06:吉沢先輩
実は、すでにこのとき、吉沢琥太郎という少年は、この世に存在していない。
荒砂山22期生の前に現れた丸刈りの美少年は、吉沢琥太郎という名ではない。彼はこの世に存在していない少年を騙っているにすぎない。
しかしながら、洋瑛たちが、吉沢琥太郎の正体を知るまでは、ここにおいても吉沢琥太郎の記述としておく。
吉沢がやって来た日、体育の授業はバスケットボールのゲームだった。1週間に1度の体育の授業は、毎度が球技で、ほぼ遊びである。兵学生たちの息抜きの時間である。
洋瑛たちのような運動に特別ではないトランセンデンスはB班、葛原由紀恵のようなスポーツに反則みたいなトランセンデンスはA班として分かれ、場所も、教練場と体育館を別にする。
笹原京香少尉が洋瑛たちを2つのチームに分けていった。
「負けたほうのチームはリンゴ運びね。勝ったほうは午前の教練はお休み」
「はあっ!? なんですか、それっ!?」
荒砂山のふもとの農家が兵学生たちに採れたリンゴを分けてくれるという。
(どうせ、軍が毎年買ってんだろ。銃声がうるせえって言う地元の奴らを黙らせるために)
洋瑛のいつもの勝手な想像だが今回ばかりは的を射ている。
ともかく、B班の18人はチームが2つに分かれた。洋瑛は藤中翔太や山田真奈などとともに吉沢琥太郎と同じチームになった。
洋瑛はビブスに袖を通していく吉沢をじっと見据えた。歩み寄っていくと彼と初めての会話を交わした。
「ヨッシー」
早速馴れ馴れしい。それでいて眼光は鋭い。バスケットボールに勝つこと、運搬作業から逃れることしか頭にない。
ただ、初対面の少年に呼ばれたこともないアダ名を使われた吉沢は、
「う、うん」
と、戸惑った。
「おれより背が高いみたいだからジャンプボールしてくれよ」
「あ、うん」
「敵チームのあのバカな前髪をしている雪村って野郎はとんでもねえワルで、ジャンプボールのときにタックルするかもしんねえから気をつけてくれよな」
(変なやつだな)
吉沢が洋瑛に持った第一印象だった。
ゲームが始まると雪村章介が大活躍した。なにせ経験者だった。負けられない洋瑛は、雪村にショルダータックルしボールを奪い取る。
「ふざけんじゃねえ近田っ!」
審判の笹原少尉はファールを取らない。格闘めいてくるのは毎度というのもあるが、笹原少尉はルールをほとんど知らない。
自然、ラグビーのようになった。
女どもも一般的な女子高校生のようにして、コートの隅っこで固まるようなカマトトではない。戦闘員として鍛えられている。運搬作業のやりたくなさでタックルする。ジャージを引っ張る。爪を立ててひっかく。
ただし、暗黙の了解として、男は女に対してそうしたことをしない。
「どけっ!」
洋瑛だけはやった。
洋瑛はあらかじめ二本柳葵という女子学生を標的にしていた。格闘場じみているこの体育館にあって、二本柳だけは引っ込み思案で弱かった。眼鏡をかけているこの貧弱な小動物を、洋瑛は肩から吹っ飛ばした。
「どけっ!」
兵学生、つまり、SG候補生たちには、せめてもの騎士道精神めいたものがある。当然、仲間意識もある。が、それらの崇高な精神を、散弾銃の的のようにして簡単に狙撃した洋瑛は、女どもの反感をかった。
「何やってんだよっ近田っ!」
女どもは敵味方のチーム問わずに怒り狂う。か弱い二本柳を物の見事に吹っ飛ばしたというのも、女どもの逆鱗に触れている。
女どもは近田洋瑛という野蛮人を取り囲む。野蛮人は何か野蛮な理論をわめき散らしたが、山田真奈が右拳を放ったのをきっかけにして、10人の女どもがそれぞれに殴り、蹴り、髪を引っ掴み、関節技で脱臼させた。
洋瑛は藤中の治癒で治してもらうも、そのあいだに雪村がどこ吹く風で得点を重ねていた。笹原少尉も洋瑛のざまに笑っているだけだった。
結果、洋瑛たちは運搬作業になった。
吉沢琥太郎は洋瑛の粗暴性を遠目に傍観している。
負けたチームの面々は笹原少尉の先導で農家の組合所にやって来る。リンゴの詰まった箱が倉庫から駐車場にフォークリフトで20箱も運ばれてきた。
(ふざけんな……)
洋瑛ならずとも皆が唖然としたが、笹原少尉に煽り立てられて、9人が2箱ずつを抱えていくという悲惨な労働を課せられた。
「キミ、本当に歩いて持っていくのかい? 大丈夫かい?」
と、組合の職員は、洋瑛の様子に目を白黒とさせた。洋瑛は山田真奈以下女どもから罰を与えられ、4箱も持たされている。
(クソが……。ウィアードが男か女か選んでくれるかってんだ)
朝方は晴れ渡っていたというのに、荒砂山に垂れかからんばかりに鉛色の雲は分厚い。吹く風も冷たい。
運搬労働は、山の頂上、寮までとなっている。
荒砂山の道路は曲がりくねりの繰り返しである。藤中や真奈たち、働きアリの行進に食らいついていった洋瑛であったが、山に入ると、徐々に離されていった。
ダンボール箱を地べたに下ろす。
「ふざけやがってっ!」
わめきを山中に響かせる。が、笹原少尉を先頭とする行列は、カーブを折り返し、なだらかな崖の上へと消えている。
「俺が戦犯だなんておかしいだろうっ! ヤナギが弱えからぶっ飛ばして何が悪いっ!」
相当の大声で野蛮人の理論を叫ぶも、洋瑛のわめきにはなんの声も返ってこない。山田真奈は当然ながら、悪友の藤中翔太でさえ。
洋瑛はその場に座り込む。道路の真ん中にあぐらをかき、腕を組む。
(何か方法はねえか。車で通りがかったパートのババアが見るに見かねて助けてくれたとか……)
怒り狂ってもリンゴを投げ捨てないのは、教官たちにひどい目に合わされるからだ。まず、丸刈りにさせられるのは間違いない。洋瑛はつい3ヶ月前にバリカンで丸められたばかりである。
(パートのババアが乗ってけってしつこいからそうしたってことで)
分厚い雲に取り込まれてしまいそうな寒空の坂道を見据え、こざかしい策略を練り続ける。
と。その道を丸刈りの少年がくだってきた。呼吸を小刻みに切らしながら、吉沢琥太郎であった。
吉沢は道路の真ん中で即身仏にでもなってしまったかのような洋瑛を見て、初め、ぎょっ、とし、ついで、後悔した。
(あいつ、ただの変人じゃないのか)
「何をしているの」
気を取り直して、吉沢は微笑みながら洋瑛に訊ねる。
洋瑛は吉沢が自分のもとまで下りてくるまで、ずっと、吉沢を見つめ続けているだけであった。吉沢に問いかけられると、じろ、と、睨め上げた。
「先輩は悪さをしたから坊主なんですかね」
「違うよ。こっちのほうが楽だからさ」
「俺は戦犯ですか? 違うでしょ」
「1箱、持つよ」
と、吉沢はダンボール箱を1箱抱える。
ひょいと洋瑛は立ち上がる。
「先輩、いい奴ですね」
「近田くんの大声が聞こえてきたから」
洋瑛は腰をかがめると、一息にダンボール3箱を抱え上げた。吉沢と並んで坂道を登り始める。
「先輩って女にモテるでしょ?」
「俺なんか全然だよ。近田くんこそモテるだろう?」
「女にモテるような奴が女を吹っ飛ばすわけがねえ」
2人は笑いながら肩を並べて坂道を登っていく。
「まあ、でもさ、先輩。バスケで調子に乗っていたあの雪村って野郎が言ってたんだけどよ、俺たちは22歳までに結婚できなかったら、SGの先輩に無理やりお見合いさせられて、そのまま無理やり結婚させられちゃうんだってよ」
「ああ、そうみたいだね」
「だからよ、兵学生のうちからカノジョでも作っておかねえと、あんな真奈先輩みたいな奴と結婚させられたっておかしくはねえんだ」
「いないの? カノジョ」
「いるわけねえじゃん」
「だろうね。カノジョがいるような奴が女を吹っ飛ばすわけがない」
そう言って笑いながらの吉沢を、洋瑛は睨みつける。
「なんだよ勝ち誇って。先輩はいんのかよ」
「いないよ。童貞さ」
すると、洋瑛は小馬鹿にするようにして鼻で笑った。
「なんだよ。近田くんは経験済みなのかよ」
「童貞に決まってんじゃん」
すると、吉沢は小馬鹿にするようにして鼻で笑った。
「まあよ、先輩。俺の邪魔はしないでくれよな」
「誰。誰を狙ってんの」
「カピちゃん」
「穂積さん? 穂積杏奈さん?」
「そそ。カピちゃん」
吉沢は鼻で笑い捨てる。無理だろ、と、はっきりと言う。
「あんな可愛い子。女子を吹っ飛ばすようなキミが無理に決まっている」
「あとね、有島」
吉沢は声を立てて笑った。身の程知らずもいいところだと言った。
「有島さんはデュアルトランセンデンスで、荒砂山のエースなんだろう? それに、あんなにスタイルも良くて、美人で、性格も良さそうで。みんな狙っているじゃんか」
「好きになっちまったもんは仕方ない」
と、洋瑛はご機嫌であった。
吉沢にうまいこと扱われていた。
吉沢琥太郎――。とある諜報員である。そのため洋瑛に積極的に接触してきている。少年ながらにコミュニケーション能力が高く、洞察力にも優れている。
記憶能力によって、言葉の1つ1つを瞬時に吸収してしまえるというのも、彼の諜報活動に一役買っているかもしれない。
「面食いだな。矯正したほうがいいよ」
洋瑛がどのような性質なのかすでにある程度わかっていた。
と。
枯れ木の立ち並ぶ崖の上から、悲鳴が聞こえてき、洋瑛と吉沢は足を止める。
男女揃って驚き上げた声であり、そして、あわてふためくときの痛々しい喚きが続いてくる。
直後、乾いた銃声が鳴った。物騒な響きは静かなる寒気に遠く飛んでいき、やがて吸い込まれていく。
「教官が携行している9mm拳銃の音だ」
と、吉沢が言う。目許を鋭さで支えながら洋瑛に顔を向ける。しかし、洋瑛は薄べらな唇を緩めていた。
「過激派ゲリラの左翼が乗り込んできたんだ」
と、洋瑛はここにあっても、とんでもないことを言っている。
吉沢は目を見開いて驚いた。
「荒砂山にはそんなの来たことあるの?」
「ないよ。でも来るかもしれない」
洋瑛は妄想を働かせるままにダンボール箱3箱を投げ捨てた。ついでに労働の怒りでもってダンボールを蹴飛ばすと、がぜん、坂道を駆け出した。
「おいっ、近田くんっ!」
吉沢の正体を誰もが知らないが、彼はかなりの手だれである。手だれであるのを隠している。ゆえに、この異常な事態にも最初は冷静でいたが、洋瑛がとんだ妄想を口走ったので、吉沢は混乱しきっていた。
さすがの吉沢も洋瑛の本質的な部分がわからない。
「あ、危ないよっ! 近田くんっ!」
吉沢の制止もよそに、荒砂山の曲がりくねった道を颯爽と行く洋瑛の目は、
(憂さ晴らしだ)
嬉々として輝いている。