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男爵令嬢の手紙

 彼と再び会った時のことを思い出しながら、今わたくしはこうして、手紙を書いています。こんなの、わたくしにとって初めてのことなの。ですから、読みにくくても、どうか許して頂戴ね。


 冷遇という言葉をそのまま現実に落としたような、そんな状況に、わたくしはいたわね。しがない男爵令嬢でしかなかったわたくしの立場が、それでも平穏だったそれから一変しましたのは、わたくしに義理の妹が出来てから。あの愛らしい悪魔が、我が男爵家に引き取られてからのこと。


 ノアと名乗った彼女は、まさしく神に寵愛され、怒りを免れて一人生き残る「ノア」だった。貴女も知っての通り、彼女は、わたくしから全てを奪い去った。


 あの子が初めに欲しがったのは、婚約者。次は幼少期からずっと仲良くしてきたメイドの貴女。貴女が僻地に飛ばされてしまった後、両親も、次第に彼女に絆され、わたくしの言葉を聞かなくなっていったの。瞬く間にわたくしは男爵家の一人娘から、忘れ去られた邪魔者となったわ。


 ただ一人の味方だった下僕(ボーイ)のロイは、わたくしが十五の秋、ロイが十になったばかりの頃、家を追い出された。幼いロイから住処と職を奪ったと自責をしてからというもの、わたくしはもう令嬢として……人として、真っ当に生活をすることを諦めた。


 まず、ノアの言うことを全て聞く、操り人形となりました。彼女が近付きたい者の前でノアを害して、同情を引けるように動いた。社交界でのわたくしの評判が落ちるのと反比例するように、ノアは「義姉に虐められながらも健気に振舞う少女」として、その好評を広めることとなったわ。その頃には最初に取られた婚約者を筆頭として、ノアには立派なハーレムが出来ていたのよ。


 わたくしは、それで良かった。何も持たなければ、奪われることはないのですもの。両親も、婚約者も、友人(あなた)も、弟のように可愛がっていた召使いも……全てをわたくしから奪い、わたくしを裏で嘲り笑うノアに。


 「お義姉さまったら、本当に、可哀想なんだから」


 彼女の口癖は今も、脳の裏側にこびり付いて離れないわ。ノアに言われるまま令嬢とは思えない行動を繰り返すわたくしの部屋を、毎晩訪れては、優雅に微笑む悪魔。


 「知っていらして? この時間、ノアはお義姉さまに折檻を受けているんですって。そんなことはないって、早く仰ればいいのに。……ああ、」


 言っても誰も、信じてはくれませんものね?


 もうずっとずっと前のことなのに、この言葉がずっと、わたくしの頭の中を木霊するのです。こうして手紙に書けば少しは気が薄れるかと思ったけれど、ちっともそんなことないのね。不思議。


 後ろ盾など無いわ。頼る者は藁の一本に至るまで全て、彼女にもぎ取られたのだもの。わたくしはそうして、十六歳の一年を過ごした。


 逃げようなどとも考えなかったわね。ノアはもう男爵令嬢としては不相応なほどにハーレムを拡大し、既にその口先ひとつで、わたくしの首を飛ばせるまでに成長していたのだから。わたくしはどうにかノアの機嫌を損ねないよう、それだけを気にして生きていたのよ。


 幻想が現実となったのは、わたくしが十七、ノアが十五の春。その日はノアが初めて正式に社交界へと初参加をする日で、わたくしも、その引き立てとして同行したの。


 爛々と目を輝かせて、爵位を持った男性に次々声をかける彼女の、わたくしは体の良いきっかけとなった。男性の方へ突き飛ばしたり、目の前で脚を掛けたり。その度にハーレムの方々や、狙いのご子息がわたくしを詰り、蔑んだわ。


 令嬢としての矜持など、もうすっかり削り取られていた。何年も前からずっと着古しているドレスにも、厚化粧に隠した痩けた頬にも、誰も気付いてくださらない。社交界でわたくしは、「気兼ねなく害して、下に見て良い存在」に成り下がっていたのだもの。


 何人かのご子息をそうしてハーレムに加えた後、ノアは、その日の主賓に目を付けたわ。その日は、かの有名なルートヴィヒ公爵が、十二になるご子息を社交界デビューさせると、まことしやかに囁かれていたの。ノアは優秀と名高いその子を手篭めにして、男爵家(わがや)よりずっと高い地位を得ようと企んでいたのね。


 ……いつ思い返しても、その時の衝撃は、わたくしの身を震わせるのよ。


 皆の視線を集める、一際小さな男の子。誰が見ても彼が、公爵の一人息子。ノアは、その方の前に躍り出ました。わたくしに突き飛ばされたと言うように、恨みがましい目線をこちらに向けて。


 何と表現すれば、あの時の気持ちを書き表せるのでしょうね。あれから既に一年が経つけれど、あそこで彼に再会していなければ、わたくしはどうなっていたのか……考えても、仕方の無いことかしら。彼が誰なのか、知ったらきっと貴女も吃驚するわよ。


 転ぶノアに目もくれず、わたくしを凛と見つめていたのは、二年前に我が家を追い出された下僕(ボーイ)の、ロイだったの。


 ロイは優雅な仕草でわたくしに歩み寄り、そしてわたくしの手を取った。すっかり成長しているけれど、それでも彼を見間違う筈がないわ。どうして孤児と名乗っていた彼がそこにいるのか、わたくしにはさっぱり分からなかった。


 (さざなみ)のように、その異様な光景は、舞踏会中に広まったわ。床に這いつくばったまま動けない美しい令嬢(ノア)と、同じく固まって動けないわたくし。ハーレムの男性方も、この時ばかりは息を呑んで成り行きを見守っていらした。そんな中、ロイだけはにこやかに、わたくしに、唇だけで告げたの。久しぶりですね、と。


 冷徹にも見えるその笑顔にわたくしが呆気にとられるうち、ロイはわたくしの手を握ったまま、注目の中心から飛び出しました。それからは、ああ、夢のようだった!


 ただの一度も、踊ることを許されなかった三年を掻き消すみたいに……目の前で起こったことを信じられず呆けているノアの目の前でわたくしは、幼いながら見目麗しく、名声を(ほしいまま)にする男性と踊ったのよ!


 誰がそれを止められたのかしら。わたくし達は静まり返ったホールの真ん中でたっぷり二曲、続けて踊り合った。それはこの公爵子息が、わたくしを「婚約者」として選んだのだと、誰の目にも明らかに映ったのでしょうね。


 ……冷静に思い返すと、中々に恥ずかしいことをしましたわね? けれども忘れてしまいたいと思うのと同じくらい、わたくしはこの記憶を、書き留めておきたいのです。面映いでしょうけれど、貴女くらいにしか言えないのよ。堪えて頂戴ね。


 彼女が……ノアが漸く立ち上がったのは、あまりに久方ぶりのダンスにわたくしが息を切らした、三曲目が終わった後のことでした。


 ただの一つも、欲しいものを取りこぼしたことのないノア。それがわたくしのものなら、尚更。それは、貴女もよく知っているわね。


 すぐにロイの腕に自分の腕を絡ませて、いつものように、愛らしい顔で、自分とも踊ってほしいと強請りました。わたくしはいつもの癖で、一歩引こうとしたのよ。


 けれども、ロイはそれを許さなかった。


 掌にぐっと力を込めて、わたくしのことを、抱きとめたの。わたくしはもう恥ずかしくて、何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。その場に貴女が居たら、きっとお腹を抱えて笑っていただろうなってくらい、おかしな顔をしていたと思うわ。


 ああ、もう、頬が熱くて堪らない。思えば、こんなに詳細に書かなくても構わないわよね? わたくしったら、どうしてこんなに、たくさん書いてしまっているのかしら。要点だけ、早く書いてしまうわね。


 今はね、わたくし、とっても幸せなのよ。ロイがわたくしを正式に婚約者だと発表してくれて、早い方が良いからと、わたくしをルートヴィヒのお屋敷に招いてくれているの。


 さっき聞いたわよ、貴女、ロイがわたくしのことを、好いているのを知っていたのですって? わたくしに黙って二人でわたくしの話をしていたなんて、そんなの、酷いわ。恥ずかしいったらないもの。


 令嬢に下僕が懸想するなんて許されることじゃないのに、貴女はロイを応援してくれたんですってね。それでロイは何とかして公爵家に養子入りして、わたくしを諦めなかったんですって。だとしたら、わたくしが今こうして幸せでいるのは、貴女のおかげだわ。本当にありがとう。


 ルートヴィヒの方々は、とてもお優しいのよ。けれどもみんな、わたくしのことをお姫様扱いするのが、とても慣れないわね。自虐じゃないけれど、わたくし、本当に、いないみたいに扱われていたのですもの。


 ……こんなこと書いたら、貴女にまた心配されてしまうわね。やっとほんの少し身の回りが落ち着いて、貴女に手紙を出そうと思えたのに。


 とりあえず、とてもとても長くなってしまったから、今回のお手紙はこれだけにしておくわ。最初は貴女にわたくしが無事でいて、幸せなことを伝えようと思っただけなのに、どうしてこんなに長くなってしまったのかしら?


 ガリガリに痩せてしまった身体も、少しは戻ってきたの。きっともうすぐ、貴女にも会えるわ。その時にはあの、ジンジャークッキーを焼いてくれる?


 お屋敷がもっと落ち着いたら、ノアに首にされた女中も下僕も、雇い直してくれるって、ロイは約束してくれたの。……もし、貴女さえ良ければ、それも、考えていてくれると、とっても嬉しいわ。


 そろそろ本当に終わりにしようかしら。久しぶりにこんなに長いお手紙を書いたから、すっかり疲れちゃった。


 ロイがわたくしを呼んでいるわ。彼、年下だからか、ちょっぴり甘えん坊なの。内緒よ。


 親友の貴女とも、再会できるのを、楽しみにしているわ。


 いつでもいいから、きっとお返事を頂戴ね。







「メアリ?」


 暗くなり始めた室内にランプを灯し、ロイは、机に齧り付く自らの婚約者に声をかけた。


 婚約者……メアリは、パッと花が咲いたように振り返る。下僕として彼女に仕えていた頃から、ロイは、彼女のこの笑顔が、堪らなく好きだった。


「何をしていたのですか? ランプも点けず」


「ごめんなさい。つい夢中になってしまって」


 言いながらメアリは、机の上の羊皮紙をそっと背中に隠した。ロイはにっこり笑って、それを素早く奪う。


「あっ! ちょっと!」


 愛らしくメアリが取り返そうと動くが、体格差のあった三年前ならいざ知らず、十三になったロイの体格は、小柄なメアリとほぼ変わらない。おまけに長年の不摂生ですっかり細くなってしまったメアリが、ロイに適うはずもなかった。


 ロイはざっと、今しがた奪い取った手紙に目を通す。メアリが一生懸命に邪魔をしてくるが、子猫が戯れるより御しやすい。程なく、全て読み終えてしまった。


「ふふ。見られたくない理由が分かりました」


 ランプに照らされたのではない赤が、メアリの頬にポッと差す。ロイは長い羊皮紙をくるくるとまとめて、丁寧にポケットにしまい込む。


「こんなに長い手紙を書かなくても、アリサには、僕から要件を伝えておきますよ」


 この手紙の宛先であるアリサは、ロイより先にノアによって、僻地に転勤させられた女中だった。面倒見の良い姉御肌で、ロイも、下僕時代には、よく相談に乗ってもらっていたものだ。


「そんな。ロイだって忙しいのに、そんなことさせられないわ。そのお手紙は、わたくしがちゃんと出しに行きますから……」


 困ったように遠慮するメアリに、ロイも困ったように笑った。この手紙を最後まで読まれたら、誰よりロイが困るではないか。ロイにとってメアリにしか明かすつもりが無かったことが、ここにはしっかり書いてあるのだから。


「駄目ですよ。どうしてもというなら、僕が代筆します」


「……そんなに、アリサに甘えん坊って知られたくなかった? どんなにお仕事が上手でも、まだまだ可愛いところがあるのね」


 頑ななロイに、メアリが言う。こう言えばロイが怒って手紙を出してくれると思っているのだろう。ロイは少し目を眇めて、手紙を取り返そうと無防備になったメアリの腰を、ついと撫でてやった。


「きゃあ!」


「隙有り、ですよ。僕は確かにメアリより年下ですが、十分『男』なことをお忘れなく」


「もっ……もう!」


 咄嗟に少し距離を取ったメアリは、怒ったような顔をしたあと、不意に笑って、ぽろりと涙を零した。ノアに支配された男爵家では、絶対に掴めなかった未来だ。時折それがどうしようもなく幸せで、涙が出るのだと、メアリは言う。


 いじらしい婚約者がどうにも愛おしくて、ロイはそっと背伸びをして、涙で光るその頬に、口付けを落とした。

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