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忘れねばこそ


 大勢の人たちの中で、冬子は同じようにして舞台上の薫子を見ていた。

 思っていた衣装ではない。これは本来なら兼が着て舞うはずだった「陵王」

 、それを何故か薫子が舞っている。

 共に楽所へ通ってこの人の上達ぶりを傍で見てきただけに、こうしていることが素直にうれしい・・


「美しい舞い人ですね・・」

 自分を守るかのようにして横に立つ人が言う。食い入るようにして見ている冬子をそれは穏やかな雰囲気で包む・・何度か、舞い人と視線が合う。それはその貴族のことを問うているように感じた・・

(どなたですか?・・そのおかたは・・)

 薫子の知らない人・・でも、その人は冬子の傷ついた心を大切にしてくれた人なのだ。


 どれ程思って見ても、あの人と生きる未来は自分にはない・・


 それを思い知らされて、どれ程泣いただろうか。恨めればよかったのに、憎むことができればよかったのに、、それもできずに一人で泣いていたころに、中宮様よりお話があった。


「あのような薄情者には内侍はやれぬ。そなたをもっと大切にしてくれるお人の許へ行かぬか?」

 思いがけない嫁に行く話に冬子は半ばどうでもよい気持ちでその人にあった。その人は妻を亡くして再嫁話ではあったが、それだけに年若い冬子の心に黙って連れ添ってくれる広さがあった。


「忘れずともよいのです・・あなたが振り向いたときに、そこに私がおりましょう・・」

 その言葉で、冬子はその人の許へ嫁すことを決めた。それがこのひと・・

 それほど豊かな家ではないけれど、この人ならばきっと穏やかに生きてゆけるような気がする。あの危険な仕事に身を投じている人のことを思えば、はるかに生きてゆくのは楽だろう・・けれど、あの美しい検非違使長官をいつか忘れられるのだろうか?・・

 少し低めの声で「冬子姫」と呼ばれたことも・・うつむいていた顔を上げた時に光をはじき返すように見えた、強い意志を秘めた目も、いつか忘れるのだろうか?


 泣きそうな自分を持て余していた冬子が、とうとう泣いてしまったのは、舞台の舞い人が一人の白拍子に変わった時であった。

 漆黒の髪を背に流した男装の人。


「あれが、小督?・・」

「何とまあ、美しい女子か」

「この世のものとは思えぬの・・」

 そのささやきの中で、「小督」と呼ばれた人が舞う。冬子に視線を投げかけて小さく頭を下げてくる。それに気がついたのは冬子に寄り添う人。

「あの白拍子、ご存じでありましたか?」

 初めて見たその姿の人。何の違和感もなく白拍子でいる。

「はい・・とても、私なぞが勝てるおひとではないと・・今更ながらに、思い知らされております」

 涙の向こうで舞う人が見えなくなる。

 白拍子の姿は、吹く風が運んできた桜吹雪の中に一瞬、消えて行ったように冬子には思えた・・・


「忘れねばこそ、思い出さず候」。そんな言葉があります。吉野太夫の文に書かれていたとか・・冬子姫は年上の貴族の許へ嫁いでゆきます。幸せになれば、かつて思った人のことも忘れはしませんが時の中で薄れてゆきましょう。でも、何かの拍子にその人の名を聞くことがあれば、心は少し動くのです。それは痛みではありません。きっと、懐かしいから・・若い日のね・・「女の子はスパっと割り切る!次いこ!次!なのに、男ってば引っ越し下手で、いつま~でもうじうじしてる・・次!行かんかい!次!」

 振られて落ち込んでいた男の子に、女の子たちが慰めているやら首絞めているやらわからないような、そんな飲み会もあった若き日を思い出してしまいました。こんなこと、あとがきに書いてもいいのかしら・・?

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