夢見る頃を過ぎても
(・・まいったな・・)
額に散る髪をかきあげながら、身動きすれば痛みの走る自分の体をもてあますようにして兼は困惑していた。
賊を追って走ったことも組みうちになったことも、覚えている。相手の名も聞いた。欄干を越えて水面に落下したことも・・確かに覚えている・・
水中であちこちぶつかって、意識が半分飛びかけた時に誰かの手が伸びてきて岸へ引きずり上げてくれたような気がする。そのまま誰かの肩に担がれてここへ来たような気がする。気がするばかりで、正確なことが分からない・・
竜胆と名乗った少女が、今如月家にいるきなこの姉の白拍子だと思いだしはしたが、何故ここなのか?
「わたしを、ここへ連れてきたのは誰だ?」
そう問えば、口ごもりはっきりした返事がない。
慎重に打ち身の手当てをしてくれる指が時折背中に残る古傷に触れる。
「過酷なお仕事でございますね。検非違使というのは・・」
「この程度の傷なら検非違使は皆持っている」
あれから、三・四日は過ぎている。当然検非違使庁では兼の行方を血眼で捜しているはずである。のんびりとここで美女の手当てを受けているわけにはいかない。
身を起こした時にその声が聞こえた。
「起きてもよいのか?検非違使どの」
庭先から現れて案内も待たずに部屋へ入って来た狩衣姿の貴公子の声は、あの時自分を水中から引き揚げて耳元で呼びかけた人の声であった。
「小督!!しっかりせぬか!小督!!」
自分をその名で呼ぶのは一人しかいない・・で、その人である・・
「そんなに嫌そうな顔をせずともよかろうが・・一応、命の恩人ぞ」
笑いながら言う雅貴から、目をそらして小さく舌打ちをしたが、それを聞かれた。
「礼の一つも言う気はないか?そなたの弱みを握っておるのはこのわたしゆえな・・」
「助けてもらった礼は言う。ただそれをネタに俺を脅そうと言うあなたが気に食わぬ」
「なんの、たのしいものぞ、このようなことでそなたを意のままに動かせるのならば」
「そう言うのを、悪趣味というのだ」
「なんとでも」
楽しげに笑った雅貴が忌々しい。が、すぐに雅貴は違う顔を見せた。
「さて、わたしにとってそなたは小督としか呼びたくない存在なのだが、ここからは役儀に変える。そなたも検非違使として応えてもらいたい」
「間違ってもらっては困る。検非違使が何でも話すとお思いか?」
「わたしの役儀と言うたはず」
この人の役儀は春宮付きである。問いたいことは兼が追った相手のことのはずだ。
「教えていただこうか、あの賊、何者か?」
「そうだな・・名くらいは教えよう。奴、「雷丸」と名乗ったが・・」
「奴が、人斬りの首謀者か?」
「さあ、聞く前におちたのでな」
さらりと答えた兼を信じてはいない。その二人のやり取りをハラハラしながら竜胆は見ていた。竜胆にとっては二人とも知っている相手である。
「可愛くない奴だな・・あの頃のそなたは途方もなく可愛かったが」
「いつまでも昔の夢を見ている奴に、応えてやる義理なぞない」
その言いようはとても過酷な職務に付いているとは思えないような、まるで子供の口げんかのようにも見えて、笑ってしまった。
そんな竜胆を見て自分たちのあほらしさに気がついたのか、顔をそむけて笑ってしまう。
「そなたは笑うやもしれぬが・・わたしにとっては小督は小督よ。たとえ夢見る頃は過ぎてもな・・」
それは今も変わらぬと言われているようで、兼を戸惑わせる。
昔も今も、自分は何も変わりはしない。あの日々は人の心を弄んだことにしかならなかったのか?あの頃の良心の痛みを思い出して、兼は雅貴を見ていた・・・




