炎上
ここから奥へ戻って行った男は、竈から火のついた薪を一本手にしていた。
少し温かさの感じられる夜、この邸に植えられている桜が花開いたのだろうか・・どこからかまいこんできた花びらに薫子はそんなことを考えていた。
(鎮花祭は、いつだったかな?)
そんなことを考えている場合ではないのに、なぜか頭の中にそれが浮かんだ。
少し口に運んだだけで茜は椀を置いた。同じように闇の中から聞こえる物音を拾うようにして首をかしげている。その手がしっかりと薫子の腕を掴んでいた。
「怖いか?」
笑いながら問いかける薫子に茜は恐怖に引きつった表情を向け、小さくうなづいた。
「そうだな・・わたしも、怖い・・」
ここで死ぬことになるかもしれない・・言い知れない恐怖がある・・
「来い」
突然雷丸に腕をひかれて、薫子は廚から連れ出された。
外へ出て風に乗ってどこからか、きな臭いようなにおいがしている。
どこから漂って来るのかが分からず立ち止まった時、奥の方の部屋が明るさを増した。揺らぐ影・・煙が増える・・炎が立ち上った・・
「誰だ!火をつけたのは!!」
腕を掴まれているのを忘れて、薫子は絶叫した。
見る見るうちに炎は奥の部屋をのみこんでゆく。そっちへ走ろうとした薫子を引きずり、反対側へ向かおうとした雷丸の足が止まる。
闇の中に立つものがいた。両の手に太刀を持つ水干姿。
正面から炎を受けて立つのは、あの検非違使長官である。
「薫子を返してもらおうか」
炎の中に崩れ落ちてゆく建屋の音がする。その中で薫子を挟んだまま二人が対峙した。薫子が前にいる以上兼は太刀を抜かない。
「検非違使、まだ、死ぬわけにはゆかぬのでな・・」
近づいて来る炎の中に、一瞬、何かが煌めいた。闇の中から飛び出したその光は過たずに、薫子の腕を掴んでいた左の肘に突き立つ。投げだされる格好でその場に転がった薫子の腕を誰かがひいた。
「形勢逆転」
闇にまぎれる黒装束の人物がつぶやいた声は、雷丸にとっては不利を告げたものだった。その声の主に向かって、兼が右手に掴んでいた太刀が飛んだ。
「薫子!己の身は己で守れ!!」
飛んできた太刀は薫子に差し出される。それは、「薫風丸」・・
ようやく帰って来た太刀を抱きしめている薫子を背にかばい、小太刀を抜いたのは、お吟・・
「一人では、来ぬか?」
「あいにくと、俺はそれほど人がよくないのでな」
兼が何人で乗り込んで来たのかはわからない。しかし、お吟がいると言うことは複数、しかも今燃えあがる邸の中のあちこちで騒々しい音が響いている。中には火を消そうとしている声も混じる。
「天寿丸!この邸はもう持たぬ!早よう外へ!!」
せき込みながら飛び出してきた綺羅に、戸惑うことなく雷丸は背を向け再び廚の方へ向かい走った。
「兄さま!廚には茜が!」
すぐそこまで炎が迫る。崩れてゆく邸を背にして兼の声がした。
「綺羅!薫子とお吟を頼む!!」
そのまま、兼の姿は煙の中に見失ってしまった・・・




