第8話 逃亡の果てに
拉致覚醒後52日目
一週間前に確認したい事があると言って私を抱きしめてからアーサーの様子が変だ。以前は一日に一回か二回くらいしか会わなかったのに最近は最低でも五回は此処にやって来る。
生気を求める回数も増えた。私が気絶してしまわないように休憩を挟みながら生気を食べる。今のところ体調に影響はないが明らかに食べられる生気の量が増えている。
アーサーはあの時、一体何を確認したのだろうか。この件と何か関係があるような気がするのだけど……。
「う…くっ……」
私は居間にある三人掛けのソファーの上でアーサーに生気を食べられていた。いつまで経っても彼が生気を私の中から引きずり出す感覚は慣れることができない。
ともすれば悲鳴を上げそうになるのをクッションに顔を押し付けて声を殺していた。
ふとアーサーの唇が背中から離れた。
今日はこれで三回目の生気の食事だ。もし、生気にカロリーがあったのならアーサーはこの一週間で確実にメタポリックになっているに違いない。
アーサーの大きな手が私の頭にそっと触れ、髪の感触を味わう様に何度も頭の上から首筋までをゆっくりと撫でる。とても優しい手つきに私の中で燻っていた違和感がますます煽られる。
アーサーは以前ならこんな事はしなかった。生気を食べた後ペットを愛でるように私の頭を撫でるようになったのは、どうしてなのだろうか。こんな風に触られると何故か私の心がざわついて落ち着かなくなる。いい加減、嫌だと言ってやらないといけない。
「アーサー。私は子供じゃありませんから、頭を撫でるのは止めてもらえませんか?」
「では、子供と思っていなければ触って良いという事だろ。大丈夫。俺はユキを子供だなんて思っていない」
ああ、もう。ああ言えば、こう言う。アーサーは変に頑固なところがあるのか。
「日本では他人に頭を撫でられるの良しとするのは、子供ぐらいまでなんです。あなたが私を子供扱いしてなくても、私がそう感じることになるので止めて下さい」
「分かった。やり方を変える。子供扱いしたと感じさせない方法にするよ」
結局、触ることは譲らないわけですか。
触って欲しくないって遠まわしに言っているのに何で察してくれないかな。英語圏の人にはもっと直接的な表現で言わないと通じないのだろうか。
そんなことを考えていると、不意にアーサーが私の左肩を掴んで私を仰向けにさせた。驚いてアーサーを見上げると、彼のダークブルーの瞳には欲情の熱と艶を孕んだ光が宿っていた。雌を求める雄の眼差し。
私は生気を供給するだけの単なる餌に過ぎないはずなのに、そんな眼差しを向けられたことに理解が追い付かず固まっていた。
アーサーは私の左肩を押さえたまま、右手を首筋から頬へ撫でるように移動させた後、顎を包んで親指で唇の柔らかさを確かめるように私の下唇をゆっくりとなぞった。
背中にぞくっと小さな震えが走った。何だろう。嫌な予感しかしない。
「ユキ……」
アーサーが低く掠れた声で私を呼んだ時、彼の携帯電話が鳴った。彼は何かを堪えるようにぎゅっと目を瞑った後、大きなため息をついてソファーから離れて電話を取った。
『何かあったのか? ……。分かった。すぐに戻る』
アーサーは携帯電話をジャケットのポケットに入れると私の方に向き直った。
「今、急用が入った。残りの生気は後で貰いに来るよ」
私はアーサーの言葉にぞっとした。
まだ、食べるのか――。
アーサーはひらひらと手を振ると、ここから出て行った。ドアを開閉する音がしてようやく先程の出来事を考える余裕ができた。
あんな色気ただ漏れの顔をして、この数日私の頭を撫でていたのか。アーサーに生気を食べられる時は背を向けていたので全然気づかなかった。
アーサーの瞳と手が明確に投げつけた「君か欲しい」というメッセージに私は困惑していた。
何が切っ掛けで彼は私にそんな感情を持つようになったのか、さっぱり分からない。必要以上に興味を持たれないように化粧もしないようにしていたし、怯えたり悩んで弱気になっている自分を見せないように、ずっと気丈に振る舞ってきたのに。
今は、まだ触られるだけで済んでいるからいい。アーサーがそれ以上を望んだら私には止める術がない。こんな状況下で好きでもない人から向けられた一方的な欲望は、私にとって恐怖の対象でしかない。
両腕を目の上で交差させて蛍光灯の光を遮る。視界が闇に包まれた中で私は考える。
アーサーは「急用ができた」と言っていた。「生気を貰いに来る」とも。だとすれば、数時間の間にここを訪れる可能性が高い。いつ来るか分からない相手を待ち伏せることはできなくても、それぐらいの時間ならば私にも待てる。
重い体をのろのろと動かし、台所で調理に使うナイフを、物置部屋から予備のシーツを一枚取り出す。そして、アーサーがいつも出入りしているドアのすぐ横に私はごろんと寝転がって、ここに来る者の足音を拾う為に床に耳を当てた。
暫くすれば体の気怠さは解消されるだろう。不意打ちを仕掛けてアーサーから鍵を奪えるかが勝負の分かれ目だ。
失敗すればただでは済まないだろう。最悪の場合、殺されるかもしれない。でも、数少ないチャンスは生かさなければいけない。次の機会はないかもしれないのだから。
私は目を閉じてひたすら耳を澄ませた。
逃亡の時は唐突に訪れた。
一時間ほど経った頃、三か所以上で鍵が解除される音が床伝いに聞こえたのだ。
えっ、と思って目を開けると、そこには闇が広がっていた。僅かな明かりさえもない完全な闇がそこにあった。
壁に手をついてどうにか起き上がる。手探りでドアのノブを探し、軽く時計回りに回すと信じられないことにドアが開いた。
このドアの先は駄目だ。アーサーがいつも通るのだから。行き先が彼の居る場所だったりしたら目も当てられない。私は壁伝いに物置部屋まで移動しその奥にあるドアを目指した。
手探りでドアのノブを探しだし、手を掛けて回すと乾いた音がしてドアが開いた。闇の中を慎重に進むと、その先は緩やかなスロープになっていて、何度も折り返しながら上へ続いていた。
突き当たりにはスライド式のドアがあった。左へ思いっきり引っ張るとドアが開いて、肌に突き刺さるくらい冷たい空気がなだれ込んできた。
夏に拉致されてから二か月ほどしか経っていないと思っていたけど、これはまるで真冬の寒さだ。しかも、昼頃かと思ったら夜のようにあたりが暗い。激しく雨が降る音と風の唸り声、雷鳴が耳の鼓膜を震わせていた。
雷光が一瞬だけあたりを照らし出した。私が出た所は倉庫のようだった。窓が右手にあるのが分かった。私は転げるように窓へ駆け寄ると、鍵を外して窓を開けた。途端に横殴りの冷たい雨が私の顔に降りかかった。
腰の高さがある窓を乗り越えて外へ出ると、寒雨と強い風が容赦なく私の体から体温を奪っていく。こんな薄い部屋着では、この寒さには耐えられない。遠くない内に行動不能になるかもしれない。でも、逃げるチャンスは今しかない。とにかく一刻も早く此処から離れるのだ。
私は雷光が見せた森に向かって走り出した。
森の中へ入ると木々が風よけの役割を果たして風当たりは弱くなってくれた。地面には枯葉が重なり、雨水を吸って靴に纏いついてくる。夜の闇に目が慣れてきたとはいえ朧気にしかあたりの様子が掴めない。それでも私は時々転びそうになりながらも走り続けた。
走りすぎて脇腹が痛み、呼吸が乱れすぎて苦しい。疲れと寒さで脚が前に出ない。
長い監禁生活は、体力が落ちないように気を付けていたにも関わらず、私の持久力を確実に削っていた。
今は、これ以上走るのは無理だ。早歩きに切り替え更に森の奥へと進む。一度だけ後ろを振り返り、追ってくる人の気配がない事にほっとする。
寒い。どこか体を乾かす場所が見つかればいいけど。この森を抜けて民家を探さないといけない。
肌を刺すような寒さの中で体が濡れているのは非常にマズイのだ。体力と体温が奪われて低体温症になりかねない。低体温症も重度となれば死を招く。
陸上自衛隊のレンジャー部隊員だった父は、こんな時どうすると話していた? 水に濡れないこと。濡れていれば体を乾かすこと。防寒のために服を着込むこと。眠らないこと。他には何があっただろうか。
こんな事になると分かっていたら、父が語っていた訓練と演習の自慢話をもっと真剣に聞いておけば良かったと後悔する。
随分森の奥へと進んだ。かじかんだ手に息をかけて温めながら、休める所はないだろうかと辺りを見遣った時、木々の間から微かに小さな光が三つ見えた。それは同じ場所に留まることなく蛍が飛ぶようにゆらゆらと揺れていた。
追手だ。光の数からすると三人一組になっているようだ。
森に入るところを見られたのだろうか。いや、闇夜の中、雨が降りしきる状態で視界が効くとは思えない。だったら、どうして私を追いかけてこれるのか……。
再び走り出した私の脳裏に亡くなった父の言葉が掠める。
『戦場では何事にも対処できるように、常に最悪を想定するものだ』
森に隠れたのを知らずに、私を追跡できるとしたら……、あちらには追尾訓練を受けた犬がいる。犬を嗾けられたら間違いなく追い付かれる。犬に噛みつかれた上に足止めされるなんて、まっぴら御免だ。まだ、あちらは私に気付いていない。逃げるに限る。
必死に足を動かしていると、ごうごうと水が流れる音が耳に入ってきた。音がする方へ足を向けると、幅20メートル程の川があった。
雨のせいで増水して流れは速く、水の色は灰色に濁って水深も川底の地形も掴めない。普段なら危なくて渡れない川と判断するだろう。だが、この時の私は迫りつつある脅威に背を押されて川に足を踏み入れたのだった。
川を使えば私の匂いを途切れさせることができる。犬の追尾を振り切る事ができるかもしれない。
川の水は身を切るように冷たく、速い流れは脚を掬おうとする。私はお尻まで水に浸かりながら必死に対岸を目指した。
川の真ん中あたりまで進んだ頃、犬の吠え声が耳に届いた。懐中電灯の光が水面を走り回り、そのうちの一つが私を捉える。光をまともに顔に当てられて追手の顔は眩しくて見えなかったが、英語で私に怒鳴っているのが分かった。
『止まれ。逃げるようなら射殺する』
怒鳴られた直後に乾いた銃声が単発闇の中に響いた。威嚇射撃か。次は容赦なく撃ち込んでくるかもしれない。緊張のあまり心臓が痛いほど不規則に跳ねた。
ここで止まったら捕まるだけだ。捕まってあの地下室に再び押し込められてしまえば、二度と逃げることはできないだろう。そうなれば生気を奪われ続けて緩やかな死が確実に待っているだけだ。そんなのは嫌だ。ここは撃たれる危険を冒してでも逃げなければ。
そう決心し身を翻して三歩前へ進んだ途端、深みに嵌り私の体は川の中に沈み込んだ。濁流に体が押し流される。水面へ顔を出そうと手足を動かして懸命にもがいた。
凍えきった水が私を蝕んでいく。既に指先の感覚は失われ、体熱を奪われた体は筋肉が強張って思う様に動いてくれない。どうにか水の上に頭を出すことに成功して川の上流へと顔を向けると、追手の照らす光が遠くに見えた。
何とかして対岸に辿りつかなくては。
そう思ったのが最後の記憶だった。濁流に再び呑まれた私は激しい水流に翻弄されるまま、勢いよく背中と頭を何かに叩きつけられて意識を失った。
2012.05.14 初出
2012.09.11 改行追加