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「まず一番最初に言っておくべき前提がある。お前たちの頭にはとある成分が入っている。これは、本島の人間にはないものだ。その成分がどうやって作られ、本当にそんな成分を作ることが可能なのかわからない。だが、この話を聞いたとき私は納得がいった。だからきっと、これから話すことは事実で、真実により近いはずだ」
「その成分は、どんな成分なんだ」
「性格を捻じ曲げるんだ。人には嗜好というものが存在する。これが好き、という感情で、それに対して身をもって親しみたいという感情とも言える。人間の中では至極当然の感情である。感情の種類は多種多様。その中でも、持っていることは許されても、使ってはならないとされている感情がいくつかある」
「例えば?」
「一番わかりやすいのは殺害だ」
「あとは?」
「わいせつな行為、みだらな行為。人前で裸体を晒すことや、生殖行為の強要」
「え? 生殖行為はともかく、裸を晒すって、わけわからないんだけど。狼のあんただって裸じゃないか」
「人間の世界での話だ。動物には許されても、人間には許されない。種族の中にもそれぞれ規則というものがあるだろう。狼にだって人間には理解できない規則がある」
「例えば?」
「狼は群れで行動する。群れの中に順位がある。縄張りがあってその中を行動する。まあ、人間にも似たような生態があるようだが、もっとわかりやすいのは、人は人を殺したら許されないようだが、狼は狼を殺しても許されないことはない。獣や魚、家畜は殺して喰らうくせに、同族だけは尊重するという生態は傲慢極まりない。確かに秩序は保たれるが、別種族からすれば理解できないな。とまあ、今はそこは論点ではない。とにかく、そういった規則があって、持ってはいても使ってはならないとされる感情を使ってしまった人間たちが頭に成分を入れられる。成分を所持した者たちは性格が歪み、真っ当な感情を持つようになる、ということらしい。
そもそも、成分を取り入れることで治るのであれば、ここまでする必要がどこにあるのだろうと私は思った。人間界で悪とされる感情をその成分ひとつで治せるのであれば、そうすればいいのではないかと別種族の私は思うが、人間の世界はそう簡単にもいかないらしい。悪とされる感情にも尊厳があり、成分の効果も確実ではない。よって、お前たちの頭にその成分が入っているという事実どころか、そんな成分が存在しているという事実は、本島の人間たちの周知ではない。彼らが知っているのは、この島にいるのは罪を背負った奇怪な人間たちだということ」
「罪……って」
「お前は、何らかの使ってはならないとされている感情を使い、罰せられた。人間界で言う犯罪。この島は簡単に言えば流刑地だ」
自分が罪を犯したと知っても、まるで現実味がなかった。どんな罪を犯したのか、思い出したくても思い出せない。そもそも裸でいることが罪だと知らなかった奴に何が思い出せるのだ。俺が罪を犯したのであるというなら、確かに成分を打たれ、性格が歪んだのだろう。俺の中に証拠はもうない。本島に行って「お前犯罪者!」と言われようと、ビデオを見せられようと、俺の中に実感はない。成分は打たれておらず、犯罪者、という張り紙が背中に貼られただけかもしれない。ビデオを見せられたら、「俺の意志ではない」と言うだろう。自覚がなく、無意識の行動でも、証拠がはっきりと収められていれば、人間界では罰せられるのだろうか。
どっちでもよかった。もう俺は、この真っ暗な地下室から一歩も動くことはない。唯一、気がかりがあるとすれば、狼の話したことが本当かどうか確かめたいという、この胸の動きを沈めたいということだけ。何も見えないこの部屋。何も見えないのだから何もないのだろう。俺の身体の存在すら否定してくる闇。そんな中での胸の浮き沈みだ。残りの猶予、真っ暗な部屋でも少しは楽しめそうだった。
「あまり驚かないな。これも成分の効果ってやつか?」
「どうせ死ぬんだ。俺はどこかの女と違って、死を目の当たりにして喚いたりしない。どれだけ否定されてもとことん最後まで聞いてやるよ」
「流石だな。その感情が成分を打たれる前のお前の中に在ったらな。まあいい。もしお前が本島に行くようなことがあれば、聞いてみるといい。そして、私が話したことと違っていたときは、もう一度ここにきて、裸で私の前で違ったよ、と教えてくれ」
その後も狼は、説明のつかないことについて俺に説いた。「世の中に説明のつかないことの方が少ない。同時に、世の中のありとあらゆるもの、森羅万象に意味なんてない。もしそれが解明不可能なのだとしたら、そもそもそれに大した意味などなかったということだ。大した意味などないものに意味を付けたのは誰だ。意味付けたそいつは言の葉に彩られる。性格に万化する。元は一つだったはずの種が、殻を破り、芽を出し、咲かせる。多種多様な模様をつけ、様々な知識、欲求によってアイデンティティが確立する。そもそも意味なんてないんだ。意味を見出したのがそいつだったからだ。そいつが見たもの、感じたもの、身につけたものを、誰かが見て、誰かが感じて、誰かも身に着け、新たな何かを生み出し続ける。地球ができた理由? お前が生まれるためだ。お前が私と話すためだ。別にお前じゃなくてもいい。どっかの知らない誰かがあいつと会話するため。人が生まれた理由……そうだな、七千年後に全知全能を持って生まれてくる赤子までの布石。死後の世界。そこは暗いか? 熱いか? 何かを感じ取れるような場所か? 暗いだろう。熱いだろう。一寸後にはそんなこと覚えていないだろう。いつの間にか音に気づき、いつの間にか感触を覚え、いつの間にか瞼の裏が仄かに灯り、真っ白な眩しさに目を細めている。喉の奥の方から何かが込み上げ、訳も分からず口を開いた瞬間、鳴き声と共にこの世界に初めて触れる。何か柔らかいものに抱かれながら、聞こえてきた音。お前だって、確かに産まれたんだ。いきなりこの島にひゅっと出現したわけじゃない。ちゃんと言語を覚え、知識があり、歴史を知った。この島に学校はない。お前は確かに本島にいた。服を着ていた。親がいる。名前がある。ちゃんと意味を与えられた。親が産まれた赤子を抱きながら名を呼んだ瞬間、お前は意味を持った。それがたとえ悪意に満ちていたとしても、確かにそのとき意味を持ったんだ。どうしてこの島の人間は服を着ないのか。どうしてこの島の人間に名前はないのか。善か悪か、またその両方かどちらでもないか。誰かがそれを望んだからに違いない。望め。意味を作れ。簡単には崩れないように小さな感情を一つずつ積み上げろ。ゆっくりでいい。着実でいい。長く、永く。熱が帯びてくる。気づけばほら」
――そうせずにはいられなくなっている――




