第一話
いつからだろう、朝の通学が至福のひとときになっていた。あの電車が来るのを心待ちにするようになっていた。少しばかり加齢臭のし始めたサラリーマンも、どことなくニートっぽさを漂わせるおじさんも、果ては迷惑にも大声で電話をかける女子高生も全く気にならなくなった。人混みなんて大嫌いだったはずなのに。
いつからだろう、毎日同じ電車の同じ車両に乗るようになった。七時三十二分発、階段降りてすぐの八号車後ろ。乗り込みやすい乗車口だから多少混んではいるけれど。
いつからだろう、こんなにもあなたのことが好きになったのは。
あなたがいつも三十二分発に乗っている。それに気がついたのは、確か去年の今頃。わかってからは私もあなたと同じように三十二分発に欠かさず乗るようになりました。今まで十五年間、恋なんてしたことありませんでした。男の子に興味なんてかけらもなかったのですから。それなのに、あなたのことは好きだった。初めて会った、正確に言うならば初めて見たときから好きだった。もちろん、それが好きという感情だって私が知ったのはもう少し後のお話なのだけれど。
初めて会ったあなたは後ろ姿でした。開かないほうのドアにへばりついて流れる景色を見つめていました。私はそんなあなたにじっと目を傾けていました。あの人は街の雑踏に何を見ているのだろう。何が見えているのだろう。どこの高校の人だろう。部活は何をしているのだろう。誰か自分以外のことにこんなにも興味が沸くのは新鮮で、私にここまで思わせるあなたにさらに魅了されたのでした。今ならその気持ちの正体を知っています。私はきっと言葉にしがたい不思議さを纏ったあなたに恋していたのです。
高一の秋頃でしょうか、あなたの名前を知りました。偶然あなたの隣りに立った日のことです。紺色のエナメルにぶら下がった定期に「イチノセ ヒナタ」という文字が踊っていました。その日からあなたはイチノセくんになりました。
イチノセくんが隣の駅にある男子校の生徒だとわかったとき、もう文化祭シーズンは過ぎ去っていました。なぜだか残念に思ったのをよく覚えています。知っていたら行かないわけがなかったからです。来年は絶対行こう。そうひそかに決意しました。
春が近づくにつれて、私は不安に思うことがありました。イチノセくんは何年生だろう、と。高三だとしたら、卒業してしまうとしたら会えなくなるのではないか、と。だから始業式の日の電車で姿が見えたとき、心からほっとしました。また毎日会える。それだけで幸せでした。
はじめて言葉を交わしたのはこの頃だったでしょうか。あの日のことは今でも記憶にくっきりと刻まれています。
ねぇ、一之瀬くん。君もまだ覚えてる? 君が声をかけてくれたんだよ。それとも、もう忘れちゃった?
私には確かめる術がありません。もう、あなたには会えないのだから。大好きでした。今も、大好きです。たとえあなたが私から離れていっても私はこの恋を忘れません。私に、恋を教えてくれてありがとう。一緒に過ごしてくれてありがとう。夢をくれてありがとう。
一之瀬くん、君が私を導いてくれたんだよ。
ちょうど今も見えているあの星。あなたが最初に教えてくれた星。あれがレグルスだとあなたが夜空を指したから。それで私は宇宙に興味を持ちました。それからもあなたは私に会うたび会うたび宇宙を見せてくれました。あなたがしてくれた話を、私はきっと一字一句違わず思い浮かべることができるでしょう。それくらいあなたの話は魅力的でした。
宇宙はあなたのように広くて不思議で楽しくて。私は天文学者を志すようになりました。
私、がんばってるよ。一之瀬くんがくれた夢を追いかけてるよ。君は今、どこで何をしているの?
私よりひとつ年上のあなたは本当なら大学へ通っているはずです。だけど、それがどうだかわからないのです。いつからか連絡がつかなくなり受験勉強に専念しているのだろうとそのときは思いこみました。でも、三月を過ぎても合格の報告もなければ、そもそもメールも電話も繋がらないのです。幾度となく涙を流して、それでもあなたは私の元へ帰っては来ません。ほら、そんなことを考えていると、また涙が溢れてくる。
一之瀬くん、私を置いていかないで。