ある夜の出来事
「下っていよ」
その言葉に茜は路上の人影と、その人に取りすがって泣く小さな女の子の側へ駆け寄った。その小さな体を抱きしめながら茜は自分が震えていることに気がついた。
(ま・・まさか・・ほんとに斬りあい?)
人が斬りあうところなぞ見たことはない。ましてや、この優しい人がである。世間では「鬼姫」だの「夜叉姫」だのといううわさがあることは聞いている
が、それはただの噂であろうと思ってきた。それが、今、事実として目の前にある・・
抜き放たれた「薫風丸」が風を切るような音とともに、一閃、二閃・・
相手はそれを、二度、よけた。
(ほう・・よけたか・・)
もとより、薫子は斬るつもりはない。血の臭いがしないのはこの人物が人斬りではないと思えたからだが・・
それでも、充分怪しいのは怪しい。
「この夜更けに、怪しい仮面をつけて出歩く奴なぞ、危ない奴だと言うて歩いているようなものよな」
薫子の言葉に仮面の奥で笑ったような声がする。
再び太刀を構えなおした時、近づいてくる人影に気がついた。
足早に近づいて来る三人が誰かわかったときには遅かった。
「薫子・・おまえ、何でこんなところに?」
聞き覚えのある声は、間違いなく兄・兼の声・・
白い水干姿で髪は無造作に束ねただけの兼はすぐそばに立っていた。
「兄さま!!この場、お譲りいたしまする!」
収めた「薫風丸」を持ち直して、今闇の中へ消えて言った数人の人影を追うため、走ろうとしたときだった。
それまで無言であった仮面の人物がゆっくりと兼の方へ向き直りつぶやくように、呼びかけた。
「・・そなた・・小督・・か?」
そう呼びかけられた兼の動揺は尋常ではなかった。いや、動揺よりも瞬間、その周囲の空気が凍りついたように感じた。
ただ、その仮面の人物を見つめた目は、これまで見せたことのない殺気にも似たものだったろうか?
「やはり、小督よな・・」
低い声でくぐもったような笑い声を仮面の下から聞かせて、立ちすくむ兼に声をかけそびれたまま、薫子は闇の中へ走りこんだ。
(だ・・だれ?なんのこと?小督ってなに??)
どうやら、それが兄に向けてかけられたらしいことは分かったが、女名である意味がわからない・・
(いや、いまはそれどころではない・・)
そう、先ほど見かけた連中の正体のほうがことはおおごとである。
耳を済ませれば、いくつかの足音が近い所に聞こえる。
(あまいね!その足弱なお方が、逃げ切れるわけがない!)
薫子が見た御方が間違いなければ、歩くこともそうない身分の人であろう
長い土壁に沿って歩いた先、その一角に今消えようとしている一団があった。追ってきた薫子に気がついたかのようにして、戸は閉められあたりにはまた静寂が戻って来た・・
「どこなんだか?・・はっきり言って、わたし、迷子?」
だいたいの方角は分かるが、ここがどこいらへんなのかがはっきりしない。とりあえず、目印に薫子はそのあたりの小石を集め、いくつかを重ねることにした。後日わかればよし。もしものときは直談判することもあるだろう
。
息が白い・・先までそれほど感じなかった寒さを急に感じて皆の許へ返るために背を向けた。これが、薫子を巻き込むごたごたの始まりであることなぞ、露ほども思ってはいない。そんな夜の出来事であった・・・