天地を喰らう2 諸葛孔明伝 〜ゲームを食らう〜
ゲームのあらすじだけで相当の紙幅を割いてしまいました。なんでこんな面倒な手順を踏んだのかというと、三国志をちょっとかじってる人ならもうお察しでしょう。
本作のストーリーは原作、「天地を喰らう」に、必ずしも準拠してません。いや、筆者は原作を読み込んでいないので断言できないのですが、多分してません。確か原作は三国志の序〜中盤辺りで終了したと仄聞します。そもそも原作はファンタジー風だったし。
では本作は全くのオリジナルなのかというと、どうもそうではなく、部分、部分に横山三国志や吉川三国志からの引用が見られます。後に知ったのですが。もちろん、それだけでもなく、ゲームのオリジナルな部分も多分にあるのでしょう。ここが重要なのです。
恐らく製作陣は自分たちの夢見た三国志のストーリーを、このゲームで具現化したかったのではないでしょうか。確かに、原典の三国志の物語は史実と共に救いがありません。それが大人なテイストとは分かっていても、やはり日本人は勧善懲悪が好きな民族なのでしょう。
そこでゲームという、比較的ゆるい媒体でならストーリーの改変をしても大目に見てもらえる、との、したたかな計算も透けて見えるのです。これが小説だったらまず世には出ないでしょう。バカバカしいと一蹴されます。(何かあるような気もしますが、怖くて読んだこともないのであくまでないという前提で進めます)漫画でもかなり怪しい。原作の「天地を喰らう」にしても、劉備が天下を取るなんて現実味のないエンドは無理だったと思います。でも、ゲームではそれが許されるのです。筆者はそこに大きな魅力と可能性を感じたのです。
ゲームはただの読み物ではありません。プレイヤーがキャラを操作し、一体化し、成長し、同じ体験をすることによって、あたかもキャラになりきったような感覚を覚えます。ゲームで戦っていれば、それは自身が戦っているような気分になり、勝てば実際に勝利の気分を味わえる。
兵糧がなかろうが、資金が乏しかろうが、国力、兵力ともに大きく後れを取っていても、自身の操作で勝てば、それだけで説得力があるのです。これは小説はもとより、漫画だって不可能です。
読み物では読者に納得させるための伏線や、現実的な設定を用意しなければなりません。それも甘ければ読者を納得させることなんてできやしません。でも、ゲームならそれが簡単に可能なのです。筆者はその事実を本作によって知らされました。ゲームは時に小説、漫画よりも説得力を持つということを。
しかし、ここまで製作陣に好きにやらせた原作者も相当な度量です。さすがに男の生き様を描き続けたお方はひと味違います。並の者ならここでいらぬ口を挟んでクソゲーになってたことでしょう。製作陣、原作者、そしてメーカーの足並みが揃って、ここまでの名作が生まれたのだと思います。