7月、君想
彼は私の前から消えた。突然の事だった
今まで当たり前だと思っていた出来事全てが幻想だった
いや、本来私たちは出会うべきではなかった。
私は、好きになってはいけない。と
彼は『恋などを語る権利は自分にない』と。
彼が私をどう思っていたか。
真実というのは誰も知る由もないのだ。
私に共感した女たちも、私を叱った女たちも
もちろん私の邪魔をしてこようとした女も。
始まりなんてものは些細なものだ。
全ては巡り合わせなのだ。
人間誰しもに時間というものは流れているもので
長らく凍ったように止まっていた私の時間を
一瞬で溶かしてしまうほどの男だった。
歳なんてただの生きてきた経験としか
言いようがないほど美しい男だった。
容姿を見ただけで私の体温は熱くなった。
目にかかるくらいの白髪混じりの黒髪。
凛々しい眉。吸い込まれそうな瞳。赤く色付いた唇。
19年生きてきた私の全ての語彙力という語彙力は
彼の美しさによって吹き飛んでいってしまった。
彼が選んで発する言葉のひとつひとつは
学という学が出ていて私の同世代の人間が
聞いていたら、理解し難いというか
今どきの言葉で言うと「まじウザイ」一択であろう。
彼の美しさ、話し方は私だけの輝きなのだ。
それがとても嬉しかったのを今でも覚えてる。
だからと言っていつまでも
キラキラ輝いているわけではない。
関係がより深いものに近付くにつれて
別の輝きに変わっていった。
19年間全く男という概念とは
無縁だった喪女の私にとって彼の存在は
眩しすぎる太陽のようなものだった。
私は熱狂的に愛を伝える方法しか知らなかった。
つまりは、ただのオタクなのだ。
こんなことを言ったら、また彼に「お兄さんね。笑」
と笑いながら怒られると思うが
彼は年齢的にはおじさんなのだ。
おじさんである彼は私からの熱烈な愛情表現は
どう思っていたのだろうか。
その感想を今となっては聞くことが出来ない。
彼は無趣味で感情をあまり表に出さない人だった。
真面目で無邪気。大笑いしたところを数える程しか
見たことがない。
共感も理解も必要ないが
2人だけの時間の彼はとても愛おしいものだった。
人生で飼い犬でしか持たなかった感情だ。
彼は10年一緒にいる犬に勝ったのだ。たった半年で。
こんな風に長々と言っているが、そう、半年なのだ。
私の人生全てを、彼はたった半年という期間で
虜にしたのだ。なんて罪な男だ。美しく罪な男。
きっとこれを読んでいる君は
彼を人気俳優、アイドルレベルで
想像しているかもしれない。
とても残念なことに道で普通に歩いている
中の下くらいのおじさんだ。
近付けばおじさん特有の匂いがするし
歌う曲も私とは全く違う。
いつかふたりで行きたいね 雪が積もる頃に。と
世代丸わかりの曲を楽しそうに歌うのだ。
恋は盲目と言う言葉は誰が言い始めたのだろう。
正しくそうだと思う。
ずっと好きだったアイドルよりも遥かに
私のおじさんはキラキラして見えているのだ。
ここでは自由だからと
「私の」と言ったが決して「私の」ではない。
彼はいつも笑って誤魔化した。
その笑った顔が世界で1番嫌いだった。
そんな顔を見てなお愛しく思っている
私自身の方がもっと嫌いだった。
私は一生彼という存在を忘れることは無いだろう。
こんなに人を愛し、楽しい、悲しい
幸せ、辛い、全てを知る機会はもうない。
人は運命の人が2人いるという。
1人目は愛することと失うことを知る。
2人目は永遠の愛を知る。
私は1人目も2人目も彼が良かった。
そう、全てが初めてだったのだ。
目を覚まし愛しい寝顔が隣に寝ていることも
朝ごはんは目玉焼きが良いとリクエストされることも。
仕事終わり家に帰るとベッドで彼が眠っていることも。
夜中手を繋ぎ酒に酔った彼と散歩することも
狭い浴室で2人で歯を磨くことも
今まで毛嫌いしていたリア充たちがしていることを
私もちゃっかりしていたのだ。
だが、私は彼にとって1人目でも2人目でもない。
私より長く生きる彼の何人かのうちの一人なのだ。
歳は経験と大口を叩いていた私が
年齢で悩まされたのだ。
1人目になりたかったわけじゃない。無論2人目でもない
ただ彼の人生に強く残っていたかった。
私だけが根強く忘れないなんて、純粋に寂しい。
遠く離れてしまった今
彼は私のことを覚えているのだろうか。
私は人生20年目になったぞ。
20年。彼と過ごした時間の何倍だろうか。
今は誰を大事にしたいと思っているのだろう
私は口が上手い彼に長らく
騙されていただけなのだろうか。
もし本当にそうだと言うのならば
あと1つ頼みを聞いてくれないだろうか。
もしも願いが叶うなら
もう一度私を騙しに来てほしい。
もし来てくれるなら
その時はまた間抜けな顔をして
君を愛し続けよう。
今までありがとう。幻の君。
さよなら。19の幸せな私。