01:この世界すべての人々が幸福になってほしい
トランプを引きながら、雪村章介がせせら笑う。
「カピちゃんとか有島は高嶺の花だけどな、あいつらからすれば、近田はドブ川のタガメみたいなもんなんだよ。月とスッポンって言うより、天の川とドブ川だろ」
「お前、殺されてえか?」
「俺を殺したってあいつらは振り向いてくれないぜ。あいつらに振り向いてもらいたかったら、ヨッシーにくだらないこと言ってるんじゃなくて、自分から声をかけてみろよ」
すると、吉沢もトランプを手にしながらせせら笑う。
「だいたいさ、近田くん。どっちなんだよ。穂積さんか有島さんのどっちなんだよ。二兎を追う者は一兎をも得ずって言うじゃないか」
「おい、ヨッシー。そうやってな、俺の気持ちをかき乱して、駆け引きしてんじゃねえ」
「先輩。近田は怒らせれば怒らせるほど負けが込むべさ」
藤中の言うとおり、挑発され続けた洋瑛は現金代わりのマッチ棒をだいぶ取られた。
洋瑛は童貞である。恋人は一時期に葛原由紀恵を持っただけであり、唐突に由紀恵から口づけされただけである。
「有島とカピちゃんには手を出さないでくれよな」
と、吉沢に釘をさしていたが、実のところ、恋という感情を持っているわけではない。
(カノジョにするなら――)
という感覚でしかない。由紀恵に裏切られた、と過去の恋を勝手に決めつけているので、傷つきたくない思いから青春のうららかなものには積極的ではなかった。
むしろ、洋瑛は自らが編み出した1日のリズムに忠実であろうとする。その範囲外に出かけようとはしない。想定外の出来事に影響されて、心の在り方が揺らいでしまうからである。
洋瑛は意識的にも無意識にもそうしているので、恋というものに自然に関わらない。
近頃は1週間に1度の脱走が洋瑛の些細な刺激となっている。
コンビニエンスストアにやってきて、キャッシュディスペンサーにカードを差す。残高が勝手に増えていく自身の口座から金を引き下ろす。無論、これをやるのは兵学生の中で洋瑛だけである。入り用があれば、教官を窓口に特殊保安群に前借りするのが常である。
教官たちに泳がされているとも知らず、脱走も5度目になると、立ち読みの余裕まで出てきている。
膨れ上がったリュックを背負って山に戻る。ロープを掴んで崖をよじ登っていく。指を鳴らして、鉄柵門を乗り越え、男子棟の自室に帰ってくれば、再び指を鳴らす。
ところが、リュックの物を天井裏に隠しこんでいたら、吉沢がノックもせずに勝手に入ってきた。洋瑛の嫌いな想定外の出来事だった。洋瑛は激怒した。
「なんだコラァっ!」
しかし、吉沢は平然としている。
「何やってんの?」
「なんだっていいだろがっ! 殺すぞこのコソドロっ! 何しにきやがったっ!」
「さっき寮母さんから電話が入っているっていう放送があったの聞いてなかったの? いつまで経ってもキミが来ないからって、俺がたまたまことづてされたんだよ。管理室に来いって」
吉沢があまりにも自然体なので、洋瑛は調子が狂ってしまう。
「あ。ああ、そう。わかった。ありがとう。用が済んだんなら、とっとと出てってくれ」
「その格好、外に出ていたの?」
洋瑛は眉をしかめたが、しぶしぶうなずいた。見られてしまった以上、取り込むしかないとあきらめた。
「仕方ねえから、1個くれてやるよ」
「えっ?」
「ほら。賄賂だ。これで黙っておいてくれよな」
吉沢の丸い瞳は急にきらめく。吉沢は本当にいいのかと再度訊ねる。
「絶対に雪村とか藤中には内緒だからな」
「ありがとう。いつか恩返しするよ」
吉沢があまりにも嬉々としているので、さすがの洋瑛も照れくさくて笑ってしまう。
「ただし、ノックだけはしろ! コソドロ!」
ジャージの下にスナック菓子の袋を隠しこんだ吉沢は、満面の笑顔でうなずいて部屋を出ていった。センサーの張り巡らされたこの寮をどのように脱走したのかは訊きもせず。
洋瑛は深く考えない。
(ヨッシーは別にあさましい奴じゃないしな。たかってきたりもしねえだろう)
そういうところだけは警戒する。そして想定外の出来事は解決したのでどうでもよくなる。
ジャージに着替え直し、本棟の管理人室を訪ねた。
「遅い」
と、学生たちと寝食を共にしている寮母は眉をしかめてきた。「叔父さん」から電話があった、掛け直してくれるよう告げられた、と、洋瑛に伝えてきた。
(なんだよ、クソ。どうせ、また、くっだらねえことだ)
渡り廊下を行って、寮内中央の食堂棟に入る。廊下の突き当たり、公衆電話機の受話器を上げる。特番をダイヤルプッシュし、国防省の交換手に繋がる。
「荒砂山の一等兵学生近田洋瑛と申します。山本憲一郎陸軍少将の自宅に繋いでもらえますか」
電話番号を伝えなければならないのだが、いつも名前だけで取り次いでくれる。叔父の家の電話番号は部屋に戻らないとわからない。洋瑛は折り目正しくも億劫がっている。
<山本憲一郎少将――。参謀本部の山本少将でしょうか?>
「左様であります」
<ご用件は?>
「自分は甥であります。叔父が寮に電話をしてき、かけ直せと職権を振りかざして寮母さんに偉そうに命じられたようなので、自分はかけ直させていただきました」
<少々、お待ちください>
カールコードを指先で弾きながら、苛立たしげに足踏みする。しばらく保留音を聞いていると、叔父の山本憲一郎少将が居丈高な声で出た。
<遅いじゃないか。何をやってたんだ>
「遅いじゃねえかじゃねえだろうが。あん? どうせ、年末年始に墓参りって話だろ? こちとら忙しいんだ。いちいち電話してくんじゃねえ」
<暮れの30日。11時に必ず釈迦堂の墓地に来い。今度来なかったら、盆明けに教官に制裁を加えさせたよりもひどくするぞ。坊主頭にさせてやる>
「いやいや、叔父さんさ、俺はよ、30日の朝から旅行に出かける予定――」
電話は切れていた。
「ふざけんじゃねえっ! ボンクラっ!」
食堂から同期生たちの声がかすかに漏れてくるだけの静まり返った廊下に、洋瑛は1人わめきを響かせて、受話器を叩き置いた。
「テメーが言わなくたって教官に坊主頭にさせられたってんだバカ野郎っ! 職権乱用だろうがっ! 戦車メーカーに賄賂でも掴まされて逮捕されろ! このバカっ!」
電話機に一生懸命に吠え立てたあと、舌打ちをつきながら振り返る。
「あ――」
と、洋瑛は思わず棒立ちしてしまった。
そこに、突っ立っていたのは、すらりと伸びた169cmの長身を緑色のジャージに覆わせている有島愛だった。
きょとんとしている。
さすがの洋瑛も、荒砂山の美少女を前にしてたじろいだ。ましてや有島とはただの一言も会話をしたことがない。
なにせ、変な虫がつかないよう山田真奈を始めとした女どもに守られている。
女どもは、まず、洋瑛のような異物を有島には近づけさせない。有島が分厚い城壁のうちに咲いている一輪の花とすれば、洋瑛は城壁の外でうろついている野良犬である。
「い、いや、ハハ……。ちょっとさ、面と向かって言えねえから、代わりに電話機に八つ当たりしててさ。ハハ……」
呆気に取られていたらしき有島は、二重の澄み上がった瞼を目覚めたようにしてハッとして広げた。あわてたふうに言う。
「そ、そうなんだ。私もお祖母ちゃんに電話しようと思って」
鼻梁が小動物のように丸い。口角が広いので、笑うと歯の並びが目立つ。歯茎も覗く。完璧すぎないあたりがなんとなくの愛嬌である。
それに有島が女どもの反感をかわないのにには、瞬発力と破壊力のデュアルトランセンデンスという、生まれながらの殺戮兵器であることだ。
普段は城壁に守られている一輪の花であるけども、戦闘教練ともなると人が変わったように殺気めく。将来を嘱望された荒砂山のエースである。まさに22期生の目には英雄として映っている。
一方、野良犬。
「今のは聞かなかったことにしてくれ」
と、荒砂山に入学以来、さんざん暴れ回ってきたくせにいまさら何を言っているのだろうか。愛想でへらへらと笑いつつも、そそくさとして有島の脇をすり抜けていく。
(最悪だ)
好かれたいという気持ちはさすがにある。
(クソジジイが余計な電話をしてきやがったからだ。ジジイに職権乱用させて、有島とかカピちゃんにお見合いでもさせてくれねえと割りに合わねえ――)
「ち、近田くん」
「はいっ!」
と、洋瑛は教官にやるみたいに直立不動になった。綺麗に回れ右をして振り返った。
有島という生まれながらの殺戮兵器は、風にそよぐ一輪の花のようにして、どこかはかなげに洋瑛を見つめてくる。
「あ、あの、近田くんって、その、ご両親って、洋次郎さんと、咲良さん、だよね?」
「え――?」
洋瑛は呆気に取られた。洋瑛が有島を知ったのは荒砂山に来てからである。幼なじみの千鶴子たちならまだしも、有島が知っているはずがない。
ただ、洋瑛の表情は徐々に曇っていった。思い当たるふしがあったというのではない。詮索されるのが不愉快なのである。ましてや、父や母の話などしたくもない。
「あ、ううん。ただ、知っていて――。あ、あのっ、近田くんもクリスマスに出るんでしょ?」
「え――?」
なんのことを言っているのか洋瑛にはさっぱりわからないが、有島が顔を真っ赤にさせているのはわかった。
(いやいや……。ちょっと……。えっ?)
「ほ、ほ、ほらっ。去年もやった、みんなでクリスマス。食堂でさ。寮母さんが七面鳥を焼いてくれて」
「しちめんちょう……」
「そ、そっか、近田くんはいなかったから」
寮母に手伝われながら学生たちが自主的に催したイベントであるが、強制ではないので、洋瑛は参加していないだけである。野良犬なので誰からも誘われなかっただけである。
「今年もケーキを作ろうってみんなで言ってて」
「ああ、そう……」
「近田くんも。ケーキどうかなって」
「えっ! お、俺っ、ケーキなんか作ったことねえしっ」
「ううん。違う。食べてもらえたらって」
「あ、ああ。そういうことね。ふーん。……ま、マジ?」
有島は唇をつぼめながらこくりとうなずく。長身のくせに、洋瑛の表情を上目にうかがいながらこくりとうなずく。
一輪の花の甘やかな香りを嗅いで、野良犬は目がくらむような思いであった。目が回りそうであった。実際、洋瑛の目玉は満たされた湖水の波のようにして揺らいでいる。
そして、意識的にも無意識にも胸の内を補強させているがんじがらめの鎖が、想定外の有島の赤面によって緩んでいってしまう。
つい、本心が顔をひょっこりと覗かせた。
「いやっ。だって、俺は荒砂山のお騒がせ者だからさ、俺なんかいたら、みんなイヤじゃん。俺だってイヤがられるのイヤだもん」
「そ、そんなことない」
生まれながらの殺人兵器は頬を赤らめたままに一生懸命に首を振る。
「みんな一緒なんだし。みんなで楽しんだほうがみんな楽しいし」
「いやあ……。でも……。ね?」
「大丈夫っ。近田くんの嫌いなひじき入りじゃないからっ」
「えっ?」
「あっ。ううん」
「いや、ハハ……。そ、そうだね。うん。俺はひじきが大嫌いなんだ。パートのババアによく言っているもんな。うん。そっか。じゃあ、あの宇宙ゴミみてえなもんが入ってないんだったら、考えといてやるよ――」
洋瑛は愛に背中を向け食堂棟の廊下を行く。
と。渡り廊下に出た途端、弾丸のように駆け出した。
笑顔がおさえられない。
扉をひったくるようにして引き開けると、自室へと全速力で走っていき、自室の部屋のドアをかなぐり開ける。
動悸は激しく、吐息は荒く、胸のうちは興奮があぶくを立てている。がんじがらめの鎖はすっかりほどけて成していない。
(有島のやつ――)
洋瑛の夜目に、光はまばゆい。
彼女が自分の大嫌いなものを知っている理由。答えは限りなくまばゆい。
(俺に気があるからだっ!)
洋瑛は喜び勇んでベッドに飛び込んだ。敷き布団をめったやたらに叩いた。
(憎い、憎い、憎すぎる。俺が憎すぎる!)
歓喜をおさえられずに笑ってしまっている。枕を抱きしめる。
(ひじき入りとかいう、センスのかけらもないジョークはともかく)
彼女のあの恥じらい、あのもどかしさ、そこに流れていたあの淡くもはかない胸苦しさ、それを五感のすみずみにまざまざと受け、今、この胸に抱きしめているものが恋だというものとしたら、洋瑛は叫ばずにはいられない。
ベッドから飛び起きた。窓を開けると、荒砂山の冬の夜空に向かって叫んだ。
「俺はこの世界すべての人々が幸福になってほしいっ!」
うるせえ、という声がどこかの部屋から聞こえてきたが、洋瑛は再びベッドに飛び込んで、枕を抱きしめた。
『特殊保安群教育部教育課人事調査書』
(姓)有島/Arishima(名)愛/Ai
現年齢:17
性別:F
血液型:AB
所属:特殊保安群
階級:一等兵
配属:荒砂山専門兵学校
兵種:近接戦闘兵 アタッカー
トランセンデンス:破壊 瞬発
トランセンデンスクラス:A
反乱危険レベル:1
身長169cm 体重54kg
思想:SG
性格:穏和
備考:すべての者に好まれる性質である。戦闘において勇敢である。戦闘員として優秀である。統率力には未熟である。