第6話 それぞれの日常
誰かさんと似たような名前が出てきます。
改めて申し上げますが、この作品はフィクションです。
ええ、フィクションですとも――――。
白ワインを騙して飲ませた日からユキは俺に対しての警戒を更に強めたらしく、俺と一緒に食事をするときにはグラスの水に手を付けなくなってしまった。
マックスが言うのには、日本人は約10パーセントの割合でアルコールの分解が遺伝的に困難な体質を持つのだそうだ。ユキもそういった体質を持つ一人という事なのだろう。
あの時はマックスが診察した結果、健康状態に特に問題がないというので、酔って眠っているユキから生気を貰ったが、その際にユキが微かに漏らした甘い声と朱に染まった背中が俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
犠牲者には、極力情を移さないように関心を持たないようにしてきたが、ユキに対しては時間が合えば食事を共にするほど関わりを持ちすぎている。これは拘束期間が長きに渡ることが予想されるため、ユキの精神安定を考えてマックスから勧められたからだが、俺はいつの間にかそれを密やかな楽しみにしてしまっている。
ユキは捕食者である俺に気を許す事は絶対にないだろう。だが、警戒心という衣を脱ぎ去ったら、ユキがどんな表情を見せるのか見てみたいなどと思っている俺は、相当卑怯な人間なのかもしれない。彼女の命を日々削っておきながら、更に彼女の心を求めるなど到底許されることではない。
もし、ユキとの出会いが全く違うものであったなら、彼女は俺に寄り添って笑ってくれたのだろうか――。
『おい、アーサー。テレビ電話会議前に何惚けているんだ』
仕事用の部屋で思索を巡らせていると、アメリカ支社のダニエルが画面に現れた。会議開始時間まであと30分もあるのに、うっかり中継機能をオンにしてしまっていたらしい。今更、回線を切る訳にもいかないので、パソコンに向き直った。
「おはよう。ダニエル。俺は惚けていたのではなく考え事をしていたんだよ」
『心ここに在らず、って顔で考える事なんぞロクな事じゃないと相場が決まっている。どうした? 気になる女でもいるのか? んん?』
ダニエルは、ニヤニヤと俺の反応を楽しむように軽口を叩いた。
彼は俺の古くからの親友で、ニューヨークで週替わりと言って良いほど女性と浮名を流しているプレイボーイだ。それでも仕事の質は全く落ちないのだから、侮れない人物だ。
「ああ、気になる人はいるが、警戒されてしまって少し困っているところさ。できれば、君に恋愛の手管をご教授して頂きたい気分だね」
こちらも冗談めいた口調で返すと、ダニエルは画面の向こうで破顔した。
『32歳になった堅物のお前にも、とうとう春が来たか。お目当ての女に警戒されているなら、それを解くのが先決だな。しかし、お前は昔から気に入った女の子を苛める癖があるから、難しいか』
そんなはずはないと言いかけて、思い当たる事が幾つも浮かんできて俺は言葉に詰まった。
『まー、頻繁に会って、彼女に自分は安全だと勘違いさせるのが第一歩だな。まずは、そこから始めてみろよ』
安全と勘違いさせるだって? 俺はユキにとって脅威にしかならないのに、それこそ無理だ。
そう思いながら、ダニエルの言いように引っかかりを感じて聞き返してみた。
「安全と信じ込ませる、の間違えじゃないのか?」
『なーに言ってるんだ。彼女を食べちまうのが最終目的だろ。勘違いで十分さ。信じるまで待ってられないだろ』
……俺は、相談する相手を間違ったかもしれない。
『ボス、アメリカ人色魔の言う事は聞き流してください。そんな方法で女性の心を得る事はできませんよ』
弱冠21歳でドイツ支社長を務めるザインが冷ややかな声で、俺の心情を代弁するかのように割り込んできた。いつの間にか回線が繋がっていたらしい。彼はフェミニストだから、ダニエルの発言を不快に思っているのだろう。
『ザイン。お前は尻の青いお坊ちゃまだし、経験不足で頭でっかちだから、分かんねぇだろうなぁ』
ダニエルが挑発するようにザインをからかった。ザインはさすがにむっとしたが、あくまでも冷静な表情を崩してはいなかった。ザインが何かを言い返そうとしたとき、テレビ電話会議のウィンドウが次々と開いて、会議開始の時間が近い事を我々に知らせた。
ザインは言葉を飲み込み、しばらくしてダニエルの司会で会議が始まった。
各地域の経済状況報告に始まり、今後の投資方針を決める会議。この会議の結果によっては、三兆ドル近くの資金が世界を駆け巡ることになる。
一通りの報告が終了したとき、俺は口を開いた。
「ギリシャ国内情勢の混乱、欧州中央銀行(ECB)とIMFの救済融資の停止措置により、ギリシャ国債のデフォルトはもはや不可避になった。しかし、俺はその先を見ている。ユーロシステムの崩壊だ」
『そりゃ、穏やかじゃないな。「視えた」のか? もし、そうなれば世界的な経済混乱が引き起こされるぞ』
ダニエルは、画面の向こうで頭を抱えて唸った。
「ああ、視えた。ユーロで保持している資産は、この二か月の内に全て処分してくれ。但し、他のヘッジファンドに気づかれないように、こっそりとだ」
『ボスが未来を視たのなら、早急に処分しましょう。もともとユーロシステムは欠陥を抱え込み過ぎていましたから、ある程度こちらも予測を出しています。会議終了後、レポートを配布します』
ザインは冷静に分析を続ける。
『ボスがユーロの崩壊を視たという事は、日本は今回生じる危機に手を貸さないという事ですね?』
『おいおい。リーマン・ショックの時は麻木総理が救済資金が枯渇しかけていたIMFへ1000億ドル貸出して世界金融危機の連鎖を未然に防止したのに、今回は知らんぷりかよ』
面目ない、と日本支社長の羽柴正樹が申し訳なさそうにダニエルに答えを返した。
日本が欧州の金融危機に動かないのは羽柴のせいではないが、すぐに謝るのは日本人の美徳なのだか欠点なのだか、よく分からない。
「そうだ、今回日本は動かない。政権交代とやらは、日本に限らず世界にとって不幸の始まりだったという事だ。だが、俺はユーロ資産を処分した資金の逃避先を日本にしようと思っている」
『なんでだ?』
ダニエルが疑問を呈すると、ザインが手元の書類を一瞥してスラスラと説明をし始める。
『日本は長年デフレに苦しんでいます。アメリカは、リーマン・ショック以降、二年でドルの流通量を三倍に増やしましたが、日本円は殆ど増えていません。しかも、今の菅原首相は経済学初歩用語の説明も出来ない馬鹿で、間違った経済政策を次々に打ち出していますから、彼が首相の座にいる限り、デフレが収まる可能性は非常に低いですね。デフレが進行している時に増税しようとするなんて、気が狂っているとしか思えません。よく暴動も起こさずに日本の国民は我慢していますね。これがドイツなら首相官邸にデモ隊が連日のように押しかけていますよ』
ザインは15歳で飛び級によって大学院を卒業した天才であるせいか、努力もしない無能にはとことんまで容赦がない。
「つまり、これから日本円の価値が、ますます上がるってことさ。経常収支黒字国で世界一の純債権国でもある。しかもデフレでますます通貨の価値が上昇する国だ。これほど安全な資金の逃避先はない」
俺がそう締めくくると、各地域の支社長から異議は出なかった。
* * * * * * * * * *
拉致覚醒後14日目
今、何日経ったのか正確には分からない。カフェと本屋の店長にイギリス土産を買って帰るって約束したのに、もう忘れられているかな。店長も同僚もいい人ばかりで結構気に入っていた職場だったけど、予定の9日の休暇を超えてこんなに無断欠勤したら解雇されてしまう。
帰れるものなら、日本に帰りたい。今頃、夏祭りや花火大会が連日のようにどこかで開催されているはずだ。夢の中でなら見られるだろうか。夜空に咲く大輪の輝きを。
居間でソファーに座って、私はここ数日でアーサーから引き出せた情報をノートに書き出して整理していた。
実際の所、ここを抜け出すための方策は未だ見つからずに少なくない焦りを私は抱えていた。
アーサーが生気を必要とする原因が魂を繋ぎ留める呪具だった、なんていう斜め上の展開は予想を超えていた。呪具であるチョーカー自体を破壊できれば生気を奪われなくなるのかもしれないが、私とアーサーでは体格の差が大き過ぎるから、かなり難しい。私がアーサーに攻撃を仕掛けても、あっという間にねじ伏せられてしまうだろう。
ここから外部へ通じているドアの鍵もアーサーは持っているのだろうが、生気を取られると暫くは体の動きが鈍くなるので、彼がドアを開ける時に強引に外へ出る手段も取れない。
足音の区別は聞き分けられるようになってきたが、常に同じ歩幅で歩く癖――陸上自衛隊員の父とよく似た歩き方だ――がある人がいて、監禁関係者に軍人出身の人がいる事が窺えた。
ここは日本ではない。下手をすると銃を持っているかもしれない。しかも、それを正しく扱える技術と知識を持つ人間がいるという事が、ますます私を心理的に追い詰めていた。
それに、私に残されている時間がどれくらいなのかも問題だった。動けなくなる前にここから脱出できなければ、そこで終わりだ。タイムリミットは、あと数日後なのかもしれないし、数か月後なのかもしれない。まだ体調にこれと言った変化はないように思うけど、私にはどれだけ自分の生気が残されているかは知ることができない。
アーサーは時々意地悪なところを除けば、おおむね紳士的に私に接してくれていた。時々食事を共にし、私は少しずつ身の上話をアーサーにするようになっていた。
親戚と家族を大震災で失ったこと。一人暮らしでカフェと書店でアルバイトをしていたこと。母や妹との思い出や日本の四季の移り変わりの見事さや良い所など他愛のない話までしたが、父が陸上自衛隊レンジャー部隊の下士官だったことや、英語が理解出来ることなどのアーサーを警戒させるような内容は慎重に避けていた。
アーサーも外の話題や、彼が就いている仕事の話題は徹底して避けていたから、これはお互い様と言ったところだと思う。
「はぁ……」
煮詰まった思考をため息と共に吐き出して気分転換のためにお茶にすることにした。ノートを閉じてボールペンをローテーブルに置いて台所へ向かった。
疲れた時は甘い物が欲しくなる。一昨日作ったクッキーでも食べよう。
「な…、無い……」
私は、台所の調味料を置いている棚に隠してあったクッキーの瓶を取り出そうして果たせなかった。だって、クッキーを保存していた瓶ごと無くなっていたのだから。
がっくり肩を落としてもクッキーは返ってこないのは分かり切っていたけど、そうせずにはいられなかった。
これで手作りのお菓子を盗まれたのは何回目かしら。
レアチーズケーキを作った時は食べる前にホールごと冷蔵庫から消えた。バウンドケーキを作った時は台所で粗熱を取るために放置していたら二本のうち一本が無くなっていた。
犯人はアーサー以外にあり得ない。
お菓子が欲しい、と一言言ってくれれば少しなら分けてあげるのに、どうして大量に持って行くかな。
私は、こめかみを右手の指先で揉んで沸いてくる怒りをやり過ごそうとしたが、我慢できずに右手に握り拳を作って叫んでいた。
「アーサーめ~、何回私のおやつを取り上げたら気が済むのよ。食べ物の恨みは恐ろしいんだからね。今に見てなさいよ。いつか、ぎゃふんと言わせてやるんだから!」
私の声は虚しく台所に響いた。
2012.05.12 初出
2012.05.12 誤字修正
2012.09.11 改行追加
ザイン君の言っていた「ユーロシステムの欠陥」について補足しておきます。経済に興味のない方は、飛ばして下さい。読まなくても影響ありません。
通貨ユーロの欠陥は、財政政策と金融政策を分離してしまった事にあります。財政政策は加盟各国が、金融政策はECB(欧州中央銀行)が握っています。
ユーロは加盟国で勝手にお金を刷れません。通貨ユーロを発行できるのは、ECBだけです。ギリシャやスペインの国債の金利が大幅に上昇したことがありましたが、日本でしたら日銀が国債を買って(お金を刷ってでも)金利の上昇を防ぎますが、ユーロ加盟各国は独自の判断で国債を買って金利を調整することができません。なぜなら、金融政策をECBに委譲してしまっているからです。
金融政策にしても、加盟国それぞれに最適な金融政策は違ってきます。それをたった一つの金融政策で一括りに対処してしまうのはどこかで歪みが生じます。インフレになっている国とデフレで苦しんでいる国が単一の金融政策で対処できるはずもありません。
デフレに苦しむ国が取るべき金融政策は、金利を下げてお金を使いやすくしてあげる事なのですが、インフレの国でそれをやると、ますますインフレが酷くなります。
金融機関が資金繰りに問題が生じたりして誰もその金融機関に資金を貸さない場合、信用不安が市場全体に広がるのを防ぐために、日本では日銀が無制限・無担保の資金を供給します。これを日銀特融といいまして、1965年に山一証券を初め、今までに幾度が行われています。
この中央銀行がもつ機能を最後の貸し手(Lender of Last Resort)と言うのですが、ECBが本当にこの機能があるのか私は疑問に思っています。ユーロ加盟国で国債のデフォルトが生じた時、無制限にその国に焦げ付くのを覚悟で資金を供給できるのか。ECBに資金を提供している国の中央銀行から、当然反対が出るでしょうし、ECBはインフレが大嫌いなドイツが主導権を握っているようですので、インフレに繋がる行動をするとは思えないのです。
実際、昨年のギリシャの債務危機でも、半強制的にギリシャ国債を保有する金融機関に自主的な債務放棄をさせて低金利の国債に交換させてます。ECBもギリシャ国債の買い取りはしましたが、デフォルトしそうなら最後の貸し手としてECBが何故全力でギリシャ国債を買い取らなかったのか。ここにECBの姿勢が透けて見えているのではないでしょうか。
また、ユーロ通貨圏に留まっている限り、為替ボーナスを受け取れません。経済危機が生じた国の通貨は通常暴落します。国民生活は苦しくなりますが、輸出競争力が高まります。その結果、経常収支は黒字化へ向かいます。しかし、ユーロ通貨圏にいるかぎり通貨ボーナスは望めません。
しかもECBやIMFから支援を受けようとすると、必ずと言って良いほど緊縮財政を求められます。不況下で政府が緊縮財政を押し進めると、ますますデフレが悪化して税収が減少し、財政は更に悪化します。
経済回復の手段を取り上げられ、財政の自主権も制限され、有効な経済対策を打てない。こんな状況でユーロ通貨圏に留まる国ってあるんでしょうかね?