黒髪家の一族(上)
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年が明け一月上旬、対トップチーム戦の一週間前。
実家のある千葉の成田市からアカデミーのある静岡に帰ってきた法水好介が一人黒髪家を来訪する。
各チームのスケジュールはほとんど合致しないため、法水と怜悧のオフの日が重なるのは珍しい。
視界をさえぎる人工物はない。なだらかな丘は木々で満たされている。あの姉弟はここで育ったのだ。
平地のほとんどが田畑。その中を曲線的に道路がとおっていた。色彩は木々の緑と空の灰色で統一される。
法水はスーツの上にワインレッドのインヴァネスコートを重ねている。同じ色の鹿内帽を膝元に。コスプレである。
タクシーを降りた法水は家から出てきた傘を持った黒髪怜悧を掌に乗せて見た。
小雨が降っている。
怜悧がたずさえた傘を受けとりはしたが、使わずに背をかがめ彼女の隣に立つ。
「こんなことがあるんなら」怜悧と手を重ね傘の手元を握り法水は言う。「雨だって好きになれそう」
怜悧は慌てて手を離す。「何言ってんだ」
「もうタクシー代の元はとったね」
「金持ちの子供が何言ってる」
黒髪家はスポーツセンターから十キロと離れてはいない場所にある。
道路から家の玄関までが遠い。家は瓦屋根の平屋。正面の敷地に食べられるものは育てていないが花や観葉植物を植えている。
すぐ家の中にはいる気にはならなかったようだ。
「おじい様のご容態は?」
「今はなんともなかったさ。俺のことばっか聞いて自分のことはさっぱど話さんよ」
まるでなんともないみたいだった、と法水は言った。
法水の母方の祖父、櫛引宗司。木之本が言及していた人物だ。
櫛引は約一カ月前に千葉県内の保健管理センターで定期健診をうけ、肝臓に重く進行した癌細胞が存在することを知らされた。余命は短いと。子供達にサッカーを教えられる時間はなお短いと。
老将は現在同県の公立高校の強豪サッカー部を率いている。
法水は視線を泳がせている。何もかもが珍しいと言いたげに。
「二人きりだったら良かったのに」
「誠実に出ていけって?」
「分かってるよ。こっちにいる間はなるべく大人しくでしょ? まだ子供だから」
「なんのためにここにきたの?」
法水は笑ってから怜悧に視線をあわせ。「君に逢うためかも」
法水が歩く道を決める。家の周りを時計回りに進んでいた。地面は白い砂利。
「冬じゃなきゃ花とか咲いてたの?」
「母様の趣味だ。あたしは見ても名前は分からない。女らしいだろ?」
「静かだね」と法水は言った。ただ雨音だけが耳を触る。自動車のタイヤが水を切る音すらない。
「そうだね」
「君に集中できる……時々考えるんだ」
「どんなことを?」
「僕は君みたいに大人じゃない。僕は君に足り得ないんじゃないかなって」
「下らない……ところでそのふざけた格好は?」
「今から探偵するんだよ? 僕ぁ形からはいるタイプだからさ」ジャケットを両手でつまんで。「もっとそれっぽい衣装準備できれば良かったんだけど」
「そんなに期待してないよ」
家のなかにはいった。
玄関から正面に階段、左手がリヴィング、右手がキッチンと食堂。食堂を通り過ぎて離れに応接間がある。
低いテーブルが中央にかまえる六畳間。ラップのかかった野菜と牛肉、卵に割り下。ガスコンロ。誠実が正座でまっていた。
「こっちもうちに招待して御馳走しないといけない流れ?」
「そう深く考えないでいい」
姉弟が饗してくれる。両親は仕事で家にはいなかったが法水が訪れることは存じており、わざわざ昼食の材料を準備してくれていた。
堂々と上座を選んだ法水は卵からカラザをとり、白米を盛った茶碗を装備しいただきますをしてから料理に格闘を始める。黙々と誠実も。怜悧も自分のペースで。
食べ終わり食器を片付けるのを法水が手伝う。
今度機会があったらうちに招待すると伝えた。ちょっとずつ機嫌が良くなってきたなという自覚がある。おいしいものを食べて、好きな人といられる時間があって、それにもうすぐ楽しい試合がある。これから先のことなんて今は考えたくない。
引き続き応接間。
話題は櫛引宗司氏のことになる。
怜悧がどのような人なんです、とたずねる。
「どのようなって……会えばお小遣いくれるただの単なるそこら辺のおじさんだよ。だって僕のコーチだったわけじゃないもん」
怜悧はうなずく。そして慎重な口調で。「もう助からないというのは本当です?」
「そう。不思議だよね。家族が秘密にするもんだと思ってたけど、本人が隠さないでもらいたがったんだろうね」
そして法水は思ったことを話す。僕がそうなったら遊びまくると思うけど、あの人は普段通りの生活を守ろうとしている。
「……おじい様は」
「じじいもいい年だし仕事を辞めることは考えていないよ」
「監督の仕事を続けられるんですね。だから君は……」
「ベンチで逝っちゃったりしないといいけど」




