13
雨は降っていても、それなりに明るい雲だったはずが、いつの間にか日が完全に落ちていた。雨が海面を叩く音にも慣れ、泳ぐのには疲れたが、未だ泳ぎ続けていた。正真正銘真っ暗だった。月明かりがあればまだしも、この天気だ。視界どころか聴覚も奪われっぱなし。こんなことならあの懐中電灯を手放すべきではなかった。
息を止めていられる限界が近づき、もうやばい、と口から泡が漏れたときに、暗く狭い通路から広大な藍色の海へと出た。あとは浮上するだけ。海面を見上げ、明るく映ったときに懐中電灯は手放していた。一心不乱に両腕を振った。顔を顰めながら手を掻き、足をばたつかせ、浮上し、大きな口を広げて酸素を吸った。何度も。大きな口で。
そういえば、フェンスで喚いていた女はどうしただろうかと思った。女は地下室で人を見たと言った。あのときは想像すらしなかったことだが、今なら想像できる。俺が這いつくばって進み、息を止めて死ぬ寸前にまでなりながら間一髪海面に浮上したあの道を、逆から進んだ人がいる。何のために? さあ。懐中電灯の電池でも交換しに来たんじゃないか?
あの女は、石板に記された手紙を読んだのだろうか。この島では名前を呼び合わないことや、服を着ないことについて疑問に思っていたようだったが、手紙を読んだとしたなら辻褄が合う。でも妙に引っ掛かった。何か最後に言われた気がする。
『ねえ知ってる? この島のことを本島の人たちがなんて呼んでるか。さっき地下室で』という言葉を一言一句思い出した俺は、彼女が手紙を読んでいないということに気が付く。手紙に本島の人間がこの島を何と呼んでいるかなど書かれていなかった。もしかしたら狼が……と思うが、それはないと思った。狼は以前に俺以外に女と話したことがあると言っていたが、多分それはまた別の人だ。時系列が合わない。あの女の興奮具合は、興奮に至る少し前に興奮に至る何かを知ったからだろう。狼はフェンスの中にはいない。
だとすれば、きっと、地下室に来た本島の人とあの女は何か言葉を交わしたに違いない。フェンスに指をひっかける女の姿を思い出す。あの後、俺は振り返らずに浜辺へと向かった。彼女は地下室に戻っただろうか。戻って手紙を見て、俺と同じ道を進んで島を出ただろうか。それともフェンスをよじ登って――。
いつの間にかあの女のことが気になっている。何も知らずに島の外に出たとしたら――。
俺は腕を掻く速度を速めた。もうすでに大した力は残っていなかったが、それでも必死に腕を掻いた。上空から見たとしたら哀れに見えることだろう。もがいているのに大して進んでいないだろう。波の音が聞こえる。小雨はまだ降っている。夜目の利いた視界が、遠く浜辺を映し出す。あと少し。もう少しで、泳がなくて済む。そのときはあと少しだと考えるので精一杯だった。この後、服はどこで調達しようとか、食事はどうしようとか、寝床はどうしようとか、金はどうやって稼ごうとか、そんなことを考えている余裕がなかった。ゴールが見えない道を散々泳いできて、ついにそこにゴールが見えたのだ。距離があるとはいえ、確かにゴールが見えた。頭の中は浜辺に足をつけることの想像でいっぱいだった。早くあの浜で寝そべりたいと。雨が降っていても構わない。とにかくあそこで今日は寝る。そういえば一昨日も浜辺で寝たな。あの娘は今頃島のどこかで寝ていることだろう。あの砂のベッドには劣るかもしれないが、早くあの砂浜で寝たい。
海岸に近づき、足がつくようになる。波に押し出されるように俺は浅瀬を歩いた。視界は澄んでいた。完全に海水から上がる前に俺は見ていた。今日の俺の寝床になる砂浜でも、島では見かけないつくりの小屋でもなかった。数十メートル先の光景がよく見えた。どうして俺の目は夜目が効いてしまったのか。
小雨が降る暗がりの中、しばらく眺めていた。
男たちがいなくなった後、浜辺に上がり、近づいた。
そこに立ち尽くした。
なんて不釣り合いだろうと思った。相手に悪意があってもなくても、行為自体は変わらないはずなのに。ましてや俺たちの頭の中には鎮静成分があるのに――涙の痕は見えないのに泣いていただろう顔つき――表情はない。
何かが、動き疲れ温まっている身体の中を急速に冷やしていった。
縦割れした画面が四角く均等にちぎれていく。
その横で、服を着ていないあの日の女が、事後とは思えない空っぽな目で、何処かを見つめていた。俺にはそれが何処だかわかった。俺だけが唯一見ていたからだ。彼女がフェンス越しに俺に訴えたときの表情、視線、姿勢――。
今の彼女にそれはない。きっと身をもって思い知ったのだろう。
此処はまだフェンスの内側なのかもしれない。
フェンスの内側に来てしまった。
それ以上だ。




