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褐色のレンガがアーチ状になっている。数十メートル置きにいくつも連なっている。アーチの端から端まで数キロはあるだろう。アーチを束ねることに失敗したのか、橋はまっすぐにアーチ上に寝そべっている。あの橋の上には何があるのだろうか。階段は見当たらない。誰も行ったことがないのだから誰も知らない。もし知っているのであれば、この橋を作った人だけだろう。その人が死んでいれば、橋の上に何があるのか誰も知ることができない。
青年の足元には、背の高い草が一面を覆う草原が広がっていた。見上げると、数十メートル上に橋のようなものが見える。そもそもこれは橋と呼べるのだろうか。橋とは、何かと何かを繋ぐもののはずだ。橋と思しきものの両端には山も道もない。
アーチ状の隙間から夕日が覗いている。夕日が沈みかけている。見通しのいい草原に低い夕日が丸く反射している。レンガ造りの橋は、草原に影を作る。こう見ると、橋ではなく、馬鹿でかい鳥居のようにも見える。というか、鳥居の方がしっくりくるはずだ。なのに、青年はこれを橋だろうと思った。
背の高い草が揺れている。肌触りの悪い湿った風が吹いている。草の音。揺れる音。風が吹いたがために聞こえる音だろうが、風が持ってきた音は、風本来の持つ音とはまた別の音も持ってきた。
青年は振り返る。風に流れる灰色の毛並み。アーチの穴から射した夕日の光が眼球に反射している。眼が光って見えるのは夕日のせいにも思えたが、おそらく、元から眼は黄色いのだろう。
青年は、四足歩行のそれに向かって何かを発した。番人の男の前で発したものとはまた別の言語を発した。
「珍しい人間だ。こんなところに来る人間は二種類しかいない。道に迷って辿り着いたか、それとも……」青年は無造作に振り返る。
「そいつを見に来たか」
まっすぐに耳を立てた狼は、ゆっくりと青年の足元に近づいた。
「人間ほど頑丈でありながら脆すぎる原子の結合体はない」狼は青年の足の甲を嗅ぎながら言った。「痛みというものを感じたことがないのに、それが痛いものだと知っている。痛みを経験すれば、尚更だ。痛みを避けて生きられる。ときに、自ら痛みを欲し、自傷に走るのは哺乳類ならではだろうか。知らんことだ」狼は口を開けた。
青年の足の甲にゆっくりと口を近づけ、歯を乗せる。青年の足の甲に粘液が垂れる。青年は身じろぎせず、狼の黄色い目をじっ、と見つめた。
「かみゃしないよ」狼は青年の足の甲から口を離した。「普通は、戦うか逃げる。本能的に。敵うか敵わないかを感じ取る。人間のお前が素手で狼に適うことはない。それを知っているはずだ。でもお前は逃げない。なぜだかわかるか」
「いや」
「死に対して悲観がない。食物連鎖上で、強い者に喰われて死ぬのはごく自然のことだ。だから恐れることではない、当然だ。と、意味づけている。育った環境が想像できるな」
「どうしてそんなことがわかる」
「そういう環境で育てばそういう奴になるからだ。例えば、お前が狼として育てられれば、歯が成長して兎を噛み切れるかもな」
青年には言っている意味が分からなかった。
「前に一人、ここで話した人間の女がいた。そいつは今のお前と同じように、足の甲を噛もうとしても逃げなかった。あの女は今どこで何しているんだろうな」
「さあ。島のどこかにいるんじゃないか。それか、だいぶ前ならフェンスの向こうに入ってるかも」
「本当にそう思うか?」
「何が言いたい。さっきから」趣旨が見えない。
「言いたいことは山ほどあるさ。お前に対してならな。どうせ明日閉じ込められて、近いうちに死ぬ運命にあるんだろう? ここに辿り着くのはそういう奴だ。なら冥途の土産に聞いていけ。お前が行くのは三途のどこだろうな。三途の川は、川か、海か。気になってんだよ。川みたいに狭くなさそうじゃねーか。仮に此岸に来るようなことがあれば教えてくれ」狼はゆっくりと歩き出した。青年はその背中を眺める。揺れる尻尾に導かれるように、脚が一歩前に出る。
日が暮れる。
「まあ、来ることはないだろうな」狼はぽつり、吠える。




