08:SG
ブラックスクロファ出現により荒砂山に天進橋駐屯地の第一中隊が来た。200人ばかりのSGから構成されている。これら調査団は兵学校の体育館に調査本部を設営し、ヘルメットを冷たい雨に濡らしながら、山中を練り歩いた。
この日だけ、午後の軍事教練はない。教室で一般授業であった。一般授業は、兵科科目を主として、高校生と同じような社会科目や数学科目ぐらい――。
22期生たちは教室の窓越しにSGの1個分隊を見ている。
片岡進之介がSGに詳しい。この地肌の浅黒い188cm91kgの高校球児のスラッガーのような一等兵学生は、日々、筋力トレーニングに明け暮れる者ながら、姉が3人もいるせいか口調がそれっぽさをにおわせてしまう。
「特殊保安群はね、通信衛星を1個飛ばしているんだよ」
と、洋瑛の幼なじみの「チビ圭」こと軽部圭吾を相手に語る。
「でもね、特殊保安群の衛星は通信専用でさ、陸軍海軍の衛星みたいに高性能カメラは搭載されていないの」
オタクである。
「授業中に教練場にいたSG分隊もね、1人だけ背中に大きいアンテナ機械を背負っていたでしょ? きっとあのSGは圭ちゃんと同じ背中のトランセンデンスだよ。あのアンテナが衛星と交信しているんだ」
圭吾は「背中のトランセンデンス」ではなく、筋肉の持久性に富んだトランセンデンスであるが、筋トレ馬鹿の片岡はチビの圭吾のほうが筋肉マシンであることがおもしろくないので、筋持久の言葉を使いたがらない。
「腕時計みたいなスマートデバイスは、SGだけじゃなくて、陸軍とか警察の特殊作戦部隊も着けているけどね、HMDはSGだけなんだよ。HMDは衛星通信されていて、衛星アンテナの基地局を立てれば通信できるけど、ブラックスクロファ1匹だけだから、基地局を立てるほどじゃなかったんだね、きっと」
圭吾はふんふんなるほどと言った具合でうなずいていたが、幼なじみの洋瑛が片岡を「気持ち悪い」と言ってその口調と嗜好性を毛嫌いするのが圭吾にもわからなくはない。「ホモ野郎」と洋瑛が罵倒する片岡の口調はともかくとして、兵学校で習わないことを得意げに伝えてくるオタクの部分は、なかなかわずらわしい。
そんな小難しいことよりも、兵学生たちの胸をときめかせたものは、
「腕にワッペンがあった」
エンジェルワッペンと俗に言う。
「俺も早くワッペン付けたい」
片岡も最後にはそう言う。
SGの迷彩ジャケットの腕に括りつけられている。天進橋駐屯地部隊を示すワッペンである。天進橋の橋げたが刺繍で描かれており、その橋げたの上を天使が飛んでいる。この翼の生えた天使は、迷彩ヘルメットを被っており、小銃も腕に抱えている。
Group of Heven’s Bridge
ワッペンの円縁には天進橋駐屯地部隊を示す文字刺繍とともに、SGのモットーも並べられている。
wisdom tooth, to my mother
親知らずの歯を母へ。
親知らずの歯は成年期になって生えてくるという。永久歯は父母に見守られているうちの幼少期にたいてい揃うが、不必要なこの歯だけは成年期、父母の知らない時期に生えてくる。
なので、「親知らず」の歯なのであるが――。
SGが「wisdom tooth, to my mother」を標語に掲げているのは、いつでも死ねる覚悟を表している。
トランセンデンスは平均寿命が28歳であり、SGの大半の父母もトランセンデンスである。つまり、トランセンデンスがSG隊員になったときには、もうすでに父母がいない。
親知らずを母に届けるには、天に進む橋を渡っていかなければならない。死ぬしかない。
この悲愴に満ち満ちたエンジェルワッペンこそ、SGの象徴であった。
トランセンデンスという人類の選ばれし者が、将来や自由を捨て、厳しい訓練を乗り越え、己の短命、宿命を受け入れてこそなお、その先の栄光を求めてやまない証明が、エンジェルワッペンであった。
兵学生たちは、このワッペンを直接に見たことがない。天進橋駐屯地のSGを拝む機会はまったくなかったのである。田中中尉や笹原少尉もSGではあるが、教官なので、天進橋駐屯地部隊のワッペンを掲げていない。
荒砂山22期生のこの日の感心事は、それであった。ブラックスクロファが出現した一大事よりも、天進橋を飛び越えてきた天使たちであった。SGの象徴たるエンジェルワッペンは、学生たちからすると、千年の眠りから目覚めた秘宝のようなものに近い。
そもそも、牛追坂駐屯地や黄羽駐屯地に飛ばされるSGのあぶれ者は、このエンジェルワッペンを縫いつけられない。
いつか自分もエンジェルワッペンを――。
「あんなワッペン、釈迦堂のバッタ屋に売ってたぜ。ただの糸の集まりだってのに、バカくせえ」
異物は寮の大浴場で反吐を垂らすかのようでいた。
洋瑛の背中をタオルでこすっていきながら、吉沢は笑う。
「自分の活躍がSGに持っていかれたからすねているだけだろ?」
入浴の時間は集団で統一されている。筋肉に張りのある素っ裸が男子浴場を埋め尽くし、浴槽は芋洗い状態である。
背中を洗い流し合っているのは、洋瑛や吉沢だけではない。洗い場で自分の隣に腰掛けた者の背中を流してやるのは、兵学生たちの自然的な流れ作業になっている。
吉沢は洋瑛の背中に湯を流してやれば、
「吉沢さん、洗いますよ」
と、雪村章介に声をかけられる。雪村が吉沢の背中を洗い始める。
体を洗い終えると、洋瑛は浴槽には向かわない。脱衣場に向かう。
「風呂に入らないの?」
と、吉沢は訊ねる。洋瑛は無視する。蒙古斑がようやく消えた尻を掌でぺちぺちと叩きながら脱衣場へと消えていく。
「近田は入れないんですよ」
雪村が教えてやる。
「あそこに座っている奴」
と、雪村は吉沢の視線を大浴槽のへりで腰掛けている学生に向けさせる。
繊維の薄い髪の毛が頭皮にへばりついているのは、菊田雄大という。
背格好は長身の雪村ほどではなく、170cmなかばの洋瑛や吉沢と同じぐらいである。毛髪の細さは将来を危惧するものだが、体つきは色白であれど痩せすぎておらず、太りすぎておらず、近接格闘を主眼としているSGの候補生として申し分ない。
菊田雄大は俊敏力のトランセンデンスである。一瞬の爆発に懸けている瞬発力とは違う。車輪が絶え間なく回り続けるようにして、筋肉の駆動の連続性に長けている。
葛原由紀恵は足腰の爆発力を活かして、その打撃においては強烈であり、飛び込むにあっては速度はしなやかな風のようで、距離はゆうに10mをひとっ飛びである。
菊田は、走り幅飛びなら由紀恵に劣るが、反復横飛びなら由紀恵を優る。蹴技の打撃力なら由紀恵に劣るが、蹴技の速度とその回数なら由紀恵に優る。走力もすこぶる速い。
荒砂山22期生の男子学生には、洋瑛や雪村たちのように、知覚系トランセンデンスのほうが割合が多い。自然、菊田は男子学生だけに限ればエースである。
この菊田雄大と洋瑛は犬猿の仲である。
「一年のころは、しょっちゅう喧嘩していたんですよ。当然、近田は菊田にボコられますけどね」
しかし、洋瑛は1度復讐を決めると、毒を溜め込むトリカブトの針のようなものである。背後からデッキブラシで叩きのめすという不意討ちはお手の物であり、浴槽に入れなくなった理由も、
「近田が菊田に乗っかかって沈めたんです」
なので、菊田もへりに座って洋瑛を警戒している。洋瑛がいなくなると、ようやく、菊田は湯船に身を沈める。
「でも、どうして近田くんが追い出されているの?」
菊田が22期生の男どものリーダー格だからである。
SG候補生のリーダーと言えば聞こえはいいが、どちらかというと仕切り屋だろうか。
語弊を恐れずに言えば、青少年犯罪者の集団が逮捕されて報道されるときのあの「リーダー格の少年」という表現に近い。
22期生の男連中8人ほどの集団の中心におり、手下どもがSGのあこがれを口にすれば、うんうんとご満悦そうにうなずく。おれが守ってやるとも菊田は手下どもによく言う。
洋瑛の言う「ホモ野郎」や「チビ圭」も菊田の手下である。
菊田はエースに近しい。
「俺。菊さんに付いていくね」
と、片岡がおもねるように(菊田も内心は辟易しているが)、将来に待っているSGの職務としても、菊田を隊長にあおぐ日は十二分にある。
事実、菊田は手下どもをよく守った。口をつけばすぐ罵倒、口をつけばすぐに「何がSGだ」という洋瑛が、手下に突っかかってきようものなら、菊田は洋瑛を叩きのめした。
なので、洋瑛が逆襲のために浴槽に近づこうものなら、片岡を始めとした手下どもが菊田を守るための壁を構築し、洋瑛を叩き出す。
「ふーん。だけど、今は喧嘩しないんだ? 菊田くんと」
「幼なじみの軽部が菊田と仲良くなってからは喧嘩しなくなったんです」
とにかくは、ブラックスクロファを始末した洋瑛が持てはやされない一因のひとつはここにある。
入浴のあとは食堂で夕飯を取る。夕飯まではきっかり集団行動である。
朝は6時に、構内放送の起床ラッパで目を覚まし、田中中尉の監督のもと廊下に1列に並んで点呼。その後に寮の庭で男女が合流して軍隊体操。
7時から朝食をとり、8時には隊形を組んで荒砂山ふもとの学舎までランニング。
一日の教練を終えると、隊形を組んで寮に戻ってくる。17時30分に入浴し、18時30分に夕飯。その流れで、21時の消灯までは自由時間であった。
パートタイマーの調理員たちが炊いた米、味噌汁、副食を、学生たちはそれぞれ取ってトレーに並べていき、気の合う仲間同士が固まって、一日の解放感とともに談笑しながら箸をすすめていく。
ひとりぼっちになる学生はいない。最初はあったが、リーダー格が拾った。男どものリーダー格は菊田で、女どものリーダー格は山田真奈である。
孤高を貫いているのは葛原千鶴子と由紀恵のコンビぐらいである。菊田や真奈の親分たちが7、8人を従え、そこからあぶれた者が別のグループを作っている次第であった。
洋瑛や雪村、藤中はあぶれ者である。
「吉沢さん」
と、菊田は奥二重の瞼を緩めながら吉沢を呼びつけ、自分たちが座っているテーブルの食卓に手招いた。
吉沢が菊田たちと談笑している様子に、けっ、と、洋瑛はふてくされる。
「化けもんが出てきたってのに、そんなものもすっかり忘れて徒党を組むのに余念がないときたもんだ」
「吉沢さんを取られて嫉妬しているだけだべ?」
「なわけねえだろうバカが。女じゃあるまいし」
雪村や藤中も菊田を好いていない。というよりも、菊田を中心として回っている集団の中では面白味を持てない。
洋瑛とつるんでいるのは、彼を親分としているからではなく、洋瑛が個人主義だからであろう。干渉してこないからだろう。
夕飯が終わっても学生たちの大半は食堂にそのままたむろする。自由時間を仲間同士の談笑で過ごす。そんな同期生たちをよそに、洋瑛はさっさと男子棟の自室に帰る。雪村や藤中も、他人にとらわれて無為な時間を過ごすのを嫌うほうであった。
この日も、洋瑛たちあぶれ者の目には、同期生たちの談笑が取るに足らないことのように見えた。菊田たちは吉沢に質問攻めでいて、そこに山田真奈のグループも加わり、あとは、今日見かけたSGに関しての話など……。
むしろ、あぶれ者たちが軽蔑しているのはその談笑の内容ではない。リーダー格に遠慮するようにして、団体の隅のほうで笑っているだけの、相槌をついているだけの、圭吾や二本柳といった、そういう同期生たちである。
(SGの仲間意識は親分の顔色をうかがうことかい)
洋瑛にはやるべきことが山ほどある。
洋瑛は綺麗好きであった。毎晩、支給品のブーツを人よりもよく磨く。小銃も磨く。軍服にもアイロンを毎日かける。この日は、ブラックスクロファの血糊が付いてしまっていたので、丹念に落とす。
そして、綺麗に整った日用品をまじまじと眺める。満悦しながら、かなりの時間を眺める。
その後、菓子を食べる。菓子を食べ終えると、その日思いついたことをやり始める。趣味はなぜか折り紙である。指先の細かいところに神経を使い、雑念なく集中できるため、忘れたがりの彼の性に合っているのだろう。
たまに絵を描いてみる。たまに昆虫の図鑑を眺めてみる。ときにはじっとして外を眺める。
今夜、窓の外は雨が降りしきっている。洋瑛は窓辺に立って、外をじっとして眺める。
寮の窓辺からは荒砂山のふもとを望める。普段は闇が覆いかぶさっているが、この日は至るところに設置された投光機が、真っ白な光で雨霞みの山をぼんやりと浮かび上がらせていた。
いまだ、SGが山中を歩きまわっているのが、夜目の洋瑛には見える。
雨音は沢の滝のような音色であった。
洋瑛はつぶやく。
「ウィアードか」
(食堂にいるバカどもはわかってねえようだ)
笹原少尉のちぎられた手を目の当たりした山田真奈でさえ、おぞましい光景をすっかり忘れてしまったかのようにリーダー格として談笑を仕切っていた。
(あの化け物は調教されていたんだ)
一体、誰がブラックスクロファなどという凶暴な化け物を調教したのか。そして、なぜ、荒砂山に現れたのか。
つまりこの近在にウィアードを飼っていた者がいるのか。それとも――。
「人がいるのかよ、G地区には」
ウィアードの跋扈するG地区には人は住んでいないとされている。ウィアードが出現したとき、G地区にいた住人は、すべて、政府の意向、国防軍の指導で退居させられたとされている。
洋瑛は疑問に思う。
窓ガラスに浮かび上がっているのは己の顔である。トランセンデンスとしてSGになることを宿命づけられた己の顔である。SGとしてウィアードと戦うことを宿命づけられた己の顔である。
「ま、俺には関係ねえや」
忘れたがりの彼はあっけらかんとつぶやくと、消灯時間前というのに部屋の照明を消し、ベッドに寝転がって瞼を閉じた。指を鳴らしたので、いつもより疲れていた。