男爵令嬢の義妹
──ぎりぎりと、ノアは、親指の爪を噛んだ。
あの舞踏会で、自分は華々しく社交界デビューを果たし、その頂点に君臨するはずだった。爵位も持たない両親が死んで遠縁の男爵家に引き取られてからというもの、自分の人生は、この上なく順風満帆だった筈なのに。
冴えない義姉と違って華のある自分を、周囲はこれでもかと持て囃した。別段興味もなかったが、義姉が可愛がられるのは気に入らなかったので、義姉と仲の良い人間は、片っ端から排除していった。実子の筈なのに自分より蔑ろにされる義姉を見るのは、気分が良かった。
婚約者も、懇意のメイドもボーイも、全部奪ってやった。それからも毎晩毎晩義姉の部屋を訪れて、毎日嫌味を浴びせてやった。日に日に窶れていくのを見るのが面白かった。
綺麗なドレスを着て、義姉に引っ付いて勝手に社交界に赴き、周りの男の子を引き連れて歩くのが、堪らなく気持ち良かった。ちょっと声をかけるだけでみんながついてくる。一緒になって義姉を虐めてくれるのも、優越感があってよかった。
欲しいなと思ったものを、みんな勝手に調べて、自分に贈ってくれる。何度も同じドレスを着て恥ずかしそうに社交界に出席する姉の後ろで、凝ったデザインのドレスを着て、流行りの扇子で頬を扇ぐのが特に良い。
だからあの日だって、そうなる予定だった。
公爵の息子が、あの日の舞踏会に参加するのは知っていた。だからその子もハーレムに加えて、今よりもっと贅沢をしようと思った。年下なんて趣味じゃないけど、お金と地位があるなら話は別だ。
だってなんだか、最近みんな、プレゼントの質が悪いんだもの。足りないなら家のお金を持ち出せばいいのに、何だかみんな歯切れが悪い。顔色も悪い気がする。
ノアの思った通りハーレムの子息たちは、ノアにプレゼントを贈る余裕が無くなっていた。何故ならハーレムのうちの殆どは、ロイがルートヴィヒ家に持ち込んだ資料によって違法売買を告発され、今にも爵位を奪われて市井に落とされる直前だったからだ。
彼らはプレゼントどころか、自分が明日食べるものすら怪しい。けれどもそれを信じたくなくて、今日もノアに付き従っている。ノアが虐げるメアリを自分たちも糾弾することで、心が暗く救われる気がした。
それが、ああ、全てあの女のせいよ!
ノアは再び、爪を噛んだ。あの舞踏会から二週間、ついにハーレムは一人もいなくなってしまった。真っ青になった義理の両親が横領だの違法取引だの言っていたけれど、そんなことがノアに何の関係があるというの。
その金で買われたものだからと、プレゼントも全部取り上げられてしまった。勝手に悪いことをしたのはあの人たちで、ノアはなんにも悪くない筈なのに。羽振りが良いことだけが取り柄だった義理の両親は、あれから何も買ってくれない。毎日何かに怯えている。
公開プロポーズをされたメアリは、嫁入り道具も何も持たずに、サッサと公爵家に嫁いでしまった。自分がそこにいる筈だったところに、見下していた冴えない義姉がいるのが、ノアには耐えられない。
「……ッぁあ! もう!」
ガシャン、と、ティーカップを壁に投げつける。紅茶を淹れ直してくれるメイドも、ご機嫌を取ってくれるボーイもいない。どこにいったのか興味もない。
「誰か! 誰かいないの!?」
ノアは知らなかったが、男爵家に新しく入ったノアの召使い達は、あの舞踏会の日からぽつりぽつりと、行方不明になっていた。いつも決まって忽然と消え、直前まで彼らのいた場所には、一枚のメモが残されているのだ。
そこには一言、「次はお前だ」。
なまじ男爵家の人間は、夫妻を含めて皆、メアリに対する態度への自覚があった。おかげですっかり、次は自分の番かもしれないと、毎日怯えて暮らしていた。……ノア以外は。
「誰か! ックソ……誰かいないのかって、言ってるでしょ!?」
人を呼ぶために設置されたベルを、ノアはけたたましく鳴らす。今まではこれを鳴らせば必ず誰かが飛んできて、ノアの願いを一つ残らず叶えてくれたのに。
ノアはイライラと、自室のドアを開け……そして、ばたりと、その場に倒れた。
ノアが目覚めたのは、硬くて冷たい石の部屋だった。起き上がろうとするけれど、何かに縛られてうまく動けない。それでも何とか動いていると、後ろからくぐもった声がした。
「ママ……?」
何とか首をひねって振り返ると、そこには自分の、義理の母親が倒れている。義母が頭を動かすと、後ろ手にされた自分の腕も引っ張られた。そうして自分の腕を縛っているものに気付き、ノアは血の気が引いた。
「やだ、気持ち悪い!」
ノアの手首を後ろ手で縛っているのは、他ならぬ義母の髪であった。複雑に編むように絡まった髪の毛は、手首を捩るとギチギチと食い込んでくる。何本かは抜けて、皮脂で肌に張り付いていた。
嫌な予感がして足元を見ると、そちらには義父が倒れていた。どうやらこちらは悪趣味な絡ませ方はされておらず、取り敢えずホッとする。暗闇に慣れた目であたりを見回すと、ここにいるのは自分と義両親だけではなく、見知った顔ばかりのようだった。
「なに……?」
意識して聞くと、部屋のあちこちから、呻き声や泣き声が響いてくる。恐る恐る目を凝らして見て、ノアはその行動を後悔した。
「なに、……なによ、これぇ……!!」
初めに目に入ったのは、義姉から奪った婚約者が、義父と「縫い付けられている」姿だった。互いにズボンを剥ぎ取られて、太もも同士を、いくつもの蝶番のような鉄板で繋ぎ止められている。焼き印の要領で埋め込まれたらしいその鉄板は、夥しい火傷の痕をくっきりと広げて、痛みでもがくことすら許さずに鎮座している。
よく見れば自分の手首を髪で縛っている義母も、目鼻口を全て灼かれて、二度と開けないようにされていた。声がくぐもっていたのはそのせいだ。身体には打撲痕のようなものがいくつもあって、左脚は、曲がらない方向に曲がっていた。
部屋の隅に転がっているハーレムの一員は、屋敷のボーイのうちのひとりと、互いの首にかけられた鎖で繋がれていた。ただし、鎖は天井の梁に掛けられているので、片方は常に宙に浮くことになる。そして今、ぶら下がっているボーイは、ぴくりとも動かない。
裸に剥かれたメイドの一人は、体中の皮膚を、細かく蝶の形に削られていた。薄皮だけ剥かれた傷からは血が出ないまま、けれども石の床に傷を擦ったのだろうか、土や砂が鱗粉のように付着している。比較的傷自体は浅いので、先程から聞こえるすすり泣きは彼女のものらしい。
「なに……なんなの、なんなの……!?」
部屋中見渡す限り、そんな様子だ。先程のメイドがその声に気付いたらしく、泣き腫らした目をノアに向ける。
「……だ……」
「な、なによ……」
彼女の声を皮切りに、転がって呻いていたボーイも、髪を振り乱して泣き叫んでいたメイドも、畦息を漏らしていたハーレムの子息たちも、一斉にノアの方を向いた。どの目からも、とっくに正気は失われている。
彼らの唇は、おどろおどろしい怪我に爛れながら、一心に何かを呟いている。狂ったように、同じ言葉を。
「お……だ」
「おま……の……だ」
「おまえのせいだ」
「おまえのせいだ」
「おまえのせいだ」
「なに!? なによ!?」
やがてそれは輪唱の域を超え、ぴったりと揃って響き出した。ノアは耳を塞ごうと腕を振り回した。義母の髪がブチブチと千切れ、皮膚に食い込んで細く裂いていく。
そうこうするうち、体中に蝶を刻まれたメイドが、ノアの腕に手をかけた。何本かはもげているが、伸びて鋭くなった爪が、ぎちりと刺さる。
「いったい! 痛い、ねえ、やだ、離して! 離せよ!」
ノアはずるずると床を這って自分に近付いてくる人々から逃れようとするが、その度に身体の何処かに傷がつく。体に掛けられた腕はどんどん増え、中には噛み付いてくる者も居た。
「やだ! 痛い! 痛いよぉ! 離せ! 離せ……!!!」
ノアが泣き叫ぶのも気にせず、人々はノアに覆い被さり、思い思いに彼女を傷つけていく。それは彼らが傷付けられる時に、呪いのように、永遠にかけられた言葉。
「君たちが今こうなっているのは、全てあの女のせいだからね」
その言葉が彼らの頭にひたすら反響し、そして、今、壊れたラジオのように繰り返される。
「おまえのせいだ」
「おまえのせいだ」
「おまえのせいだ」
「おまえのせいだ」
「おまえのせいだ」
「おまえのせいだ」
「やだ、やだぁぁあ……ーーっ!!!」
やがてノアの華奢な体は、かつてノアが従えていた人々に埋め尽くされ、その声も聴こえなくなった。
「……な、んですか、これは?」
「何って……メアリを傷つけた奴らですけど」
きょとん、と自分を見る婚約者に、メアリは目の前が真っ暗になるような目眩に襲われた。
ルートヴィヒ家に嫁いでひと月。ロイの甲斐甲斐しい介抱により、この二年ですっかり衰えた自分の身体は、何とか回復に向かっている。けれどもその間一度も実家から連絡がないのを気にして、軽い気持ちで皆がどうしているのかを尋ねたのが、この出来事の始まりだ。
両親はともかく、ノアが何も言ってこないのは不気味だった。彼女が欲しがったものを目の前でメアリに掻っ攫われて、黙っている筈がないのだから。不安で確認しただけのことだったが、ロイが見せてくれたのは先程までの、地獄のような映像だった。
「なん、なん……何なんですか、いまのは……?」
「ビデオというらしいですよ。東の国の技術で、過去に起こったことを映像化して残しておくことが……」
「そんなことじゃありません!」
バクバクと、心臓が跳ねる。ビデオというものも聞いたことがなかったが、もしそれが、本当なら。今の映像は作り物なんかではなくて、もちろん、お芝居なんかでもなくて……本当に、あったこと?
瞼の裏に焼き付くのは、変わり果てた知人たちの姿。気分が物凄く悪いのに、口の中はカラカラで、嘔吐するにも出来そうにない。そんな自分を心から労るように、ロイの手が撫でる。
その優しさが、とても、恐ろしい。
「メアリ……どうしたのですか?」
「どう、って……」
どうしてこの人は、何でもないようにそんなことを言うのだろう。本気で理解ができず、ただただメアリは戸惑う。
目の前のロイは、さっきまでと何も変わらず、優しく自分を見つめている。気分が悪そうな自分を案じて、眉を垂らして困り顔だ。その顔は、仕えてくれていた時と何も変わらない、よく知っているはずの顔なのに。
「……もしかして、僕の行動が、気に入りませんでしたか?」
何と言っていいのか分からずに言い倦ねていると、不意にロイがそんなことを言った。聞き返すのも怖くて、目線だけそちらに向ける。ロイはあくまでもメアリの気分を害したことだけが気になるようで、申し訳なさそうに言葉を続けた。
「生温かったですかね? すみません。けれど、これ以上、生きているのも気に入らなくて。……ああ、この後、部屋ごと埋め潰しましたから、全員ちゃんと死んでますよ。もしかして、気になっていたのはそれですか?」
この部屋、地下にあるんです、と、世間話のようにロイは言う。メアリはもう何も言えず、ゆるゆる首を振りながら、ぽろりと涙を流した。
「泣かないでください、メアリ。僕は貴女に泣かれるのに、一等弱いんです」
何もかも分からないが、今壊れ物に触るように自分の涙を拭うこの、年下の婚約者が、自分の周りの人々を手にかけたことだけはわかる。メアリは涙を止めることも、優しい言葉に応えることも出来ず、ただ呆然とロイを見つめ続ける。
……死ねばいいと、思ったことがないと言えば、嘘になる。ロイがいなかった二年間、何度も何度も、願ったことだ。全員死んでしまえ。自分を残して、全員、手酷く報復を受けろと。
それが彼の手で実現したことが、今、こんなにも恐ろしい。
「メアリ。泣かないで……愛する人に泣かれては、僕はどうしていいのか分からなくなる……」
その声に俄に仄暗いものが滲んだのを感じて、メアリは何とか笑顔を作った。笑わなければ。こんなこと、何でもないと、強がって見せなくては。
この人は、また、何かを壊そうとしている。
「……大丈夫、です。大丈夫ですわ」
幸せだから。今自分は、この上なく幸せだから。何もいらないから。お願いだから、何もしないで。
震える声で何とかそれだけを告げると、婚約者はまだまだ幼い顔で、それでも花が咲いたように、にっこりと笑った。