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小雨が降っていた。自分が今どこにいるのかわからない。もしかしたら潮に流されているかもしれない。視界は悪かった。まだ日は暮れていないが、曇天とこの小雨。俺の向かっているはずの本島の浜辺は姿を現さない。
あとどれくらい泳ぎ続ければいいのだろう。腕をこんなに回したのはいつぶりだろう。脚をこんなにばたつかせたのはいつぶりだろう。荒い呼吸をこんなに繰り返したのは初めてだろう。
このときすでに、俺の中には、あの島を抜けて海に飛び込んだ際の勢いと好奇心は失われつつあった。聞きたい確かめたいでいっぱいだった頭の中にもうその文字はなく、全身から込み上げる疲労感と怠惰で「つかれた」「もうやめてしまおうか」という文字が少しずつ象られ始めていた。
それでも泳ぎ続けた。視界は悪い。泳ぎ続けている理由を失い始めた。もうすでに誰かに確認したいという思いは俺の中から完全に消え去っていた。俺を動かし続けるもの。泳ぎ続けているには理由があるはず。ただ何も考えずに泳ぐなんてことがあるのか。疲れて普通ならやめているんじゃないだろうか。元々死ぬ運命だった。数日中に、飢餓で、目を開けても閉じても、何も見えない真っ暗な場所で、誰にも見られることなく死ぬはずだった。ならここで腕を止め、足を止め、泡の音に耳を澄ませながらゆっくり沈む身体に任せたまま、苦しい口をごばっと開いてしまえば一瞬の苦しみだ。いつまで続くかわからない飢えよりよっぽどましだ。
死に恐れはない。それは、狼も言っていたことで、俺が育った環境や、あの島が関係しているみたいだ。人はいつか死ぬ。それが遠いか近いかの違い。あの島の空気に触れてから五年後、あの島の人々はフェンスの向こう側に行く。彼らは従順だった。何度も見た。何度も俺は見ていた。何度も俺は見過ごしていた。それが日常の一部のように。そういうものだというように。当たり前のように。俺もいつかあそこに入るのだということを身に染みていないかのように。
俺はその日、フェンスの向こう側に入った。裸の人々に見送られ。大抵の顔に判別はつかない。フェンスの中に入ってフェンスの外を振り返ったとき、判別がついたのは髭面の男だけだった。彼とは少なからず交流があったという証拠だろう。彼はどんな顔をしているだろうと思い、ほんの数秒、彼の顔を見た。すぐにもう一度振り返り、フェンス内の路地を歩き始めた。歩きながら考えた。彼の表情はどんなものだったか。彼が拍手をしながら俺に向けていたものは、何だったのか。わからない。それがすべてだった。でも、彼の感情はわからなかったが、俺自身が抱いた感情なら言語化できた。
哀しい、とはこんな感情だったか。俺の顔からすべての表情と呼べる類の皴がまっ平らになる。見捨てられた、どうしてこんなに頬を震わせる。怖い、死ではなく一人で暗い場所にいることが。どうして。なんで。今までだってずっと一人だったはずなのに、こんなこと考えもしなかったのに、どうして今になってこんなことを――。
泣きたい、もうすでに頬を伝っていた。
小さくなったフェンスの方を見ると、人の姿は見えなくなっていた。いつにも増して青い空。馬鹿でかい入道雲も、この青い空になら映える。目を細めたくなる太陽の丸さ。真っ暗な場所に入るのだから、この際気にしようとは思わなかった。俺はこの空と雲と太陽の景色を、瞳に焼き付けてしまおうと太陽を数秒見続けた。馬鹿らしい。俺は、ちかちかする残像を見ながら、すぐそこにあった取っ手に手を掛けた。鍵が開く。地下への扉はすぐそこに在った。ドアから入った光のおかげですぐにわかった。俺の立っている影が、床と一体化した正方形の扉の上に重なる。しゃがんで取っ手に手をかける。ギイギイと鳴る腐りかけの正方形を押し上げ、下に続く階段を見たときには、背後の扉は閉まっていた。真っ暗だ。一瞬見た階段の作りを頼りに、ゆっくりと足を伸ばす。身体が中に納まると、頭上に押し上げていた扉をゆっくりとおろす。がちゃっ、と何かが閉まる音がした。構わず、階段をゆっくり下った。右足を付き、左足が右足と同じ高さに着いたのを確認すると、手を広げて周りに壁がないことを確認しながらニ、三歩進んだ。床にも何もないことを足で確認し、そこに腰を下ろした。ひんやりとした土の触り。匂い。俺はその場に仰向けになった。
やることが無くなった。寝てしまおうと思った。眠ろうと瞼を閉じる。閉じても、閉じなくても、頭は回り続けた。昨日の夜、狼と話したときの光景が真っ暗闇に蘇る。辺りは暗くて、月明かりだけが狼の姿を視認させた。俺はそこで眠りにつき、起きたときにはそこに狼の姿はなかった。
狼は、俺があの日、フェンスの向こう側で喚いていた女のせいで疑問に思っていたことをほとんど解決させた。狼がなぜそれを知っているのかは教えてくれなかった。「お前がもし本島に行ってこの島に戻ってくるようなことがあれば、そのときは教えてやろう」と言ったが、俺は別段、気にしていなかった。それ以上に、狼の発した話が衝撃だったのかもしれない。これが事実だとするなら――どうすればいいのかというのが本当のところだった。




