狼と花
「人の彼女に触ってんじゃねえよ、くそが」
その聞き覚えのある低い声に、穂乃香の身体の震えはぴたりと止まった。後ろから伸びてきた大きな腕が首を圧迫し、頭にはずしりとした重みが。そしてその温度にも覚えがあった。にやにやして穂乃香の腕を離さなかった目の前の男の顔色は突然変わり、あっという間に逃げるように去って行った。怖かった、でも解放された、良かった……そう安心はするけど。
「く、くるしい…っ」
力強い腕で呼吸できません!
「あ、すまん」
ぺしぺしと力強い腕を叩くとその温もりが離れ、ようやく息ができるようになる。胸に手をあてて、何度か深呼吸をするとようやく落ち着くことができた。
「大丈夫か?怪我してないか?」
不安げな声に、器用に結んだ三つ編みの髪を揺らしながら、穂乃香はくるりと振り返る。
「大丈夫です、助けてくれてありがとうございます……オオカミくん!」
お礼を言いながら顔をあげると、知った顔が眉間にしわを寄せていた。
「オオカミじゃない、大神だって言ってんだろ」
「だったら、下の名前で呼んでいいですか?」
「それはやめろ」
大神は何度話しても下の名前を呼ばれるのを嫌っていた。
「だったら私はやめません、良いって言ってくれるまでオオカミくんって呼びます」
「……お前な…」
「お前じゃないですよ?穂乃香です、ほのかって呼んでくださいオオカミくん、ほ・の・か!」
「ちょ、ちかい、やめろ」
「もう、照れ屋さんなんだから~」
大神は、穂乃香の名前を積極的に呼ぶことはしない。もちろんその理由は知っているので、穂乃香は大神をからかいつつも、可愛いと思うのが常だった。
「そんなことより、本当に大丈夫なのか?」
ここが人通りの多い駅前だということを全く気にせず、抱き着くように迫る穂乃香を押し返しながらも、大神は心配げに穂乃香に問いかけた。
「大丈夫って?」
「……さっき男に絡まれてただろうが、もう忘れたのかよ」
「ああ!さっきの。大丈夫ですよ、オオカミくんのおかげでなんてことありません、だって」
「だって?」
首を傾げる大神に、穂乃香は自分の頬に手を当てて、うふふっとそれはもう幸せそうに笑った。
「オオカミくんが彼女って言ってくれましたから、嬉しくてそれどころじゃなかったので!」
「……っ、おまえ馬鹿か!?」
「えへへ、オオカミ馬鹿ですよ~、彼女かーオオカミくんの彼女ー、うふふ」
「あれはお前を馬鹿なナンパ野郎から助けるための嘘だ!真に受けるな馬鹿!」
「馬鹿だから真に受けますー」
にこにこと嬉しそうに笑う穂乃香の顔を直視できず、大神は熱くなった顔を隠すように顔を逸らす。素直すぎる穂乃香の言葉と行動は大神をいつも落ち着かなくさせる。どれだけたっても、慣れることはなかった。
体が大きくて、父親そっくりの厳つい顔。怒ってるわけではないのに、周りからはそう見えてしまう顔。どこに行っても人に避けられ、恐がられるのに、出会ったころから穂乃香は、違った。男が苦手なくせに、大神にはそんな態度を見せず、なぜか懐いていた。平均身長よりも小さくて、花が咲くように笑い、友達も多い穂乃香とは正反対の大神が、穂乃香に惹かれたのはいつだったか。でも、今なら分かる、出会ったときだと。今日と同じように、この場所で助けたときに見せた穂乃香の笑顔に大神は、恋をした。
でも、恋愛の「れ」の字も知らなかった大神が前に進むのは難しいことで、友達のようなそれ以上のようなこの曖昧な関係に、いつ終止符を打つべきか悩む毎日。それでも。
「へへへ、オオカミくんの手大好きです」
「……うるさい」
名前を呼ぶことも、自分の気持ちをはっきりと告げることもできないのに、寒さから穂乃香の小さな手を守るように、温めることだけは得意な大神だった――。
fin?