07:大ローテーション
雪村章介と穂積杏奈が呼び出された小会議室にいたのは、作戦隊長の峠大尉とともに、荒砂山からの教官であり、かつ作戦部隊の副隊長である田中中尉と笹原少尉であった。
「マエガミを学生隊長にしたが、カピコ、お前を学生隊の副隊長にする」
峠大尉の貫くような眼光は、杏奈を戸惑わせど有無を言わせなかった。
「実は――」
と、切り出したのは田中中尉であった。
田中中尉は天進橋兵学生の真の目的を伝えた。雪村と杏奈がほかの11名の学生たちとともに機密作戦部隊の隊員であると、いたく平静、かつ、平然とした様子で。
「G地区解放作戦だ。作戦コードはブラッディレイ」
呆気に取られている雪村と杏奈に対し、田中中尉はきわめてオブラートに包みながらだった。
G地区にはDという反体制組織が存在すると白状したが、Dがトランセンデンスだとは言わなかった。また、学生部隊はブラッディレイ作戦部隊の「一部」と偽った。Dの反攻が予想されるため、SGのすべてを投入できない。戦力が足りない。ゆえに荒砂山兵学校と来間山兵学校の優秀な者を選抜したのだとした。
この時点で、すでに雪村と杏奈の想像の範疇を大きく上回っていたが、それまで教官たちの前で黙りこくっているだけだった2人が思わず声を上げてしまったのは、ブラッディレイ作戦の遂行のためには重要な人物がいると言い、それに続けて発した田中中尉の次の一言であった。
「近田洋瑛一等兵学生は高速運動トランセンデンスだ」
「えっ――」
杏奈が声を漏らしたままに口を開けて固まってしまう。雪村が目を泳がせながら聞いたこともない高速運動トランセンデンスというものの正体を教官たちに求める。
「精神状態のどこかを切り替えたのをきっかけにして、自分自信の全細胞全神経、自分の肉体のすべてを高速化させるトランセンデンスだ。その速度はスーパースローカメラでほんのわずか捉えられるぐらいだ。速度が別次元に到達してしまう」
「昔、SGには1人だけそういう人がいたの」
笹原少尉は付け足したが、洋瑛の父だとは言わなかった。洋瑛の高速運動能力は突然変異だと偽った。99パーセントの仮説をひっくり返し、洋瑛が父から受け継いだのは夜目のトランセンデンスであるとした。
「近田はそれを隠しているの。私たちにも教えていないし、軍にも教えていない。いつごろから近田が高速運動トランセンデンスに気づいたのかもわからない。でも、近田の行動を見ていれば、あの子が高速運動トランセンデンスっていう裏付けがあるの。覚えているでしょ、ウィアードが荒砂山を襲ったとき、一瞬でああなってしまったのを」
笹原少尉の説明は、雪村と杏奈にすれば暴力的なまでに突風であった。それは脳裏にはびこっていた濁濁とした紫色の濃霧を薙ぎ払った。記憶は鮮やかなまでに晴れ渡った。
あの日、洋瑛が異様なまでに食欲を見せていた光景がよみがえっていた。洋瑛1人だけが仲間として加わっていなかった光景が、雪村にも杏奈にもよみがえっていた。
驚愕の事実ばかりを唐突に突きつけられながらも、しかし、雪村と杏奈は理解した。洋瑛がなぜに吉沢琥太郎の行方について解答を拒んでいたのかようやく知った。
雪村と杏奈は、G地区解放作戦などという内容の想像がつかない言葉よりも、もっと身近にあったものに思考が巡った。洋瑛の異常な行動の理由、そして、吉沢琥太郎が消えてしまった理由。
(近田はヨッシーがいなくなった理由も知っていたのか――)
雪村はそこまで思考を発展させてしまう。もっとも、洋瑛も吉沢不明の理由は知らないし、追求を放棄した。ただし、雪村の脳裏には、洋瑛があのとき、目に宿した凄まじい怒りが焼き付いているのだ。
「要はだ」
峠大尉の声に、雪村は眠りから覚まされたようにして視線を上げる。彼の右の瞼には長く伸ばした前髪が垂れかかっている。瞳はさまざまな混乱を引き起こして揺らいでいる。峠大尉を見つめているようでいて、見ていない。
峠大尉は言う。
「ブラッディレイ作戦を完遂するためには近田がまともになってもらわなければならない」
ところが、今現在の洋瑛は殺意のかたまりになってしまっている。それを教官たちは知り得ている。そういうわけにはいかないと言って峠大尉は雪村と杏奈の当惑の瞳をそれぞれ見据え、SG叩き上げ将校の豪気でもって吐く。
「SGはウィアードを操ったDに復讐しなければならん。そして、このままDを野放しにすれば、国民にまで危害が及ぶ」
峠大尉のそれは豪気というよりも殺気に近く、洋瑛のあれこれよりも、まずはそちらが優先事項だと言わんばかりであった。雪村も杏奈も峠大尉に射すくめられて、縛られてしまったかのように視線が動かない。
すると、田中中尉が付け足した。
「国防軍が出ると内戦状態になって、社会が混乱してしまうのだ。だから、機密作戦なのだ」
田中中尉の言葉尻は荒砂山教官時代よりも柔らかいものであったが、問答無用の抑圧は自然として峠大尉の役目となっている。田中中尉は自然として抑圧された彼らを拾い上げるような役割でいた。そして、笹原少尉もまた役割を担っていた。
「雪村と穂積には近田をもっと仲間思いで、ちゃんとしたSGの人間にしてもらいたいの。私たちにはできない。近田が心を許しているあなたたちにしかできないの」
まことに身勝手な連中である。
それは教官と自称している彼らの役目ではなかろうか。上官の指示とはいえ。
教育を放棄して、砂漠をふらついている狐の捕獲作業――怪物の調教をいたいけな少年少女に押し付けてしまったのである。
無論、峠大尉たちにも人の心はある。感情を殺し、決断は苦渋であった。
身勝手なのは彼らではない。いや、残念ながら憎むべき身勝手な人間など果たして存在するだろうか。
常に組織というものは合理的に稼働するために、冷酷であり卑劣であるのを辞さない。組織は個人を一個の歯車としてみなし、ときには油を差し、ときには磨くが、ときには捨てる。歯車は歯車でしかなく、それ以外の要素を求めない。
石突きの槍でマンモスを狩るような原始的な集団でも人は歯車にならなければならないだろう。緻密に設計された組織という集団にあってはなおさらだ。
人は組織にあって半永久的に一定の動きでしか回れない。ゆえに身勝手でなければならない。集団という組織、組織という集団が稼働し続けるかぎり、彼らは止まれない運命なのである。
そして、雪村も杏奈もほかの11人も組織の歯車となる。ブラッディレイ作戦部隊という運命を追求する以外、彼らに存在意義はない。
「くれぐれも近田に高速運動であることは突き止めるな。ほかの連中にも同じだ。作戦の内容も、Dの存在もだ」
峠大尉の言葉を最後に、小会議室には雪村と杏奈だけが残された。
すべての巨大なものを押し付けられた2人は、しばらく言葉がなかった。うつむいて、整理するのでいっぱいだった。
「近田くんはどうして――」
言わないのか。隠しているのか。同期生たちに糾弾されてもなおのこと口の悪い道化師として振舞っているのか。
杏奈が最後まで言わずとも、雪村には伝わっていた。
「きっと近田は、ヒーローになれないんだ」
杏奈は泣き出してしまった。彼女が洋瑛を思う気持ちもあれば、突如として言い渡された特殊作戦や、Dという存在への戸惑い。それがないまぜになり彼女を混乱せしめた。例えるならばさまざまな色の絵の具がかき混ざって形容しがたい色となってしまった。
彼女の空の色は訳の分からない色になってしまった。
雪村も泣きたかった。
(G地区のテロリスト――)
無論、赤い爪の作戦という失敗があったことは伝えられていない。ただ、とてつもない脅威であることだけは雪村にもわかる。真っ暗闇に漂う大きな靄である。吸い込まれていきそうな暗黒である。
だが、雪村が洋瑛と唯一真逆であるのは、それでも「SG」なのであった。
菊田一味のようにして口には出さないが、雪村にもまたSGとしての、いや、SGになるべくして選ばれた己の宿命を――悲劇的であるにしても――矜持としている部分があったのだった。
(俺は守らなあかん)
雪村章介という少年が近田洋瑛などという者と悪友をやっていたのは、仮の姿だったろう。雪村は生真面目な少年であった。生真面目であるのを恥じて悪たれをやっていたようなものだった。
黄羽駐屯地近くの官舎で生まれ育った雪村は、トランセンデンスの父が癌で死んだとき、国防軍の保育支援を受けてそのまま官舎に残るか、それとも身内に預けられるか、12歳にして選択を迫られた。
友人たちのいる官舎に残りたかったが、5人兄弟の長兄にして、幼い妹弟を抱える雪村は縁戚に預けられる道を選択した。トランセンデンスの子を引き取ると国防軍から多額の補助金が支払われるために引く手あまたであったが、国防軍が雪村たちの引取先に選んだのは遥か西の地域に住む母方の又従兄弟夫婦であった。
官舎はSGの住居のために防備が固いが、個人宅ともなるとそうはいかず、かつて幼いトランセンデンスがDにさらわれた過去もあるので、トランセンデンスの子の里親はG地区から離れた地域の者が選ばれやすい。
中学に進級したと同時に雪村は言語がわずかに違う人々に囲まれる。
さすがに最初は戸惑ったものの、雪村は柔軟な少年であったし、周囲も気のいい人々が多かった。
すぐに仲良くなった友人がいて、その者にバスケットボール部に一緒に入ろうと勧められる。背が高かったのもあるだろう。雪村は何気なくバスケットボール部に入部した。
しかし、少年たちは無邪気であった。よくわかっていなかった。身体能力が人並み外れているトランセンデンスは、どのようなトランセンデンスでも部活動の公式大会は出場できないのだ。
ましてや、雪村は動体視力である。話にならなかった。2つ上の大人の体をした先輩たちのボールをすぐにカットできてしまう。ドリブルであっさりと抜いてしまう。
雪村は自分がトランセンデンスであることで、部にひずみを招いてしまう。
「気にすんなや」
と、友人は言った。
「下手くそなのが悪いんや。章介に取られんよう上手くなればええねん。章介がおったほうが逆にうまくなれるわ」
雪村は何度もバスケットボール部を辞めようと思ったが、そのつど友人に引き止められ、そして、彼はまた、部活の顧問にも先輩たちにも雪村がいることで上手くなれるじゃないかと説得するのだった。
下手なのが悪いチームメイトたちは最初は納得していなかったが、雪村が練習に連れ添っているおかげなのかなんなのか、弱小だったくせに試合で勝つようになってしまう。
雪村は試合に出れなくて歯がゆかったが、いっぽうで勝ち続けるチームメイトたちの姿に喜びも得るようになった。
3年生になって、雪村が在籍していることを不服に思う人間はいなくなっていた。そして、雪村をバスケットボール部に誘い、雪村を引き止めてきた友人は、キャプテンになっていた。
「章介んために全国大会に行ったるわ」
実際、行った。この友人はそもそもそういう資質があった。練習熱心なのもさることながら、仲間たちを引っ張るだけの能力があった。
全国大会で勝ち進むことこそ逃したが、雪村は彼らと一緒に悔し涙を流し、そして、たとえベンチでマネージャーのような雑務に追われていようとも、彼らに感謝した。
卒業式、友人は言った。
「章介。エンジェルワッペンを見せてな。俺はそんとき代表選抜のユニフォームを見せたるから」
友人は今、全国大会の常連校で練習に励んでおり、2年生ながらにレギュラーである。
SG。
雪村がその二文字に込める思いは単なる英雄への憧れだけではない。
「カピちゃん。こんなことは言いたくないけど、俺たちはもうこれしかないみたいだ。それに俺には約束した友達がいるんだ。エンジェルワッペンを見せに行くって」
トランセンデンスである自分を受け入れてくれた人々のために使命を全うしなければならない。雪村はそう誓った。




