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あの手紙の最後の言葉が離れなかった。小雨の降る海の真ん中でもがいてみても、息を吸うことに精一杯になっても。知りたい程度の欲求なら地下室で寝ていた方がましだったとしても、きっと暗闇の中で、何度も、何度も、まだ聴いたことのない声を想像した俺の脳が馬鹿みたいに手紙の差し出し主の声で連呼して、離れなかったはずだ。
何の考えもまとまらないまま俺は地下室を出た。天井に植え付けられていた懐中電灯を引っ剥がし、懐中電灯の下にあった小さな取っ手を引いて、地下室の天井裏にあった通路に出た。しばらく進むと、比較的広い踊り場のような空間に出た。傾斜を滑るように降り、懐中電灯を照らすと、そこら中に穴が見えた。蟻の巣をでっかくしたらこんな感じかもしれない。きっと、穴はフェンス内の家屋分あるに違いない。
穴は、俺が降りてきた側に集中していた。進むべき穴が一つ、その反対側にある。
どれくらい匍匐前進と四つん這いを繰り返し、しゃがみながら歩いたかわからない。湿った土の臭い、感触。遠くの方から聞こえてくるかすかな音と、風が俺の心を急かした。このときばかり、穏やかではなかったのかもしれない。昨日から何かしら頭が働いていて、考え事をしていることが多かったが、このときは違った。ただ脚を動かした。ただ手を動かした。進んで行った先の出口を想像して、進んでいる途中で生き埋めになるかもしれないと危惧して。進め。考えるな。どっちでもいい。だから早くその場所へ。通路の暗さに不安がなかったと言えば嘘になる。懐中電灯の暖色ひとつ。何処まで続いているのかわからない。結果的にその二つが俺の背中を強く押し、圧迫していた。
湿り気を多分に含んだ空気に触れ、懐中電灯の明かりを向けることでそこに水があるとわかった。このへばりつくようなねちっこい感触は、ただの水じゃない。
海水だった。外に繋がっているとわかった。ここから何メートル先まで泳げば海面に浮上できるのか。駄目だとわかっていながら懐中電灯の明かりを水面の奥めがけて照らす。反射が返ってくるだけ。耳を澄ます。わかりゃしない。
地下室からどれくらい進んだだろうか。フェンスのあったあそこから海岸沿いまでの距離。通路の向き、方角。無意識なのか、無謀な冒険はしないためか、安心して海面に飛び込みたいのかそんなことを考えていた。もしも、無謀な距離だと事前にわかったら、俺は目と鼻の先にある小さな海面に飛び込まないのか。またもと来た通路を戻ってあの地下室で眠りにつくのか。
どうやって死にたいか。死に方の違いでしかない。
海中で息が苦しくなる自分を想像すると、喉が苦しくなった。懐中電灯の電池が突然切れることを想像すると、全身に鳥肌が立った。心拍数が上がって、もがいて、壁に頭を打ち付け、血が水中で揺れ、沈んでゆく自分を想像した。
悪くない。
こんな死に方できる奴の方が珍しい。幸運だ。運命だ。昨日から運のいいことばかりだ。フェンス。浜辺。石段。広間。鉱泉。鉄橋と狼。そして、フェンスの向こう側――。
ふいに、すべてが初めから決まっていたような気がして、この先の結末も決まっているような気がして、俺がどんなに悩んで、様々な可能性を見出して、どんなに選択肢で迷おうと、結局、初めから同じレールの上を歩いていたことにされるような気がして。
身を任せるように。誰かの声に耳を澄ませるように。
想像した。
誰かの住んでいる場所。
誰かの食べているもの。
誰かが纏っている洋服。
どうしてそこに住んでいるの?
どうしてそれを食べているの?
どうしてその洋服を選んだの?
想像した。まだ見ぬ誰かの顔と、表情と、今立っている場所と、話している光景と、一人ソファーの上に腰を投げる姿と、疲れた顔や、愛想や、作った笑顔や、溜息と、そこに誰かが寄り添おうとする無声映画。
どっちでもいい、とは思わなかった。
会ってみたい。と、俺は通路内の、暗く深い、この海面に飛び込む行為に意味を付けた。




