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いつの間にか雨が止んでいる。
有紗は手紙を丁寧に鞄にしまった。
ブレンドコーヒーの清算をし、店のドアを開ける。雨上がりのせいか、湿度が高くじめじめとした空気だった。嫌いじゃない。何処か懐かしさを覚えるようで。
喜一は、島で起きたこと、体験したことを手紙に記した。本島に来てからのこと、瀬戸や、藍についてのことも書かれていた。そして最後に、有紗との関係について。
『調べたら、どうやら放火で俺は捕まったみたいだった。俺自身、上手く思い出せない。それはきっとあなたも同じなんじゃないかな。あの島のことも、俺があの島にいたことも、世の中の人間たちは知っているようだった。今でも街に出ればカメラを向けられる。あの島は、本島の人間たちにとって、気持ち悪くて、奇怪で、人をいじめる要素には十分すぎるみたいだ。これがまた、繁殖期のゴリラだったら違ったんだろうね。なんの生き物でもいい。でも俺たちは人間だ。同種族だからおかしいらしい。笑えるね。
あなたは俺の父親を奪った。父親がどういう人だったか鮮明には覚えていない。母親は今もあの島のどこかにいるみたいだ。島の住人リストに載っているのをインターネットで見た。あなたは俺のレッテルなしの生活も奪った、と言いたいところなんだけど、まるで実感がない。あなたに会いに行こうとは思わない。いろいろ読んで、それが正しいと思うことにした。父親がどういう人だったか母親のインタビューの記事は読んだが、まだよく思い出せない。もしかしたら思い出せないんじゃなくて、思い出したくないのかもしれないな。だから俺は、ここで、何食わぬ顔で生きることにした。だって覚えてないんだもの。仕方がないじゃないか。
あなたに手紙を宛てた理由は、きっとあなたが一番よくわかっていると思うから、あえて書きません。あなたに会わずに手紙を書いた理由もそこにあります。
どん底で生きている人に、服も靴も要りません。服も靴も食えないし、一度着てしまったら、もう一着、もう一足、って手を伸ばし続けていく人生になってしまう気がする。
俺たちはそういう状況にすら置かれていない。
住所は瀬戸さんからお聞きしました。』
見てみたい、はいつの間にか見たいを超えて、会いたい、に変わっていた。鎮静の効果はあくまで反社会的行動に出ないという程度に収まっているみたいだ。人間的な感情は拭いきれていない。
この感情も、きっと明日には消えている。
俯きながら歩いていたせいか、前を歩いていた人の背中に激突する。「すみません」と素早く頭を下げる。横断歩道の信号待ちに差し掛かっていた。ぶつかった人への忍びなさで、彼から一歩離れた場所に立った。
信号待ちの人々がだんだんと背後に溜まっていく。
またいつもと同じような声がする。
「あれ、この人たち……」
「どっかで見たことあるよーな」
「あれだよあれ」
「あの人確か」
「流刑の」
「あーわかった島だ、島」
もう、わかってるからそんなに騒がなくてもいいのに。
「写真とっとこーぜ。珍しいかんな」
「なんて書くー?」
「ストーリー上げたらバズるかな」
背後がだんだんと騒がしくなっていた。
――きっと誰かが悪ふざけをしたのだろう。きっと若い子が、誰かの共感を得たくてしたのかもしれないし、偶々(たまたま)人が多すぎて押し出されただけかもしれない。
歩道から一歩押し出されたはずだった。確かに。でも、気づいたときには、有紗は歩道に立っていた。
あれ。
喧噪が鳴っている。心臓が鳴っている。動悸のように速い。信号が青になった。聞きなれたメロディと悲鳴の交わり。自分の胸を抱えて立ち尽くす有紗の横を、すり抜けていく群衆。
有紗はそのまましゃがみこんだ。信号機の青が点滅する。
赤に変わる。
青に変わる。
赤に変わる。
青に変わる。
赤に変わる。
青に変わる。
赤に変わる。
ひとしきりその場で泣いた後、自分がなぜ泣いているのだろうかと疑心になる。何もわからないのに不安になる。車道で伸びているそれ、近づく救急車、駆け寄る救急隊も、パトカーの黒も、白も、アクセルをふかしたようなフットサイレンも、くるくる回る赤いランプも、何かを思い出すには十分な材料だったみたいだ。
有紗は自分の右手を広げる。
そこには確かに、うっすらと、血濡れたガラスの灰皿が乗っていた。




