表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フェンリルの懐で眠れ  作者: Laxmi
番外編
54/59

疑い合う二人

時系列的には 番外編「悪夢に舞い降りる天使」の少し前の話になります。

本編でおぼろげにしか書くことができなかった部分をフォローしています。

 私の記憶が戻ったのは、三日前。同時に私が妊娠している事も分かった。

 私がアルバイトをしていた喫茶店のマスターと女将さんの帰国を見送った後、プライベートジェット機でナントの地へ戻った私とアーサーは、館で働く人々に迎えられた。

 彼らは私がアーサーの子を宿した事と記憶が戻った事を祝福してくれた。アーサーは改めて私の妊娠と記憶の回復を、ライラさんを始めとする使用人達に報告した。


 ただ、その報告の一部には嘘が混じっていた。私は全ての記憶を回復しているが、私がアーサーによって地下室に監禁されていた期間の記憶は取り戻していない事になっていた。

 つまり、使用人の皆にとっては、私が初めてヒースロー空港到着した直後から記憶喪失になる直前にあった誘拐事件――そもそもこの誘拐事件自体が嘘なんだけど――までの記憶はない事にしていた。


 私の名前が本当は北島由紀だという事を、アーサーはどうやって皆に説明するのだろうかと見ていたら、「マリ・ナカガワはミドルネームで、普段はユキ・キタジマと呼ばれていたそうだから、今後、マリの事は『ユキ』と呼ぶように」と、簡単な説明で済ましてしまった。

 特に疑問を抱く感じもなく、あっさりとナントの館の人達が納得してしまったのを見て、私は何だか拍子抜けしてしまった。

 そんな私の様子を見ていたアーサーは、耳元で理由をこっそりと囁いてくれた。


「欧米ではミドルネームを複数持つ事は珍しい事じゃない。大学時代にスペインから留学していた友人はミドルネームを4つ持っていたし、アラブの友人は8つ持っていた」

「そんなに長い名前を持っていたら、名前を書く時大変そう」


 日本にはミドルネームの習慣はほとんどないから、私には8つのミドルネームがある名前なんて想像がつかない。落語の小噺(こばなし)ではないけれど、長い名前を書いている内にたんこぶも引っ込むんじゃないだろうか。

 素直に疑問を口にしてみれば、アーサーは微笑んで解説してくれた。


「名前を書くときは、長い名前ならせいぜい3つぐらいに省略して書くし、ミドルネームの部分はイニシャルを書いて済ませる事が多いな。そんなに手間ではない」


 これも文化の違いなのだろうか。日本では戸籍制度があるから、芸能人でもない限り、戸籍に登録された名前を書くのが普通だ。




 アーサーはライラさんに私のスーツケースを部屋に持って行くように指示すると、私を書斎へと連れて行った。


「俺が出て来るまで書斎に誰も近づけないでくれ。俺宛の電話も取り次がないように頼む」


 そうマックスさんに言ってから、アーサーは書斎に入り、内側から鍵を閉めた。

 アーサーは書斎机の前にあるソファーに座るように私を促した。私が座ったのを確認すると、隣にアーサーが座ってきた。アーサーは私の肩に腕を回して、体を自分から離せないようにした。


「ユキの記憶が戻ったのだから、俺と生きていく上で、今まで俺が隠しておいた事を知ってもらう必要がある。だから、マックス以外の使用人の出入りが基本的に禁止されている書斎に来てもらった」

「知らなければならない事?」


 アーサーは真剣な眼差しで私を見ていた。今から罪を告白するような罪人のように、その表情には苦悩が混じっていた。


「俺が生命活動を維持するために人の生気が必要だという事は、出会った時に言ったと思う。もし、俺が生気をもらう事ができなければ、三日ほどで飢餓状態に陥る」

「飢餓状態になると、どうなるの?」

「人に宿っている生気が意識しなくても見えるようになる。更に飢餓状態が進むと、誰構わずに生気を求めて人を襲うようになるんだ」


 アーサーに生気を取れない場合のリスクを説明されて、私は息を飲んだ。

 誰かを犠牲にさせない為に、三日間以上間を開けないよう、私はアーサーに生気を与え続けなくてはいけないという事になる。

 監禁されていた頃の生気を奪われる感覚を思い出して、私は身をふるりと震わせた。


 今では命の危険はないと頭では理解できているけれど、あの感覚は慣れる事ができなかった。

アーサーが口づけを落とした場所から、体の熱が奪われていき、力が入らなくなっていく。体が重くなり、冷たく凍える沼へ沈み込んでいくような感覚は、いつも私の心を寒からしめた。

 できればあの感覚は二度と味わいたくはないのが正直な感想だ。でも、そんな事は言っていられない。アーサーと生きていくと覚悟を決めた以上、彼が他の人を襲ってしまわないように、私は全力でサポートしなければならない。


「そうなる前に、私から生気を取って。アーサーが不安なら、毎晩、一緒にベッドで眠る前に取ってもらっても良いから……」


 そうアーサーに言いながら、ふと気づいてしまった。記憶を失くしてからアーサーに生気を食べられた事がなかったことに。

 プロポーズを受けるまで、心臓近くの胸や背中にキスされたり、首筋に唇を寄せられた事はなかった。

 肌を触れ合わせるだけで、生気が私からアーサーに流れ込んでくると言っていたが、プロポーズされるまで同じベッドで眠ったのは、ほんの数日だけだった。

 その間、アーサーは生気をどうやって確保していたの? まさか、他の犠牲者がいたとか?

 話している途中で言葉を切って考え込んでしまった私を見て、アーサーは怪訝な顔をして声を掛けてきた。


「どうした? 何か気になった事でもあるのか?」

「私が記憶喪失になった後、アーサーは誰から生気をもらっていたの?」


 アーサーに問われて、思考がそのまま口から漏れていた。間を置かずにアーサーは私の疑問に答えてくれた。


「ユキからもらい続けていた」

「嘘」

「嘘じゃない」

「それなら、どうやって生気を私から取っていたの?」


 答えるのを躊躇うように、暫くアーサーは視線を空中に彷徨わせていたけど、観念したようにため息を一つこぼした。


「カリンから睡眠薬を処方されていただろ? あれは俺がカリンに指示したものだ。ユキが睡眠薬を飲んで眠った後に、寝室に忍び込んでユキの背中から生気をもらっていたんだ」


 確かに記憶喪失後にカリンさんは私に睡眠薬を処方していた。誘拐事件と記憶喪失のショックで不眠症になるといけないからと、カリンさんに説明されて、毎日眠る前に睡眠薬を私は飲んでいた。

 結婚を承諾してからは、ほぼ毎夜アーサーに翻弄される日々が続いて気を失うようにして眠りについていたから、いつの間にか睡眠薬は必要なくなっていた。

 紳士だと思っていたアーサーは、初めから狡猾な狼だったという事か。

 記憶が戻るまで、背中を気にする事なんてなかった。眠っている間に生気を取られていたなら、私が気づけるはずもない。


「私がここに犠牲者として連れてこられてから、他に犠牲者はいないのね?」

「ああ、ユキが最後の犠牲者だ。他にはいない」


 犠牲者の有無についてアーサーに確認する。アーサーを見る眼差しがきつい物になるのは仕方のない事だった。

 本当はどこかに犠牲者がいるんじゃないかという疑念が私の顔に出ていたのか、アーサーは肩をすくめて頭を振った。


「その様子では、まだ納得していないみたいだな。仕方ない。証拠を見せるよ」


 アーサーはソファーから立ち上がって、書斎の一角にある天井まである本棚へと近づいた。

 中ほどの段にある分厚く重そうな本を数冊棚から取り出し、その奥にある小さな隠し扉を開いた。アーサーがハンドルのような物を回すと、本棚がスライドして地下へと続く階段が現れた。


「ユキ、おいで」


 アーサーが手を差し伸べて、私に一緒に来るようにと促した。ソファーを離れて私はアーサーの手を取った。

 階段は灰色のコンクリートで造られていた。人間二人分ほどの幅しかない階段は、折り返しながら下へと続いていた。

 階段が終った先に開きっぱなしになっている大きく重そうな扉があった。この扉が設置されている場所だけ、壁が異常なほどに分厚かった。

 その近くにあった小さな部屋もドアが開けられていて、中には簡素なパイプベッドが置いてあった。


「ユキがこの地下室へ連れてこられた日、俺はここで飢餓状態の暴走を防ぐために、薬の力を借りて眠っていた」


 通り過ぎざまにアーサーが教えてくれた。

 そこから十数歩歩いた所に茶色のドアが立ち塞がっていた。アーサーはジャケットのポケットから鍵を取出して、ノブの鍵穴へと差し込んだ。右へ鍵を回すとカチリと音がして鍵が解除される音がした。


「さあ、どうぞ」


 アーサーが開いたドアの向こうには、私が監禁されていた地下室の居間があった。

 逃げ出した時と違っていたのは、ソファー等の家具は全て埃よけの白いカバーが掛けてあった事だ。

 アーサーは私を連れて、寝室、浴室、台所、物置部屋と全ての部屋を開けて回って見せて、この地下室に誰もいないと証明してみせた。


「これで犠牲者はいないという事が分かっただろう?」

「うん。疑って、ごめんなさい」


 私は素直に謝った。新たな犠牲者は出していないと確認できて、私はほっとしていた。

 アーサーはふと何かを思い出したように居間の一角に置いてあった本棚に私を連れて行った。


「そうだ。ユキが脱走する前に取りよせた日本語の書籍が何冊かあったはずだ。まだ読んでなかっただろう? 折角だから持って行くといい」


 埃よけのカバーをアーサーは本棚から剥がした。そこには、私が監禁生活が退屈だと言ってアーサーに取り寄せてもらった本が、そのままの状態で並んでいた。


「ありがとう。でも、どうして私が監禁されていた当時のままの状態をずっと保存していたの?」


 監禁されていた時に寝起きしていた寝室のクローゼットには、当時私が着ていた服が掛けたままになっていた。台所は私が使っていた調理器具がそのまま置いてあったし、醤油やオイスターソース等の調味料も冷蔵庫の中に保管されていた。

 私が拉致されて、ここで目覚めた時は、前の犠牲者の服や生活用品は一切置いてなかった。

 という事は、アーサーは最初から次の犠牲者をここに監禁する予定はなかったのではないだろうか?

 そう疑問に思って聞いてみれば、アーサーは恐るべき答えを返してきた。


「ユキが記憶を取り戻して俺から逃げるような事があれば、すぐにでもこの地下室に閉じ込めれるように、ユキが使っていた物をそのまま置いておいたんだ」


 アーサーの強い執着を見せつけられた気がした。

 在英日本大使館から連れ出された時、私が選択を誤っていれば、今頃はこの地下室に再び監禁されて途方に暮れていただろう。

 さも当然のように語るアーサーに戸惑いを覚えて私は俯いた。そんなに私に執着しなくても、私はアーサーの傍にいるのに……。

 不意に両肩にアーサーの手が置かれた。顔を上げると苦笑を浮かべるアーサーの顔があった。


「俺が怖くなったか?俺の執着が強くなるのは、ユキに関してだけだ。もうユキを手放せないし、離れるのを許すつもりもない。諦めてくれ」

「ううん。怖くはない。大丈夫。私はアーサーと生きる事を選んだ。ずっと傍にいる。だから、安心して」


 私の記憶が戻ったと分って、有無を言わさずにここへ閉じ込めたりしなかった。ソフィアさんが自分のせいで死んでしまったと、墓前で涙を流していたアーサー。

 記憶喪失になった後に私に注いでくれた愛情を見ていれば、アーサーは冷酷無慈悲な怖い人とは、私には到底思えなかった。


「安心できれば良いんだがな。今もユキは日本に心を寄せる男がいたのではないかと、勘繰ってしまう。俺がユキの生気の量を確認するために協力してもらった日、ユキは扇情的なバラードを歌っていたからな」


 その時の記憶の引き出しを開けてみると、確かに恋人への想いを連想させるような歌詞の入っているバラードを歌っていた。『二度と会えないなら、抱きしめて欲しい』とか、『会えないなら、夢で会いたい』とか。

 本来は恋人に対する想いを歌い上げた歌だから、アーサーがそう思うのも無理はない。でも、私は震災で失った家族に対しての想いを歌に託して歌っていただけだ。


「イギリスに来る前の私は、生きる為に働くので精一杯で、恋愛する余裕もなかったのよ。片思いでも好きな人はいなかったわ」

「本当に?」


 今度は私が疑われる番だった。

 アーサーは動作や表情の変化を見逃さないように私をじっと見つめていた。


「本当です。そんなに疑うなら、日本へ帰ってしまいますよ?」

「それだけは、お願いだからやめてくれ」


 降参の意志を示すように、アーサーは両手を肩の上に上げて、頭をがっくりとうなだれた。


 あちゃ、ちょっと言い過ぎたかな?

 慌てて私は自分の発言をフォローした。


「冗談ですよ。アーサーは私の初めてを全て奪っていったんですからね。責任とって、私をずっとアーサーの傍に居させて下さいね」


 照れ隠しと、怒っていないと分かるようにアーサーの胸に額を預けた。アーサーの腕がそっと私の背中に回された。


「そうだな。責任は取らないといけないな。ユキに対しての責任なら、喜んで取らせてもらおう」


 艶のこもったアーサーの声に頭の中にある警報器がアラームを鳴らし始めた。


 なんで、ここで危ない方向にスイッチが入るの!?

 恐る恐るアーサーの様子を伺うと、欲情の光を宿した瞳が私を見下していた。破壊力満点の色香を漂わせているアーサーに、私は回れ右をして引き返そうとしたけれど、あっさりと腕を掴まれて引き戻され、あっという間に抱き上げられてしまった。


「ちょっと、アーサー、待って。降ろして」


 じたばたとアーサーの腕の中でもがくけど、私を抱える腕の力が緩む事はなかった。慌てている私の姿を見て、艶やかに微笑まれても、肉食獣が獲物を前に舌なめずりしているようにしか見えない。

 地下室の寝室のドアを片手で器用にあけ、アーサーはその先にあるダブルベットに私をそっと降ろした。

 私が起き上がろうとするよりも先に、アーサーがベッドの上に上がってくる。


「俺を煽るような事を言ったからには、覚悟はできているな?」

「言ってない。言ってませんって!」


 私が話した内容のどこがアーサーを煽る部分があったのか分からない。覆いかぶさってくるアーサーを押しのけようと腕を突っ張りながら、彼との会話を頭の中で反芻(はんすう)するけど、やっぱり思い当たる所は見つからなかった。

 その間にも服が着々と剥がされていった。


「待って、アーサー。カリンさんが夜の営みは暫く禁止って言ってたでしょ? お医者さんの言い付けは守らないといけないんじゃないの?」

「大丈夫だ。ちゃんとこの子は五体満足で生まれてくる。昨日、未来が視えたから心配しなくていい」


 太ももにアーサーの昂ったものを押し付けられ、大きな手で脇腹を撫で上げられて私の中にも熱がどんどん溜まっていく。

 不安そうに私が見上げると、アーサーは蕩けるような笑顔をくれた。


「手加減もするし、激しくしたりしない。だから、俺に身を任せて」


 少し迷った後に私は小さく頷いた。流されていると感じたけれど、すぐに思考は快感に塗りつぶされていった。




 夕食の時間になるまで書斎から出てこない私とアーサーを、ライラさんは深刻な問題を話し合っているのではないかと心配していたらしい。

 書斎から出てきた足元がおぼつかない私に、ライラさんは駆け寄ってくると、服に隠れるか隠れないという場所に残っていた首筋のキスマークを目ざとく見つけてしまった。

 それだけで書斎の中で何があったかをライラさんは察してしまったらしく、夕食の給仕をしている間中アーサーを険しい目で物言いたげに見ていたのだった。


2013.01.14 初出

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ