水難
薫子が言っていたことが始まろうとしていた。
御所を抜けだした春宮の一行が、どこへ向かおうとしているのか、兼はそのあとを追った。月明かりの中を歩む足音だけが聞こえてくる。
御所の築地塀の陰でそれを見ていた兼に気がついたのは、おそらく葛城 雅貴だけであったろう・・いつものように狩衣姿の雅貴は兼の追尾を知りながら、そのまま護衛の任についている。
(気づいているな・・)
こちらのことを承知しながら動く雅貴の行動は大胆である。どうせ、検非違使が護衛についてきているくらいにしか感じてはいないのかもしれない。
それなのに、兼は妙な感覚を先ほどから感じていた。
(・・誰か・・が、いる・・)
兼の耳に聞こえる足音と人数が合わないのだ。どうしても一人多い・・
それに雅貴も気がついているらしく、時折振り向き周囲を確認するような動きをしていた。貴公子たちは何も感じてはいないようだったが、二人の感覚だけが異様に研ぎ澄まされて、闇の中に解き放たれている。
いきなり、足音が大きくなった。金属音が二度、三度。
「春宮さま!中へ!」
大きな松の影が落ちる土塀沿いを駆け抜けて、雅貴の声を聞いた。
太刀を抜いていた雅貴が兼の姿を確認したのか、春宮をその館の中へ押し込んだ。襲撃してきた賊は、相手が二人になったことでその身を翻した。
「小督!!」
「その呼び方はやめよ!!」
雅貴にそう呼ばれた時には、兼の姿はすでに賊を追って闇の中へ消えていた。ここからは四条大橋が近い。後を追って走った雅貴が大橋の上でもつれあう二つの影を見たのはわずかに遅れた時だった。
突然、雅貴の視界から二つの影が消えてしまった。聞こえたのは水音が二つ・・
そして、橋の向こうから叫び声が聞こえた。
「あにさま!あにさま!!」
白い水干姿に見覚えがあった。こちらに向かって橋を駆けてきて、欄干から水音のした水面を覗き込む。続いて現れた男にも見覚えがある。その男は
所持していた太刀をその場に置き、何を思ったのかいきなり欄干に足を掛け宙に舞おうとした水干姿の体を、後ろから渾身の力で引きずり下ろした。
「何をなさるおつもりか?!あなたまでが飛び込んでどうするのです?!」
「・・だって、だって、あれは兄さまでした!」
「わかっています。すぐに検非違使庁に動くよう手配しますから間違っても、あなたは飛び込まないように、いいですね、薫子どの!」
橋の上で、へたり込み川下のほうの欄干にしがみつくようにして、半泣きの顔で水面を見つめている薫子。後を追ってきた藤原家の郎党に指示を飛ばす基之から姿を消すように雅貴は闇にまぎれた。そしてそのまま、川下へ続く河原へと降り、兼が流されたと思えるほうへ向かって走り出した。




