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動物園にて

作者: 野宮

彼はぜんぜんわたしのことなんて好きじゃなさそうで、わたしは彼のそういうところがちょっとだけ好きだった。わたしは『わたしのことなんて好きにならなさそうな男』を好きになる傾向があった。


 初めて会ったのは駅から自宅に向かうバスで、わたしと彼は同じバス停で降りた。それだけだった。男は鬱陶しそうな長い前髪をピンで留めていて、わたしはそれを見て留めるくらいなら切ればいいのにと思った。

 二度目に会ったのは近所のコンビニで、でもわたしたちは目を合わせすらしなかった。まだ他人だった。

 三度目に会ったのはスーパーに向かう道中で、わたしは信号の向こう側にいた彼と目があったような気がしたけれど、ほんとうにそうだったのかはわからない。


 町で見かける他人、以上の関係になったのは季節がひとつ切り替わったころのことで、彼はわたしがアルバイトとして働いている花屋に客として訪れた。レジに持ち込まれたのはありふれた仏花だった。どうしてか花を包む手が少し震えた。

 次に道端で遠くから歩いてくる彼の姿を認めたとき、わたしはどうしようかと少し戸惑った。戸惑っているうちにわたしと彼の距離はどんどん縮まって、ちら、と伺うように彼を見上げると思いがけず微笑みが降ってきたのでわたしは少しだけ驚いた。男は微笑んで少しだけ頷くような会釈をすると、そのままの速さで歩き去っていった。


 そんなことばかり、覚えている。気が付くとわたしたちは友人のような関係になっていた。あれから、どうやって会話をするようになって、LINEを交換して、やりとりをするようになったのかは思い出せない。思い出す必要も、特に感じないけれど。



 どうしてか、わたしと彼は比較的親密な飲み友達のようになった。

「今夜暇ある? 飯行きましょ」

 少なくとも月に一度はそんな連絡が来て、少なくとも月に二度はわたしが彼を食事に誘った。多くの場合それは近くの小さな居酒屋で、どうやって採算をとっているのか心配になるくらい安かったし酒は薄かったけれど料理は美味しかった。

 居酒屋の名物メニューでもある百合根の素揚げを半分ずつつつきながら、わたしたちはほんとうに他愛のない話をした。近くの幼稚園の送迎バスがかわいいとか。次の市長選に出るあの候補はやばいやつらしいとか。共通の話題が地域のことしかなかったせいかもしれない。わたしはときどき大学やバイトの愚痴を漏らしたけれど、彼が仕事や家族の話をすることはなかった。


 何をしているのかは知らないけれど彼は社会人で、たぶん年上なんだろうなとも思っていたけれど、結局彼がわたしに食事代を奢ってくれたことはなかったし、わたしが頼んだたこわさにわたしより早く手をつけた。けれど、彼が頼んだいちごサワーをわたしが勝手に一口飲んでも、サラダを自分の分しか取り分けなくても彼は何も不満そうにしなかった。自分の無躾さを許容してもらえることは、自分が他者のそれを許容するのと同じくらい心地よかった。



 彼についての記憶はいろいろなものが曖昧だけれど、初めて彼の部屋に行った時のことだけはきちんと覚えている。いつもの居酒屋に入ろうとしたら満席で、離れたところに行こうにもわたしは車を友達に貸していて、それを伝えると、じゃあうち来ますかと彼が言ったのだ。

「え」

「あ、でもいまうち食材ないわ。コープ寄ってこ」

「え、なに、作ってくれるの」

「何言ってんの、一緒に作るんだよ」

 まるでいつものことみたいに気の抜けた言い方をする彼に流されてわたしもそうかと落ち着き払って納得してしまったけれど、うち来ますかと言われてえっと思わず口から出た音のことだけは鮮明に覚えている。というか、最近になって思い出したのだ。あの瞬間、自分の声のせいでわたしが彼のことをはじめて男のひととして意識したことを。それまで、骨ばった手首とか、電話に出るときの低い声とか、硬そうなもみあげとか、濃い眉毛を剃って整えてある痕跡とか、そういうわかりやすい男らしさには目を向けたとしてもなんにも思わなかったのに。



 面倒な調理が嫌だからというだけの理由で鍋をすることにして、スーパーで野菜やら肉やら、角瓶と焼酎ならあると言われたので割材のソーダとジュース、それからロックアイスも買って、わたしたちはまるで二人暮らししている家に帰るみたいに彼の家に行った。学生向けのアパートより少し家賃の高い1LDKは広さと物の少なさのせいで一見綺麗そうだけれど、よく見たら隅に埃が積もっていたし、窓際にはからからの洗濯物が干しっぱなしになっていて、衣服を畳んで仕舞う文化がこの男には存在しないということがわかった。自宅とも実家とも違う、不思議な安心感があった。


 部屋の中で唯一存在感を示している大きなモニターで映画を見ながら鍋をつついて、わたしたちはいつも居酒屋で飲むのより濃い酒をいつもよりゆっくり飲んだ。彼は月額制の動画配信サービスに登録していたから、それから彼の家に行ったときはたいていそれを使って映画やドキュメンタリーを肴に酒を飲むことになった。映画が終わったころになると彼は鍋の残りを翌日の朝食用に別の容器に移したりご飯を冷凍したりして、わたしは流しにたまった洗い物を片付けた。朝使ったのだろうと思われるパン屑が載った皿や、コーヒーカップもまとめて。台所をきれいにして、荷物をまとめて、それじゃあまたねとわたしが玄関を出るまで、わたしたちの動きには一切の迷いが無かった。初めてだったのに、まるで決まりきったルーチンをこなしているみたいな正確さだった。


 それが最初で、それからわたしはたびたび彼の部屋に行った。最初から宅飲みしようと決めていくこともあれば、外でご飯を食べたりしたあとに飲みなおそうと二次会感覚で行くこともあった。あんまり遅くなったときは泊まることもあった。今日泊まるね、とか泊まってく? とかいうやりとりなしにわたしの宿泊は決定し、わたしが台所を片付けている間に彼はリビングにわたしが寝るための布団を出した。隣県に住む彼の弟が遊びに来たときのために置いてある布団らしかった。

 彼が歯磨きしている間にわたしは干してあるスウェットを勝手に取り、彼の寝室の戸の陰で着替える。彼と入れ替わりに洗面所に行ってリステリンでうがいをして、男性用のやたらスースーする洗顔料で顔を洗ったあと、自分の鞄に常備しているニベアで保湿して布団に入るまでの澱みの無い動きは、思い出すたびにちょっと笑ってしまう。わたしが布団に入ったのを確認すると彼はリビングの明かりを消し、じゃおやすみと言って寝室に入っていく。寝室の引き戸は半分だけ開けられて、互いの姿は見えないけれど声は遮られなかった。部屋が真っ暗になってからもわたしたちはぽつぽつと話をしたけれど、たいていすぐにどちらかが寝付いてしまって長続きはしなかった。


 友達というには親密すぎ、恋人というには色気に欠け、家族というには水臭い、そんな関係をわたしはとても好ましく思っていた。彼本人のことも好ましく思っていた。わたしは一人っ子だったから、きょうだいがいたらこんなふうだったのかなと思ったし、しかしわたしの好きはちょっとだけ色っぽい意味も含んでいた。彼がわたしをどう思っていたかは知らないしわからないし、好意を仄めかすような言動をされたことは一度もなかったけれど。


 翌朝は朝食を食べて片付けをしてから解散するのが常だったけれど、ときどき、その日の予定がないときは再集合して一緒に出かけたりすることがあった。ランチだったり、映画だったり。そしてその日は、動物園だった。

「じゃ、二時間後に」

「うん」

 彼はわたしが部屋を出て行くのに、こちらを振り返りすらしなかった。


 家に帰ってシャワーを浴びながら、わたしは着る服を考えた。とっておきのワンピース、は最初から候補に挙がっていなかったけれど、少し前に友達がかわいいと褒めてくれていたスカートとブラウスの組み合わせが頭をよぎって、考え込んで、やめた。結局選んだのは、シンプルなカットソーとジーンズの組み合わせ。風呂場を出て服を着ると、髪を乾かしながら今度は化粧について考える。アイシャドウの色は茶色とオレンジのどちらがいいか。アイラインは長めに引くか否か。チークを入れるか否か。いろいろ考えながら化粧を終えたところで、わたしはちょっと腹を立てていた。わたしがこんなに気を揉んでいても、あの男はなんにも考えずに無地のTシャツぺろんと着て、なんにも考えずに黒いヘアピンで前髪留めて、玄関にふたつ出ているスニーカーのどちらかを突っかけて出てくるのだろう。

 わたしばっかり迷って、無駄とわかっていながら毎回ひそかに色のついた期待をして、そして毎回当たり前みたいに裏切られて、そのことに毎回安心していた。裏切られることがわかっているからこそ期待ができたのかもしれなかった。


 動物園に向かうバスは空いていた。二人がけの座席の窓側にわたしが、通路側に彼が座る。さっきまであんなに、まるで恋する女の子みたいに迷っていたのに、隣に座って肩や足が触れ合うことには特に何の感慨もなくて、わたしは自分の感覚がよくわからなかった。今でもやっぱり、よくわからない。


「動物園好きだったっけ?」

「普通。でも、たまに行きたくなるじゃん」

「一人で行けばいいのに」

「いい歳して男一人で動物園なんて恥ずかしいんだよ」

「知ったこっちゃない」

「でも来てくれるんだ」

「わたしは動物園好きだし」

 そんな、会話をした気がする。


 わたしは実際動物園が好きで、とりわけアフリカゾウの市子さんが好きだった。この男がそこまで知っているのかはわからないけれど。動物園に入るとわたしたちは無口になって動物を見つめたり走り回る小学生を眺めたりした。一時間ほどしたところで、先に音を上げるのはいつも彼のほうだった。

「疲れた。帰ろう」

「は? まだ半分も回ってないよ」

「君のペースが遅すぎるんだよ。暑いし」

「ええ……自分が来たいって言ったんじゃん……じゃあサル舎でも行ってなよ。わたしはまだ回る」

「はーい」


 大人しく従いはせず、そして一人で帰れば、ともいえないのがわたしだった。冷房が効いてベンチもあるサル舎はそのわりに人が少ないので彼のお気に入りだった。

そうしてわたしは動物園の残り半分をひとりで歩き回る。サイモンとガーファンクルの歌詞について考えたりしながら。

『サルは正直者みたいな立ち姿をしている』これは日本人のわたしにはあまり合わない考え方かもしれない。

『キリンは不誠実そう』別に、そんなことないと思うんだけど。

『ゾウは優しいけど喋らない』これはほんとうにそう。たぶん、あの歌の歌詞で一番共感できるのがこのフレーズだ。


 年老いたゾウはあまり動かず、ときどき鼻をゆらゆら動かしたり、歩いたり、通り過ぎる客に目を向けたりしていた。わたしは彼女のスペースの前に設置されたベンチに座って彼女の鼻の皮がところどころ剥けているのや、踏んだ糞や泥がこびりついてくすんだつま先や、何も言う気がなさそうな疲れた目が時折こちらを向くのを眺めるのが好きだった。

 他の客がいないのを見計らって、わたしはよく市子さんに話しかけた。誰かに聞いてもらいたいけれど、友達や家族には話したくないようなことを。たとえば、あの男のこととかを。

 いくつかの話をして、それと同じぶんの沈黙を受け取ったわたしは、それから、立ち上がって歩き出す。市子さんの目の周りの皺はときどきとても美しくみえた。


 コンドルや、トラや、フクロウを眺めて、アザラシの泳ぎに合わせて歩いて、何かを凝視しているようでいながらどこも見ていなさそうなペリカンの目を見つめて、それからわたしはサル舎に向かう。

 どうしてかはわからないが、彼はいつもリスザルを眺めていた。その横顔が綺麗なので、わたしは少しイライラする。会話の最中なんかにこちらを向く彼の表情はいつも基本的に優しくやわらかく整えられていたけれど、わたしはそれよりもこういうときの無感動そうな顔、この世のすべてが心底どうでもいいみたいな表情のほうが好きだった。好きだと思ってしまう自分が気持ち悪くてイライラした。


 ぱたぱた、とわざと足音を立てて近づくと、彼の肩はひくりと動く。こちらを向く時には、すでに穏やかな微笑みが顔に張り付いている。

「気、済んだ?」

「済んでない」

「あれ」

「でも、いい」

「なんかごめん?」

「別に」

 全然申し訳なくなさそうな顔で彼は立ち上がって、そうしてわたしたちは出口に向かって歩き出す。動物園を出て、二十分ごとに来るバスに乗り、最寄りのバス停で降りて、じゃあまたね、とあっさり解散。なんでもないような顔をしていたけどわたしはけっこう疲れていて、帰宅すると台所の床に座り込んで昼食もとらずにそのまま眠り込んでしまう。


 そんなふうにして、たしか四回。わたしたちは動物園に行った。

回るルートも、立ち止まるところも、彼が離脱するタイミングもバラバラだったけれど、毎回わたしは市子さんに話しかけ、沈黙を受け取り、リスザルを見つめる彼の横顔にイライラした。


 二つか三つの季節が過ぎるころまで、わたしと彼は友達だった。いつしか毎週のように会っていたのが月に一度になり、会わないまま二か月が過ぎ、三か月が過ぎ、気が付くとこれまでよく遭遇していたコンビニやスーパーでも顔を合わせなくなった。引っ越してしまったのかもしれなかった。連絡は来なかったし、わたしからもしなかった。嫌われたかな、と一瞬考えたけれど、たぶんそういうわけではないのだろう。わたしも、嫌いになったわけではないから。よくわからないままなんとなく友達になって、時を巻き戻すようになんとなく友達でなくなった、それだけだ。ただ、わたしたちの関係は完全な他人同士には戻れなかった。つまり、今になってもわたしはときどき彼を思い出す。深夜のファミレスで濁ったBGMを聞いているときや、テレビでリスザルを見たときや、コンパで行った居酒屋のメニューに百合根揚げを見つけたときなんかに。

 彼と会わなくなってから、件の居酒屋には行かなくなった。一緒に行ったラーメン屋、ファミレス、雑貨屋には今でもひとりで行くけれど、例の居酒屋と動物園、この二か所だけは、なんだか行きたくても足が動かなくて、行けなかった。一人で行く気にならないのはもちろん、誰かを誘っていこうという気にもなれなかった。


 仕方がないので、わたしはときどき目を閉じる。そして、市子さんを思い浮かべる。しわの美しい目元や、よく見ると毛が生えている表皮や、やわらかくうごく鼻を。ほかに、彼についての話を聞いてもらえる相手はいないから。

 市子さん。あいつは元気にしてるだろうか。相変わらず服は部屋に干しっぱなしなんだろうか。

 市子さん。もしかしてあの男、彼女とか作ってたりするのかな。ちょっと笑っちゃうな。

 市子さん。百合根の素揚げが食べたいんだけど、あいつ以外の誰かとシェアするのはなんか癪なんだ。

 市子さん。


 市子さん。

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