第51話 二人で紡ぐ未来へ
本編最終話になります。
サンドイッチとフイッシュ・アンド・チップスを山ほど買い込んで在英日本大使館の門をくぐると、リーフ伯爵の姿が目に入った。コートで包み込んで、両腕で大切に何かを抱え込んでいる。
丹後大使が見送りに出ているのか、リーフ伯爵と車の前で談笑していた。丹後大使がドアを開けた後部座席に腕に抱えていた物をそっと運び込むと、リーフ伯爵は続いて後部座席へと座る。ドアが閉められると、車は静かに走り去って行った。
じわりと腹の底から警戒感が這い上がってくる。
こんな時間帯に、どうしてリーフ伯爵が日本大使館にいるんだ?業務時間もとっくに終わっているというのに、今更、丹後大使と商談か?
東日本電力の送電網買収契約はフェンリル・ファンドとの間で締結され、送電網新会社は既に設立されたはずだ。他に何の用があるというのだ。ふと嫌な予感が脳裏を横切った。
まさか、な……。
足早に日本大使館の玄関を通り抜け、葉山さんと北島さんが待っている会議室へと向かう。ノックを二回してみるが中からは返事がなかった。ドアを開けてみると、部屋の灯りは付いているのに誰もいなかった。
一体、二人ともどこへ行ったんだ?
葉山さんの携帯電話に電話をかける。数回のコール音の後に、苛立った声で声が向こう側から響いてきた。
『小林か。今すぐ、部署に戻れ。大捕物を始めるぞ』
「はあ? 何言ってるんですか? 北島さんはどこなんですか? 会議室に居ないんです。葉山さん、知りませんか?」
『居ないだって? よりによって、こんな時に……』
通話を続けつつも葉山さんに指定された方向へと足を向けた。
ここに用事などあるはずのないリーフ伯爵がいて、北島さんがいない。そして、リーフ伯爵が両腕で抱えていた物は、良くは見えなかったが、それなりの大きさがあった。小柄な人間ぐらいの大きさが。
嫌な予感は当たってしまったようだ。北島さんはリーフ伯爵に連れ去られた可能性が高い。しかも、私の目の前で。自分の迂闊さに舌打ちが漏れた。
ノックなしで部屋に入った。緊急事態だ。誰も咎める者はいないだろう。
部屋に入って一番に目に飛び込んできたのはパソコンの画面。そこに衆議院予算委員会の様子が映し出されていた。
動画配信サイトのロゴの下で、参考人として発言席に立つ元東日本電力副社長の竹内氏が、東日本電力送電網買収の舞台裏を暴露していた。証言の後に流されたテープは、藤田副官房長官と葉山さんが掴み合わんばかりに言い争っていた時の音声だった。
菅原内閣はフェンリル・ファンドの東日本電力送電網買収に関して関与していないという答弁を繰り返していたから、この暴露は菅原内閣に大きなダメージを与える事になるだろう。国民に嘘の説明をしていた事が発覚したのだから。
しかも、相手側との交渉に入るためだけに、真正でないパスポートを発行し、パスポートを本人以外の人間に手渡し、北島さんの判明した身元を隠蔽したとあっては、野党が黙っているはずもない。騒然となった委員会室には怒号が飛び交っていた。
「証拠隠滅防止と口裏を合わせられないように、本庁から丹後大使と石坂書記官に対して直ちに逮捕状を執行しろとの命令が出ている。罪状は刑法第193条、公務員職権乱用罪だ」
フアックスで流れてきた逮捕状の一つを葉山さんは私に押し付けた。
不自然な時期外れの人事異動。葉山さんの長すぎる長期休暇。省庁の垣根を越えて親交を深める為、とか言って新参者に葉山さんが加わり、週に二度は借り上げ宿舎で開かれていた飲み会。
全部、この逮捕の為の内偵捜査の動きだったのかと、今、私は気づいた。
「でも、北島さんはどうするんですか? リーフ伯爵に連れて行かれたかもしれないんですよ」
「いいか、ひよっこ。この逮捕状を執行できる人間は、この大使館に俺とお前と神崎しかいねぇんだぞ。北島さんが気になるなら、手っ取り早く逮捕を済ませてから、探しに行くしかねぇんだよ!」
絞り出すように出された声が、葉山さんの苦悩を表していた。上の命令には従わなければならない。神崎さんは風間さんと一緒に外出しているから、此処にはいない。
探したくても探しに行けないのだ。
私は逮捕状を葉山さんから受け取って、無言で丹後大使の所へと向かった。
* * * * * * * * * *
頬を撫でる大きな手の感触に私は目が覚めた。ゆつくりと目を開ければ、近くにアーサーの顔があった。
息を飲んでアーサーから離れようと、ベッドから起き上がろうとするけれど、椅子に座っているアーサーに両肩を掴まれてベッドに押し付けられた。
『どうして病院から逃げた? マリ』
偽物の名前でアーサーに呼ばれて、私は反射的に否定の言葉を日本語で紡いでいた。
日本語で話したのは、私が記憶喪失になっている間、日本語は理解できないふりをしていたアーサーに対するあてつけだ。
「私はマリじゃない。北島由紀という本当の名前がある。偽物の名前で呼ばないで!」
「記憶が戻った、の、か……」
アーサーの強張った顔に暗い影が宿る。そこに優しく私に接してくれた紳士的な微笑みはなかった。審判の時を待つ罪人のように苦しげな眼差しが私を捕えた。
「そうよ。記憶が戻ったの。さぞかしアーサーには滑稽に見えたでしょうね。餌が絆されて、心を許して、結婚までして、あなたと一緒に生きていたいと願うまでになったのだから」
私の肩を掴んでいるアーサーの手を外そうとしたけれど、力の差は歴然としていて、びくともしなかった。せめて心の強さは負けないようにと、正面からアーサーの視線を受け止めた。
「俺はユキを餌だと思っていない。餌だと思っているなら、脱走したユキを捕えた時に、記憶喪失の有無に関わらず地下室に再び監禁している。そうしなかったのは、できることならユキに俺を好きになって欲しかったからだ。愛してくれたから俺と結婚してくれたのではなかったのか? 答えてくれ、ユキ」
強い意志を秘めたダークブルーの瞳に見つめられると、心の奥底まで暴かれるような感じがした。沈黙を保とうとすると、私の肩を掴むアーサーの手に力が込められた。
痛い。こうなったら肩が砕ける前に心の内を全部吐き出してしまえ。
「愛していたわ。アーサーとなら良い家族を作っていけると思っていた。でも、もう傍にはいられない。私はお腹に宿った子を産みたい。アーサーに生気を奪われて、この子に危険を及ぼしたくない。お願いだから、私を解放して! 日本へ戻らせて! 地下室で監禁されていた事も、脱走して銃で撃たれそうになった事も誰にも喋らないから。お願い」
制御できない感情に涙が溢れ出した。
やっぱり、アーサーが好きだ。愛している。記憶喪失になってからアーサーが私に注いでくれた愛情は、確かに本物だった。
アーサーから離れる事がこんなにも苦しい。私の命を削る者に恋情を抱く私は、とっくに精神が壊れているのかもしれない。僅かに理性が残っている間に、二度とアーサーに会う事ができない場所へ我が身を置こう。この子を守る為に。
上体が引き起こされて、私はアーサーの腕の中へと抱き込まれた。
「駄目だ。ユキが嫌がっても俺は君を離さない。他の犠牲者とは違い、肌を重ね合うだけでユキは溢れんばかりの生気を俺に分け与えてくれる。これはユキが白の巫女だからできる事だ」
白の巫女。
幾度か耳にした言葉だ。アーサーは白の巫女に罪から解放を願い、ライアンさんは「癒しと再生の力を持つ奇跡の存在」と評価していた。
「そんなはずない。リーフ侯爵は、ライアンさんは勘違いで私を白の巫女と思っていたに過ぎないって言ってたじゃない」
「親父はユキに必要のない心配を掛けたくなかったから、嘘を言っただけだ。呪具のせいで俺には人の生気と未来が見える。ユキの生気は体に納まり切れずに、外に溢れ出している。地下室に監禁している間、ユキの生気を奪い続けていたが、生気の量は減るどころか逆に増えていた。ユキが白の巫女である証だ」
「嘘……」
そんな都合のいい話なんてあるはずがない。身を捩ってアーサーの腕の中から抜け出そうとすると、体の動きを封じ込める様に拘束する力が強まった。
「本当だ。こうやって素手で頬に触れるだけでも、俺の方にじわりと甘やかな生気が染み込んでくる。それに、ユキは癒しの力でトムのリウマチやフレデリックの脳腫瘍を無意識の内に完治させている」
「信じられない」
「信じられなくても当然だとは思う。でも、事実なんだ」
俯けていた顔を上げてアーサーを見た。
私はアーサーの傍にいて良いのだろうか? アーサーが言うように私が生気を回復できるなら、他の犠牲者のように死ぬ事はないのかもしれない。お腹に宿った新しい生命に危険がないのなら、私はアーサーと共に生きたい。
「お願いだ、ユキ。俺と一緒に生きると、傍にいてくれると約束してくれ。俺はユキを解放してやる事などできない。地下室へ閉じ込めなければならなくなる前に、どうか俺を選んで――」
祈りにも似た懇願をアーサーは私にぶつけてくる。
これ程までに求められて私は幸せだと思った。私が傍にいる事でアーサーを救えるのならば、喜んで残りの人生をアーサーに捧げよう。
少しでも距離を取ろうとして私とアーサーの胸の間に置いていた両腕を、そっとアーサーの背中に回して抱きしめた。
「ずっと傍にいます。愛しています、アーサー」
アーサーの背中が一瞬だけ震えた。すぐに緊張が解けて、安堵の息が漏れるのが聞こえた。
「ありがとう、俺を選んでくれて。俺もユキを愛している」
後頭部にアーサーの手が回り引き寄せられた。降ってきた唇を私は目を閉じて受け入れた。
アーサーが私を日本大使館から無断で連れ去ってしまったものだから、小林さんを始めマスターや女将さんにも、とても心配を掛けてしまったようだ。
日本大使館に戻った時、すっかり心労でやつれてしまった顔の女将さんに会って、突然居なくなった事をひたすらに謝った。
私の誤解が元でアーサーと喧嘩している時に記憶が戻って日本に帰ろうと思ったけど、誤解が解けたらイギリスに留まります、とマスター達には説明した。
同時にアーサーを夫として紹介する事になった。妊娠している事も報告すると、マスターは胡散臭げにアーサーを見ていたが、女将さんは驚きながらも素直に喜んでくれた。
そりゃ、貴族と結婚していると言われたら驚くよね。
後で、どうやって業務時間外に日本大使館に入れたのかとアーサーに聞いてみたら、「今すぐ妻に会わせないと、日本の部下に言って東京への送電を停止させる」と丹後大使を脅したのだそうだ。無謀を通り越して無茶苦茶だ。
私が大使館にいる事は持っていたバッグに仕込んであったGPS発信機で分かっていたというから、逃げれたと思っていても、実際はアーサーの掌の中だったというわけだ。
それから2日後、私とアーサーはマスターと女将さんの帰国を見送るために、ヒースロー空港へと来ていた。
イギリスでの紅茶とティーカップ等の食器類の仕入れを済ませたマスター達は、アーサーの紹介で今までとても手が出なかった良質の品を獲得する事ができて、とてもご満悦だった。
「由紀ちゃん、パスポートが再発行されたら、日本へ一度戻ってらっしゃい。お墓に眠るご両親と妹さんに報告しないとね。その時にはお店に顔を出してね。とっておきの紅茶を淹れて上げるから」
女将さんはウェストポーチに忍ばせてあったお守りを取り出して私に渡した。
これは喫茶店の近所にある神社のお守りだ。私も初めてイギリスの地に降り立ったとき、持っていたトランクの中に同じものを入れていた。
「これ、持っていなさい。由紀ちゃんが幸せになれるように願っているわ」
「女将さん……」
じんわりと目元に涙が浮かぶ。ついかまた会えるだろうけど、それでも別れの時は寂しい。
「夫婦仲が上手くいかなくなって、日本に戻りたくなったら連絡してくれ。いつでも由紀ちゃんを歓迎するよ」
「ご心配には及びません。俺とユキの仲が悪くなる事はあり得ませんので」
マスターに売られた言葉をアーサーは買い取った。二人ともにこやかに微笑んではいるのだけれど、穏やかではない視線を交わしている。その間で火花が散っている幻覚を見た気がした。
搭乗時間が迫って、マスター達はゲートを通り抜けて空港の奥へと消えて行った。私は二人の姿が完全に見えなくなるまで、その場を動かなかった。
「ユキ、俺達も行こうか」
アーサーに促されて、プライベートジェット機の発着場へと移動した。出発の準備が整うまで、ラウンジで待つことになった。
ラウンジの暖かい空気に眠気が襲ってくる。ここ2日は小林さんの事情聴取を受けたり、面白そうだからマスター達の仕入れについて行ったりして、私は少し疲れていた。
うとうとしている私を見て、アーサーが係員を呼んで毛布を取り寄せてくれた。
「眠いなら、眠っていていい。準備ができたら起こしてあげるから」
そう言って私をソファーの上に横たえさせ、膝の上に私の頭を乗せた。これって、膝枕?
「膝の上に私の頭乗せたら、重くて膝が痺れる。膝枕はいいよ」
眠りに引きずり込まれそうになりながら、アーサー膝をぐいぐいと押して頭をソファーの上へと移そうとした。アーサーの手が頭に置かれて膝の上に固定された。
「いいから眠っておけ。ユキが俺にしてくれた事を俺がしているだけだ」
「アーサーは私を甘やかしすぎよ……」
「そうかもしれない。ドロドロに甘やかして、俺なしでは生きていけないようにしてしまいたいとは思っているよ。俺はとっくにそうなっているから、ユキもそうなってくれれば少しは安心できる」
膝から伝わってくる温かさとアーサーが頭を撫でてくれる気持ちよさに、意識がトロトロと眠りに溶けていく。
初めて出会った頃は、アーサーは私を閉じ込めて生気を奪う酷い人で、こんな風に心を通い合わせる事になるなんて思いもしなかった。
私とアーサーを巡り合わせた神々の悪戯と運命の奇遇さに思いを馳せ、今では誰よりも安心できるアーサーの体温を感じながら、私は眠りに落ちて行った。
これから二人で紡いでいく幸せを信じて――。
2012.12.16 初出
2012.12.16 後書き追加、誤字修正
2012.12.18 誤字修正
完結しました。お気に入りに登録して頂いた方、感想を下さった方、評価して頂いた方、拙い文章を読んでくれた全ての方に百万の感謝を捧げたいと思います。
次回作は3か月ほど書き溜めの時間を頂いてから、なろうに投稿したいと思っています。書き溜めの間の息抜きとして、番外編を上げるかもしれませんが、予定は未定なので、一旦、完結の設定をさせて頂きます。
読んで頂いて、ありがとうございました。




