きなこ
広大な館の一室、そこでどれ程待たされているだろうか・・
ここは叔父、「四条内府」邸。
「しばし待て」と言われてどれ程か、いい加減「帰る」と言いだしそうになった頃、
廊下伝いに声が聞こえる。姿を見せたのは数人の貴公子たち。
その中の一人が薫子の姿を見て珍しいものを見る目をした。
「これは、珍しいお方を見る・・薫の君」
それは、この家の三男である泰時。あの義康の弟にあたる人。要するに薫子にとっては従兄弟の一人だ。
「相変わらずやんちゃななりをしておいでだ」
それは、水干姿で太刀を持つ薫子を従兄弟たちが半ばからかうようにいつも言うことである。
「泰時さまも、何やら雅なお姿で東宮坊にお勤めでございますこと」
どこから帰ったのかは知らないが、どう見ても勤め帰りには見えない。
美系の血は争えず、この人もまた多くの美姫たちと浮名を流す有名人であった。この人が切れ者と名高い基之と同じ所に勤めていることが不思議である。
「父上に呼ばれて参られたか?・・まあ、如月家のご兄妹は優秀で、お美しい故、父上のお気に入りであろう?我ら兄弟とは違って・・」
(嫌みか、それは・・)
内心で横を向いて「けっ」と言いそうになった。
(何がお気に入りだ。わたしなぞ、あのお方は斬り捨てる気満々だったぞ)
執念深いというならば言え、である。忘れてはいない・・
「何やら父上は企んでおいでのようです。お気をつけなされ・・」
従兄弟たちも馬鹿ではない。何かを感じ取っているものがあるのかもしれない。
廊下を歩み去る貴公子たちは、薫子を何やら珍しい生き物でも見るような目で見て行ってしまった。
それからすぐのことであった。
カラーンという空の桶の転がる音が、庭先に聞こえてきた。
「おゆるちくだしゃいましぇ」
まだ幼い声が二度、繰り返す。なんとなく気になってそちらへ向かった薫子が見たのは、小さな子供が下働きの女に頭を地べたにこすりつけるほど下げられている姿であった。その足元に水たまりと空になった木桶が転がっている。拭き掃除をしていたのだろうか、それが貴公子たちの邪魔にでもなったのだろう。
「まだ幼いもので、役立たずでございます。お許しくださいませ」
女の声が聞こえる。「薫風丸」を携えた薫子の姿に貴公子たちは少しひるみ、その場を開けた。
「あなた様方の何を気に入らぬことをこの童がしたのか、それは分からぬが、このように幼いながらも一生懸命に勤めようとしているのだ。遊び暮らすあなた様方よりこの子のほうが、人として上ではございませぬか?」
痛い所を平気でついて来る。そのまま庭先へ飛び降りて童の顔を覗き込むようにして「あれ?」と、小さな声を上げた。
見たことのある顔であった。確か、きなこ?と言わなかったか?
「そなた、きなこか?」
「あい、きなこでしゅ」
そう答えながら、誰かは思い出せないようであったが・・
この小さな体で、この館に奉公していたのだ。おそらくは口減らしのため
あかぎれだらけの手も、やせた体も、それがわかれば納得してしまう・・
「薫の君、いつまでもそのような所におられては、こちらにも迷惑です。お早く父上にお会いください」
良家の子女(一応)が庭先へ飛び出すなぞ、あってはならないことである。外に知れればどのような噂になって世間に広がるか・・
自分がこの館へ来た用件も思い出して、薫子は立ち上がった。
襟髪を掴まれて、廚の方へ引きずられていったきなこを見送ってしまったが、この時には、薫子はある思いを持ってしまったのである。