2
それは家屋が連なる一帯でいつも行われた。平屋の家が何百と不規則に建てられている。その集落の周りを、高い金網のフェンスが囲んでいる。フェンスの高さは、ちょうど人が登るのを諦めそうなくらい。上空から見るとフェンスは正方形を象る。その中に不規則に家屋が建てられている。
入り口のフェンスを開けると男が言った。「こいつは三十秒後、この地の空気に触れて五年目になる。これからこいつは旅立つ。皆、盛大な拍手で見送ってやってくれ」
それを合図に、フェンス付近に集まっていた人々は手を叩き始めた。言葉はない。ただ、その手と手を叩く行為そのものに、彼らの想いは込められていたのかもしれない。
慰め? 惨め? 違う。
冒涜? 違う。
人は輪廻の中にある。生まれた瞬間に死ぬ運命を背負わされる。たとえそいつが死んだとしても、また別の奴が被る。言い換えれば、そいつの後を新しく生まれたそいつが継ぐということだ。
すなわち、彼らの拍手に想いなど通っていなかった。生まれ変わるだけ。容姿が変わるだけ。性格が変わるだけ。何千年、何億年と続いてきた、続いていく、輪廻の中の一時代、一時、最早一瞬を生きたというだけ。ただ、儀式的に手を叩くのだ。まるでそれが重労働だとでも言うように叩いていた奴もいるくらいだった。
想いの通わない拍手に見送られ、一人の女はフェンスの中へと消えていった。振り返り際、当然だが、今思えば、表情はなかった。
青年は彼女の背中をずっと眺めていた。彼女がどの家に行くのか気になったからだった。
だがすぐに目で追っていた背中は消えてしまう。なんせ、迷路のような集落だ。家と家の間が狭く、人がひとり通れる程度、幾重にも連なり、入り組み合っているのだ。家屋の高さも、作りも、まちまち。迷路――いや、かくれんぼのような気がした。
入り口のフェンスが閉じられる。南京錠のかかる音がした。その音を皮切りに、儀式の参列者たちは踵を返した。各々の行くべき方角へと散っていく。
「あの中に狼でも放ってやればおもろいのになあ」青年の横には、初めて儀式を見た日に青年を招いた男がいた。伸びきった顎髭を触りながら呟く。
「どのみちフェンスがあるから出られないんだけどよ、それでも前にフェンスをよじ登ろうとした愚か者がいたらしい。結局そいつは登りきることなく落下して死んだんだけどよ、それでも登りきる奴がいないとは言えねえだろう? それなら、あの中に狼でも放ればいいんだ。一匹じゃ少ねえ。あの広さだ。何十匹かいねえと足りねえな。誰かバッタでも引っ提げて頼んでくりゃいいんだよ。あいつら、人なんかいつでも殺せるんだって王様気取りじゃねえか」
この髭面の男は、狼のことが嫌いなのだろうなと青年は思う。狼なんかいなくても、逃げ出そうとする人なんかいないはずなのに、この髭面は狼を働かせたいようだ。きっと青年のことをまだ何も知らない子どもだとでも思っているのだろう。フェンスをよじ登った男? 狼に対しての嫌がらせのために作り出された虚構だろう。
「あの女の人はどこへ行ったの?」青年はまるで何も知らないから教えてくれと言わんばかりに子どもを演じた。訊くと、髭面は、んん? と唸り、「そうかそうか、お前初めてだったのか。そりゃ知らねーよな」と言い、続けて「地下だ」と言う。
「ちか?」
「そう、地下。地面の下だよ。フェンスの中に何軒も家があっただろう? あれの一軒一軒に地下室があるんだよ。どっかの家の地下にあの女は旅立ったんだ。で、面白いのがな、地下室には外から鍵がかかっているんだよ。で、誰がその鍵を掛けたのかって話だ。なんせあの迷路みたいなところだ。誰がどこの家に入ったか見失ったらもう意味がねえ。そこでだ。昔の人は頭がよかったんだろうな。扉を閉じると自然に閉まる鍵を作ったんだよ。すげーと思わねえ? そんなこと思いつきもしねえよ」
髭面は目を輝かせている。幼い子どものそれだ。その幼い目ともじゃもじゃの髭を摩りながら高笑いしている。相変わらず熱の籠った話だった。青年はこれと全く同じやりとりを、既に十回は髭面としている。髭面は一言一句同じ言葉を発し、息を吸うタイミングまで同じだ。勿論青年も一言一句同じ言葉を発した。十回まったく同じ会話をしても飽きないのは、周りのことなど気にも留めていないという髭面の声量と、何よりその姿勢と態度だった。熱量を感じられる話は嫌いじゃない。
髭面は、高笑いをしたまま、青年が歩いてきた方角とは逆の方角に歩いていった。
夕日が見える。周囲の人影は消えた。振り返ると、橙色に染まる日差しがフェンスの向こう側の家に映っている。同時にその日差しによって作られた影が見える。
困惑した青年は歩き、フェンスに触れた。
揺れる。
「何で入らないの。まさか、白骨見て怖気づいたなんて冗談……」
「生きてたの」
「生きてた?」
少し考えた後、まさか、と青年は思った。そして、そういう顔をしたのだろう。先程拍手で見送られたはずの女は、フェンスの向こう側で神妙な面持ちのまま、ゆっくりと頷く。
「あの風貌は絶対に五歳じゃない。まず髪が整い過ぎてる。もし仮に誕生日が近い人同士が同じ家の地下を選んで、片方の肉を食って生き伸びていたとしても、生きられてせいぜい一か月から一か月半。じゃあ、あの女はどこから来たの? フェンスをよじ登って入ってきた本島の人間? 仮にそうだとして何の意味があるの。あの地下に水も食料もない。外鍵で、一度内側に入ったら開けられない。五歳になった人が、この膨大な家の中から偶然その家の地下室に入ろうと外から鍵を開けない限りそこで死ぬのよ? 自殺志願者なら納得する。でもあの人は生きていた。私は見た。この島の人間ならきっと人が五歳を過ぎたらどういう風貌になるか見たことがないと思う。でも私は見てしまった」
揺れる。
「……だから何なんだよ。仮にその女が不死身だったとして何なんだよ。同じ部屋にいるのが嫌なら別の家の地下に入ればよかっただろ。でもあんたはそうしていない。現に俺とこうして向かい合っている。馬鹿げたことをする女だ。あの髭面の言うこともあながち嘘じゃなかったってことだな。あんたに救いようがあるとしたらまだフェンスの中にいることだ。誰かに見られる前にどっかの地下に入れよ」青年は言い残すと背を向け歩き出した。
夕日が沈みかけている。水平線の上に架かる夕日が、緩やかに下る坂の奥に見える。あと数分で落ちるだろう。橙の景色が影を多くしている。青年の瞳に半球体となった夕日が映る。身体を半分にしてもそんなに優雅でいられんのはお前だけだよ。青年は投げかける。
右側の傾斜を上れば畑。左側も畑、奥に雑木林。雑木林の揺れる音が青年の耳に届く。実際に揺れたのは、彼が振り返った後に吹いた風によってだった。
何かを察知したかのように、徐に、振り返った青年。風、木々の揺れ、予想よりも早く沈みかかる夕日。数十メートル先で、女がフェンスに両手指をかけて立っている。彼女の表情は夕日の陰で見えない。彼女の足元だけが橙色に照っている。
何となく青年はわかっていた。彼女が言わんとしていること、彼女が今している表情、フェンスに引っかかる両手指をじっと眺めながら、青年と女は同時に口を開いた――。
――おかしいと思わない――
頬が痙攣している。こんな大声で叫ぶ習慣などないからだ。それは彼女も同じようで、さっきまで泣いていたはずなのに、うっすらと見える表情はその残像を見せない。
まるっきり一言一句同じ疑問文と否定文を叫んだ二人は、掛け合うように言った。
「どうして五歳で死ななきゃならないの!」
「そういうものだからだ」
「名前がないのは何で!!」
「そういうものだろ」
「本島の人たちはそれぞれの名前で呼び合うって聞いた!」
「本島? 知るかよそんなの」
「じゃあ服は? なんで服を着てないの! 恥ずかしくないの!」
「服ってなんだよ」
「……」そこで女は押し黙った。金網に引っかかる指に力を入れたのだろう、フェンスが揺れて音を鳴らす。
陽が落ち切ろうとしている。彼女の膝辺りにあった橙色はうっすらと仄かな明るみを残すだけになった。陽が落ち切れば、彼女のことは視認できなくなるだろう。夜目が効き始めるまでに少なからず時間はかかる。
どこか遠くの空で鴉の鳴き声がした。
「おせーよ、もう暮れてんだろ」青年は呟く。
「私は外に出る」日は落ち切り、暗闇で声だけが聞こえた。
「出るにしたってどう出るんだよ。フェンスを上るのか? 落ちたら死ぬ高さだぞ?」
女の返事が聴こえなくなる。
しばらくして返ってくる。
「あんたには言わない。でも確実に私は外に出る」
「正気か? おい、やめとけ……」
「あんたにもいつか分かるはずよ。私が思ったことと同じことが。そのときはいかだを作るなり泳ぐなりで本島にくればいい。この島の人間たちはそれを止めようとはしないはずだわ。この島からたかが人が一人いなくなったところで誰も気づかない。だって、みんな独りだものね。母も、父もいないものね。勿論、私を産み落とした人はいるはずだけど、彼らを親とは呼ばないものね」
何を……言っているんだ……この女は。
「私は恵まれた。死ぬ直前になって、ましてや私はもう島の人から見たら死んだことになっている。だからここから出たとしても、彼らに見つからなければ、彼らは死んだと思うかもしれないけど私は生きていることになる。もし私の生存を確認できる人がいるとするならあなただけよ。でもあなたにそんな好奇心ないでしょ? この島の人間は皆そうだものね。私も今の今までそんなものなかったわよ。でももし、あんたが島を出ようと思うなら歓迎するわ。たとえそれが明日であっても、五年後であったとしても。これが縁ってものだよ。ねえ知ってる? この島のことを本島の人たちがなんて呼んでるか。さっき地下室で……」
聞きたくなかった。気づけば彼女のいるフェンスに背を向けて歩き出していた。