妖怪学校の特別授業
1
逢魔が時。山の稜線に太陽が沈みゆき、徐々に夜のとばりが一帯に降り始めるころ。
打ち捨てられた廃村の西の端、朽ち果てた校舎があった。木造の建物には植物のツタが絡みつき、内部の床板も青竹が突き破り、その隙間から背の高い雑草が逞しく茎を伸ばしている。窓枠や軒樋には大量の苔が繁茂していた。もう何年、或いは何十年と人の手が入っていないのは明らかだった。
そんな廃校舎で、今日も妖怪たちの学校が始まる。
教師役の天狗が教室に入ると、既にそこは様々な妖怪でひしめき合っていた。
山女は相変わらず髪が長く陰気だったし、唐傘オバケは赤錆だらけでボロボロの傘立てを棲家にしている。一反木綿がフワフワと天井付近を旋回し、図体のデカい餓者ドクロは体を折り畳んで何とか教室内に収まっている。それより更に大きなダイダラボッチがグランドから教室内を覗くと、沈みゆく夕日すら届かなくなり、真っ暗になってしまった。
「鬼火さん。一反木綿さん」
天狗先生が声を掛けると、「合点承知」と短く答え、それぞれ動き出す。一反木綿がプクーと巨大化し、教室を覆う。そして等間隔で鬼火たちが、その白布の前で煌々と燃え盛る。簡易テントハウスの様相だ。
妖怪たちから歓声が上がる。週に一度の学校の度、このコンビネーションは見られるのだが、毎度初めて見たかのように喜ぶのだった。
今日は算数のお勉強だった。数に強い小豆洗いがイキイキとしている。それとは対照的に、他の妖怪たちは開始十分で早くも飽き始めていた。
「天狗先生~、割り算って何の役に立つんですか~?」
窓から覗き込んでいたダイダラボッチが、間延びした大声(本人は普通に喋っているつもりだが)で問いかけてくる。窓ガラスがビリビリと揺れ、傘立ての中で白河夜船を決め込んでいた唐傘オバケが吃驚して跳ね上がった。
「そうだ、そうだー」
「体育にしよう。そうしよう」
「もう飽きちゃったよ」
異口同音に、算数ボイコットを唱える妖怪たち。天狗先生はこめかみに手を当てて、
「割り算は実生活でもとても役に立ちます。そうですね。例えば皆さんの内の三人が、木になっている柿を見つけたとしましょう」
噛んで含むような口調で答える。
「かきー!」
「たべたーい!」
「はいはい……柿は七個なっていたします。それを三人で分けると……このように、みんな二個ずつ採って、一つ余りますね」
柿に見立てたカラー磁石(これもプラスチック部が割れて傷みが激しい)を黒板にくっつけていく。三方に二個ずつ。真ん中に誰のものでもない余りの一つを置いた時、にわかに妖怪たちが騒がしくなった。
「オマエ! チョットマエ、アマッタヤツ、タベテタ!」
ニホンザルの経立がただでさえ赤い顔を更に紅潮させている。
「はん。こんな簡単な計算も出来ない方が悪いのさ」
答える山女に悪びれる様子はない。どうも、例題とほぼ同じ状況が以前に起こったらしく、その時は「平等に分けた」と言いながら、こっそり山女が余りの一個をくすねていたらしい。こうして分かりやすく図説され、経立は今になって騙されていたと気付いたのだった。
「カエセ! イシャリョーヲヨウキュウスル」
経立は怒り心頭で山女に飛びかかる。それをヒラリと躱してみせ、逆に小馬鹿にしたような笑みを浮かべる山女。
「また始まったよ」
お互い山の妖怪なのに、すこぶる仲が悪い。こうなると授業はシッチャカメッチャカ。こういうことは二人に限らず、割とよくあることで、妖怪学校の授業は滞りなく進むことの方が少ない。
天狗先生が仲裁に入りかけた所で、
「大変だー! 大変だよー! 人間だー!」
夜雀が飛び込んできた。彼女は今夜の哨戒当番だった。ここは人っ子ひとり寄り付かない秘境のようで、時折、廃墟美に魅入られた人間がやってくることがある。そういう輩が現れた時は、妖怪たちは息を殺して、立ち去るのを待つ。そうすると、一頻り写真などを撮り、勝手に満足して帰っていく。
だから一報を聞いたとき、誰もが今回もそんな類だろうと思った。
2
やって来たのは白髪の男だった。妖怪たちに人間の年齢の正確な所は分からないが、50代くらいに見える。ヨレヨレのワイシャツと、山道で汚れたスーツが、どうにもみすぼらしい。
(ずっとあのまま動かないよ)
男は廃村の中をグルグルと一周して、やがて村の北側にある大岩に腰掛けて動かなくなった。何をするでもなく、雑草が伸び放題になった(かつての)村の広場や、崩れ落ちた屋根瓦の残骸などを、ぼんやり見つめるだけだった。いや、その瞳は虚ろで、それらの景色すら頭には入ってきていないのかもしれない。
「もう終わろう」
不意に彼は呟き、岩を降り、フラフラと歩き出した。更に北に進んでいく。フラフラではあるが、迷いのない足運びだった。進む先には切り立った高い崖がある。
(やっぱり、あれ)
(うん、きっとそうだよ)
幾人か、頷き合い、やがて隠形を解いて、男の前に飛び出した。
「ばあ」
普通の人間なら心臓が止まるかというほど驚くはず。だが男は、少し固まった後、俯いて笑い出した。乾いた笑いだった。
「ついに頭までイカレちまったかな、こりゃ」
顔を上げ、もう一度妖怪たちを見るが、その瞳は静かだった。既に感情の揺れは収まっている。
「どうでもいいけどな」
男は迂回して妖怪たちを避けつつ、崖への歩みを止めない。
「そういやぁ……昔もこの村で河童を見たっけな。他の人たちも妖怪を見たって、何年かに一度は騒いでたっけ」
男は懐かしむように言う。それはどこか身辺整理の合間に漏れたような、或いは走馬灯を見ているような、危うい「遠さ」を感じる声音だった。地から足が離れかけている。
だが男の言葉に反応を示す者が居た。話に出た件の河童である。彼も隠形を解き、改めて中年男の顔を見る。
「あー! ノブくんじゃないか? すっかりオッサンになってるけど、その顎近くの大きなホクロ!」
ノブくんと呼ばれた中年男は、目の前に現れた緑色の肌をした妖異に、ようやく目の焦点を合わせ、その死んだ瞳に、わずかに光を宿らせた。
3
折谷信彦は四十年以上前に、この村に住んでいた。まだ西の炭鉱が生きていた頃、家族と共に引っ越してきて、廃鉱となって去って行った。この村の住人の殆どが辿った半生である。
「そうか、今や妖怪の村か。いや、昔から居たんだったな。俺が川で溺れかけたとき助けてくれた河童は、朦朧とした意識で見た幻覚か何かだと思っていたんだが」
折谷の近くに座る河童は、未だ少年の体躯だった。人の成長は早い。わずか四十年かそこらで、親と子どころか祖父と孫ほど年恰好が離れてしまった。
「あの時はありがとう」
「うんにゃ。ウチの川でドザエモンなんて、こっちもイヤじゃき」
カラカラと笑って。
「それに、折角救った命、お前さん自ら投げようってんじゃ、甲斐も無しじゃ」
「……」
折谷は気まずげに河童から視線を逃がす。天狗が腰蓑にぶら下げた徳利から、お猪口にトクトクと酒を注いだ。これでも呑れ、とばかりに折谷に差し出す。こういう時は人だろうが妖だろうが酒と相場が決まっている。
グイと一気に呷ると、折谷は目を見開く。こんなに美味い酒は吞んだことがない。
「どうです? 人の世にはない酒でしょう?」
天狗は空になったお猪口に、また酒を注ぎながら、
「ここは妖の郷。何を話しても人に聞かれることはありませんよ。人にはね」
悪戯っぽく笑ったが、天狗面の上からでは誰にもわからないのだった。
だが雰囲気は伝わったらしく、折谷も力なく笑った。決して明るい笑みではなかったが、それでも笑えれば人は少し力を取り戻せるのだ。
「そうだな……それも良いかもしれんな」
折谷は胡坐をかいたまま上体を反らし、掌を地面につけ、空を仰ぎ見た。光害とは無縁の、満天の星空だった。子供の頃、同じようにこの村で空を見上げ、星に手を伸ばしたことを思い出し、鼻の奥が熱くなった。
「妻を」
平坦な声を出したつもりだったが、唇が震え、湿った声が出ていた。
「妻を亡くしたんだ」
普段はおバカばかりやっている妖怪たちも、流石に神妙な顔で聞いている。
「この村で出会ったんだよ。幼馴染ってヤツだ。同じころに父親が食えなくなって、都会に越した。中学で再会した時は驚いたよ。そう言えば、アイツもこの村に居た頃、妖怪を見たって言ってたな。教室の傘立てから傘を取ろうとしたら、目が合ったんだそうだ」
そう言いながら、唐傘オバケを見やる。大きな舌で一つ目を隠すようにした。クスクスとした笑いが起こった。
「俺が言うのもなんだが、良い嫁だった。子供も独り立ちして、俺もあと数年で定年だし、二人で旅行に行こうかなんて話もしてたんだ。なのにパタッと逝ってしまった。いきなりすぎて、心の整理もつかねえ」
言いながら、折谷は涙ぐみ、やがてポロポロと大粒の雫をこぼし始めた。声にならない嗚咽が辺りに響く。誰も何も言わなかった。
葬儀を開いても棺を見送っても、墓の手配を済ませても、まだ実感が無かった。涙を流したのすら今が初めてだった。そのうちヒョッコリ帰ってくるのではないかという子供じみた妄想と、現実を見ろと囁く大人の理性の間で心が軋み、気付けば逃げるようにここまで来ていた。或いは無意識に妻を探しに来ていたのかも知れない。旅行計画の最初はこの村だった。見る所も泊まる所もないことくらい二人が一番よく知っていたが、それでも二人の出会いの場所を、この機に見ておこうと話していたから。
「だから、もしかしたら……妻が居るかもしれないなんて、バカな……バカなことを」
嗚咽交じりに、時折甲高くなったり、逆に篭って聞き取りにくかったりする声で、ぶちまけた。
最初に村をグルリと周回したのは、懐かしむより、彼の言うバカな妄想に縋ってのことだったのだろう。そして妄想は妄想に終わり、妻の姿はどこにも見当たらなかった。
真実、ただただ、折谷は妻を愛していたのだった。
「来ておるぞ」
突然、声が掛かった。折谷も妖怪たちも弾かれたように振り返った。禿頭の小柄な老人だった。だが得も言われぬ貫禄がある。
「ぬらりひょん校長!」
4
「お主の妻なら、ほれここに」
ぬらりひょんが指さす先には小さな人魂が浮いていた。鬼火ほど力強くはなく、吹けば消えそうな弱々しい印象だ。
折谷はフラフラとその人魂に吸い寄せられるように近づいていく。涙や鼻水で顔はグシャグシャのままだった。妖怪の王とまで言われる大妖ぬらりひょんが幽霊を引き連れて目の前に現れたとなれば、余人なら卒倒して然るべきところだが、折谷にはどうでも良かった。連れて来てくれたのが鬼だろうが神だろうが、妻の今の形がゾンビだろうが霊魂だろうが。大事なのは真偽のみだった。
「真希なのか?」
折谷の声に、人魂は返事するように微かに明滅した。そしてスーッと空中を滑るように彼の下までやって来て、頬擦りするようにした。
「残して逝ってゴメンね」
折谷は確かにその声を聞いた。もっと声が聞きたくて、生前と同じように話せると信じて、名前を呼び続けた。連れ帰ろうとした。
だが、人魂は少しずつ空へと昇っていく。折谷は必死に手を伸ばし、それは虚しく空を切り、それでも伸ばし、仕舞には壊れたバネ仕掛けのように跳ね回り、やがて膝からくずおれた。
もうどうやっても手の届かない高さまで昇ってしまった。
そこから一頻り、折谷は泣いた。天狗の言通り、見ている「人」が居ないとうのも、彼の心の枷を解き放った要因かも知れない。男が、人の親が、いい歳して、等と口さがない事を言うような者はここには居ないのだから。
「のう、お前さん」
涙が枯れ果て、しゃっくりのような息を繰り返すだけになった頃、ぬらりひょんは折谷に声を掛けた。
「輪廻転生を信じるかの?」
折谷は訝しげな顔で先を促す。
「明日、この村に猫が産まれる。もちろんこの村じゃから、普通の猫ではない。人の魂を宿すとされる化け猫じゃ」
「それって!?」
折谷の顔に驚愕と、わずかな期待のような色が浮かぶ。
「まあそう首尾よくいっているかまでは保証できんがな。今日に成仏した者だけでも五万とおるじゃろうて」
その中から化け猫に宿る魂とやらが、折谷の妻、真希である確率は単純計算では恐ろしく低いだろう。だが、折谷の中ではそれは確定事項だった。
「妻の生まれ変わりの猫が、明日」
5
折谷夫妻は、その昔猫を飼っていたことがあるし、そのとき真希自身も「生まれ変わったら猫が良い」と冗談交じりに言うこともあった。とはいえ、それに運命を見出すのは難しい。愛猫家なら一度は冗談半分に言うような台詞である。
だが溺れる者の願望は、やがて真実と錯誤し、信仰となる。ここに居る妖怪たちとて、見間違い、気のせい、嘘から出た真、そういったものを起源にする者ばかりだ。それらを信じる人の力が、彼等を存在たらしめた。
夜明けとともに、どこからともなく現れた化け猫の赤ん坊。化け猫は、その死も誕生も、誰の目にも触れさせない。そんな人間にとっては不気味極まりない存在でも、折谷は一片の躊躇もなく抱き上げた。小さな命が持つ体温が、折谷の心の澱を溶かしていくようだった。
「本当にありがとうございました」
帰る頃にはやさぐれた口調は鳴りを潜め、恩人たちへの感謝に、自然と慇懃になっていた。思えば河童に命を救われ、再会した妻と距離を縮めるキッカケとなり、そして今回また命を救われた。折谷の人生は妖怪に見守られていたと言っても決して過言ではない。
「それでは。皆さまもどうか壮健で」
猫を胸の前に抱いたまま、深々とお辞儀をして、山を下りていった。
「憑き物が落ちたような顔とは、ああいう顔を言うのでしょうか」
天狗が言う。するとすかさず河童が笑う。
「こんだけの妖怪に囲まれて、逆に憑き物を落とすたぁ、洒落が効きすぎじゃ」
その言葉に釣られて皆も笑う。授業に参加していなかった連中も騒ぎを聞きつけ、いつの間にやら集まっており、百鬼夜行の様相だった。
天狗は思う。人間とは不思議な生き物だと。儚く、己の事で手一杯なほど弱いハズなのに、更に弱い者を世話したがる。そして、そうしている間の方が何故か強い。信じる物とやるべき事。ではその人間たちの信仰の力によって永らえ、やるべき事がないまま徒然に生きる自分たちは、果たして強いのか。
予期せぬ来訪者のせいで、今日の授業は中止かと思っていたが、机上では学べぬ示唆を与えられたのかも知れない。いわば特別授業である。
折原の小さくなっていく背中を見つめる。子猫を抱えて歩く足取りは、昨夜彼ひとりで歩いていた時とは比べ物にならないほど確りとしていた。
山の稜線から顔を覗かせた赤橙の太陽が、彼らを、彼らの行く先を照らしていた。
「ところで……」
宙高く浮いて彼らを見送っていた一反木綿が口を開いた。
「あの猫には、妖気を全然感じませんが」
それは皆思っていた事だった。ぬらりひょん様が抑え付けておいたのだろうか。人の世に預ける以上、安全弁のような措置は必要だったのか。
だが、ぬらりひょんの答えは、全員をアッと驚かせるものだった。
「それはそうじゃろう。アレはただの猫じゃし」
「ええー!」
愉快痛快といった様子で、
「妖怪は人間を騙してナンボじゃろうて」
大口開けて笑うのだった。
了
構想段階ではもう少しホラー寄りの話にするつもりでしたが、プロットに起こしている間に何故か丸くなりました。