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結局、有紗が地下室に居た時間はものの数分だった。あれだけ苦痛な本島から天国のような実家に戻ってきたというのに、トンボ返りになるとは。収穫は狼との会話。楽しいという感情と、その喪失感。よく考えれば、一年前に私は地下室で死んでいることになっているのだから、別に今戻ってきて地下室で死んでもいい訳で。誰かに見られることもないのだから時系列はどうでもいい。生きるも死ぬも、どっちでもいい。
どっちでもいいのに、どっちでもいいからか、私は地下室にとどまらなかった。
最後にやらなければいけないことがあった。狼との会話が楽しくて忘れていたが、本来の目的はこれであった。
私が殺した人の息子が見てみたい。
有紗が島を脱け、本島に行って、初めて出かけたのは図書館だった。瀬戸に場所と行き方を教えてもらい出向いた図書館で、有紗は新聞を探した。「カウンターにいる人に訊けば親切に教えてくれるよ」と言われたが、自分の身分は自覚していた。帽子を深く被り、館内をひたひたと歩いた。パソコン、というもので調べれば話さなくても済む、と瀬戸から聞いていた有紗は、端からカウンターの人と顔を合わせるつもりなどなかった。勿論、欲を言えば新聞で見たかった。どうしてかなぜだかわからないけど。だが、背に腹は代えられない。それだけそのときの有紗は警戒心と不安でいっぱいだったのだ。
パソコンの使い方を知らなかった有紗だったが、カチカチと押しているうちに要領を掴んだ。きっと島流しに遭う前にもパソコンに触れていたのだろう、そのときのことを思い出しただけであると、有紗は納得する。
画面上の太字、見出し。実感はなかった。ぼんやりとした記憶の景色。本当に自分が起こした事件なのかと眉間に皴を寄せる、訝る。答えは画面上にある。名前。写真。自分の顔など最後に見たのはずっと前のことだというのに、それが自分の顔であるとわかった。これが私。名前は……依田有紗。
被害者の男の顔写真と名前。しばらくじっと見つめる。名前を何度か頭の中で反芻する。憎悪は生まれなかった。どうして殺したのかもわからなかった。小学生の頃の理科の教員とか、通い慣れたコンビニで一時期よく見かけた店員のような、そういったなんとなく覚えてはいるけど、その人について深く、何も知らないような印象だった。事件の概要の下に、被害者の妻のインタビューが簡潔に記載されていた。内容はありふれたもので、悲しい、被疑者には罰を、といった内容だった。
『息子のこれからのことを想うと……』
その文字に、有紗は惹き込まれた。偶然? 自意識過剰? そこから先の文が彼女の本音ではないだろうかと思ったのはなぜ? 『不安でいっぱいです。私が一人で育てる、という覚悟はすでに肝に銘じてあります。でも足りない。本来必要であるはずの父親を欠くということが息子にどう影響するのか計り知れません。私は息子に寄り添い続けるつもりです。でも、私だけではどうしても足りない気がします。この穴は、限りなく隠すことはできても、塞ぎきれない気がします。でもすでに起きてしまったことです。戻りたいとは思わないように、これから過ごしていきます』
有紗の中で、何か不確かな感情が混濁していた。特に関心もなく当たり前のように過ごしていた島での記憶は曖昧、島に来る以前の記憶も曖昧、まだ島での記憶の方が思い出せる。
頭にある成分によって記憶まで消されたのだろうか。わからないが、物事にはいつも理由がある。思い出さない方がいいことのように思い始めた有紗は、同時に、記事の『息子』と言う文字に惹かれていくことも実感している。この感情に背いたらどうなるだろう。
そもそも島に行ったところで、息子がいる保証も、息子が生きている保証も、名前だけで探し当てられる保証もない。彼自身、自分の名前など覚えていないのだから、聞くことはできない。見つける手段は、「一度見たものは完全には忘れないはずだ」という、どう考えてみても、いくら考えてみても信頼に足らない、この感覚のみだった。




