかの違い。それだけ」




