トリガー
3(承前)
彼には早くに事故で亡くなった兄がいた。
言葉を交わすこともなかった兄が。自分と同じようにボールを蹴っていた幼児だ。
その写真をアルバムの中から見つけた。
彼が弟と同じように天賦に恵まれたとしても、数えられなくなるほどリフティングを続けられる年齢には達していなかったはずだ。
『一次』という名前には薄命だった長男を意味する『一』という漢字と、次男である倉木一次を意味する『次』の漢字がはいる。二人分の生を生きることをその名に刻まれた。
両親のネーミングにそれほど深い意図があったとは思えないが、一次にはある種の呪いがかけられたのだ。
名前をつけるのは大人達であって子供自身ではない。
親の庇護の元成長しようと、子供はやがて大人になり自由になる。どんな名前をさずけられようとそれに縛られて生きる必要はない……。
しかし倉木は思いこんだ。聡明な少年であった十歳の倉木は母親に亡くなった兄のことを知らされ、この先の人生を自分一人のものにできなくなった。
二人分の人生。
それまで倉木少年はただサッカーをしていた。遊びのサッカーを。
その時からサッカーは遊びではなくなった。
人生そのもの。世界競技。最高のサラリーと人気。亡くなった兄と家族のために本気を出す価値がある。本気でなければ楽しめない。
サッカーをとことん楽しむためには……。
最良のチームメイト、最強のライヴァルが必要だ。
そのためには一番良い環境を自分の力で手にいれなければならない。
だから勝ち続けた。
幸い倉木には才能があった。兄にもきっとあったであろう才能が。
この先倉木が求めるトップリーグでプレイするためには、子供のうちに世界を知らなければならない。
木之本が述べたように『高校年代に交ぜても十指にはいる選手』であることは事実。十七歳以下のカテゴリーの代表チームからもオファーはあった。
だが飛び級でのメンバー選出を倉木は断った。二年間の準備期間があれば青野のチームを自分のモノにできる。
その当時男女・カテゴリーを問わず一度も達成されていなかった日本代表の世界一が。代表を踏み台にし世界に名を知らしめる。
倉木にとって世界は自分の庭だ。
倉木は知っている。選手の高い熱意が常に成功という形で報われないことを。
スタープレイヤーの半生が話題になるのは、その選手が成功したからゆえ。失敗した人間のエピソードは一般に人口に膾炙しない。
ある者は金のため、ある者は名誉のため、ある者はプライドのためサッカーで汗を流している。倉木の場合はその出自のためである、とも言える。
倉木はもちろん自分の物語を信仰していた。この地球上の誰よりもサッカーで強くなる。なってみせる。
あるいは自分のように、重苦しく切実な過去を抱えた人間がアカデミーや代表の中にもいるのだろうか?
倉木はそれを耳にして、その選手の態度によっては尊敬の意をしめすだろう。『分かった、だが今は敵同士だ。ともに頑張ろう』などと口先では言える。口先では。
実力がすべてだ。
ピッチにそれ以外のものは持ちこめない。
……たかが練習試合。相手のユニフォームも自分が身につけているさえもユニフォームも軽んじて見ている。
前半確かに倉木は全開でプレイしていなかった。
それは前述したように年下に見える対戦相手に本気を出せないだけではない、彼の発達しきった自意識がこんなステージのゲームに全力を注がせなかった。
今は違う。すべての軛はとり払われた。
レーンに並べられたハードルは無視できるほど低くはなかったということ。
倉木は本来の自分をとりもどす。明日のために今日すべてを出す自分に。
倉木のプレイは各局面に直感を働かせただけであり、勝つために頭を使ってはいなかった。
放った瞬間倉木が必殺を確信したあのシュートを止められ、
そして法水の無回転は代表正キーパーをもてあそんだ。代表のメンバーの大半は(出場しているしていないを問わず)青ざめた。
それでいい。こいつらFFAとやらは自分が求めていた『最強のライヴァル』。
この試合で結果を出せば青野は自分を序列の最上位に置く。あの名将を認めさせることはこの先自分にとって大きな利益になる。
プレッシャーはあった。
だがこんな素敵なゲームを他の誰かなどに決めさせない。
シュートを止められたことに精神的動揺はない。だがこれ以上得点だけを狙うプレイを続けても意味がない。
倉木の手元には二十、三十の武器がある。絶対の自信をもつシュートも選択肢のひとつにすぎない。
パスだ。
合宿初日、夕方に行われた7人制のミニゲーム。対戦相手には鬼島結城がいた。
このゲーム、倉木は単独技でシュートを放つことはついに叶わなかった。この日初めてDFの役割を負わされた鬼島のただの身体能力にねじ伏せられたのだ。
しかし途中から倉木は鬼島をいなすことに成功する。きついパスを出しても味方が反応できることに気づいたからだ。
どんなに鬼島の足が速くともパスは捕まえられない。倉木のいたチームは得点を重ね、最後には彼自身もキーパーの前でイージィなシュートを決めた。
このゲームで昨日の練習と同じことをすれば良い。
倉木はようやく佐伯の考えに追いつく。
センターサークルの手前、前線にむかって腕をのばし、彼らの耳にこの言葉を叩きこむ。
「お前らに点獲らせる。俺のタイミングで走れ」