第44話 返品不可のプロポーズ
後半R15になります。苦手な方は回避願います。
お互い無言のまま車の後部座席に座る私とアーサーを、タクシーの運転手さんがバックミラー越しに心配そうに様子を伺っていた。アーサーは腕を組み、難しい顔をして不機嫌さを隠そうともせずに正面を見据えていた。
私は隣からひしひしと発せられる精神的な冷気に、両手を膝について身を固くしていた。
ここまで機嫌の悪いアーサーは見た事がない。温厚な人間を怒らせると怖いと言うが、私はアーサーを怒らせるような事はしてないつもりだ。何故、そんなに不機嫌になっているのか聞き出したかったが、他人の目がある所で、言い争いを始めるわけにもいかない。
緊張感をはらみながらタクシーはカーリントン・ホテルへと進む。私が沈黙に耐え切れずにアーサーに話しかけようとした時、タクシーはホテルへ着いた。アーサーはいつものように私をエスコートしてくれるが、腰に回った強い腕が逃がさないと言っているようだった。
宿泊しているスイートルームへ入ると、アーサーは私をソファーに座らせた。アーサーはソファーの背凭れの上に両手を置き、私を両腕と彼の体とで囲ってしまった。アーサーが作る影が私の上に落ちる。体格が大きい人に上から見下ろされると、かなり圧迫感がある。
アーサーは何から質問しようかと視線を彷徨わせた後、思い切ったように私の心の中を覗き込もうとするかのように私を見つめて口を開いた。
「フレデリックとは、いつ知り合ったんだ?」
「私がアリストン総合病院でPET-CT検査の順番を待っている時に、待合室で会いました。その時、私は彼が誰だか分からなかったし、名前も知らなかったんです」
「それにしては、彼は随分マリに惚れ込んでいたようだったが。大勢の人の前で膝をついて手の甲にキスするとは、なかなか芝居かがった事をしてくれる。明日のゴシップ紙はフレデリックの話題が一面を飾る事になるだろうな」
なんで? そんなにフレデリックさんは有名なの? 私はフレデリックさんに恋愛感情なんて持っていない。面白おかしく書かれるなんて冗談じゃない。でも、今は、アーサーの思い込みを正さないといけない。
「フレデリックさんが私に惚れているなんてあり得ない。私は検査室で、指が病気で思うように動かないと嘆いていた彼を叱り飛ばしたのに」
私が慌てて否定すると、アーサーはやれやれと呆れたようにため息をついて首を横に振った。
「あれだけあからさまな思慕の念を向けられているのに気づいてないとは、マリは鈍いな。しかし、マリが無自覚なら浮気という事もないか」
「私が浮気したとでも思っていたの?」
驚きのあまり目を丸くしてアーサーを見上げる。だからそ、あんなに不機嫌だったのか。
でも、私が鈍いって何なのか。アーサーの方が嫉妬という眼鏡で人を見て、フレデリックさんから私に向けられた感謝を過敏に受け取っているだけではないかと思ったが、ややこしくなりそうなので口には出さずにおいた。
彼はバツが悪そうに、ふいっと視線を逸らした。まるで子供が親の愛情を貰えずに拗ねている感じがした。
「マリは庇護欲を煽られるぐらいに可愛いからな。いっその事、ナントの館の中に閉じ込めて、俺だけしかマリの姿を見れないようにしてしまいたい」
アーサーは膝をついて私の目の高さと合わせた。見下ろされる圧迫感はなくなったが、熱を含んだアーサーの瞳が私を落ち着かなくさせた。
「マリが俺から離れていかないか、他の男が奪っていくのではないかと、いつも不安だ。ここまで俺の心をかき乱すマリには、是非とも責任をとってもらいたい」
「責任……?」
意味が分からなくて、オウム返しに呟く。
アーサーはおもむろにスラックスのポケットからベルベット生地に包まれた正方形の小さな箱を取り出した。右手で小箱を支え持ち、左手で蓋を開けた。
そこには12月にロンドンを訪れた時にオーダーメイドで依頼した婚約指輪が鎮座していた。リングには百合が透かし彫りで描かれ、台座中央にはめ込まれたサファイアの周りをダイアモンドが取り囲み、ダイアモンドが反射する光がサファイアの深い蒼を一層引き立ていた。
「マリ、俺の傍にずっといてくれないか? 苦しみも喜びも悲しみも一生分かち合おう。――俺と結婚して欲しい」
突然のプロポーズの言葉に私は両手で口元を覆った。プロポーズは嬉しいけど、私もアーサーに応えたいけど、記憶喪失の私がアーサーに相応しいとはどうしても思えなかった。
私が答えに躊躇していると、アーサーは不敵に微笑んで私の左手を優しく引き寄せた。何か裏があるような気がして、警戒レベルを引き上げようとしたら、俺様な宣言が降ってきた。
「答え『はい』以外は聞かない。もう、マリからの答えは貰っているから」
「ええっ!? 私は返事をした覚えはありませんよ?」
私がいつプロポーズを受諾したんですか。夢の中でならアーサーと共に生きる事を約束したが、しょせん夢だ。現実を縛るものとはなり得ない。
「共に生きると誓ってくれただろ。ニューイヤーパーティーのあった夜に」
アーサーは笑みを崩さずに、ニューイヤーパーティーの夜見た生々しい夢の中の会話を、一字一句間違わずに忠実に再現させてみせた。
「嘘っ。なんで夢の中でした会話をアーサーが知っているの? まさか、まさか――」
夢の内容は誰にも話してなかった。混乱している頭が一つの可能性を導き出し、私は絶句した。あれは夢ではなく、現実だったのか。
あの時、私はアーサーを好きだと、愛していると言った。お酒を飲むと人は理性の箍が外れるらしいけど、夢だと思っていたから、あんなに大胆な行動にも出れた訳で……。ああ、ホントに恥ずかしくて穴があったら埋まりたい。
頬を両手で押さえ、顔を真っ赤にして俯く私に、アーサーは容赦なくプロポーズの返答を迫ってきた。
「返事を聞かせて。俺はマリを愛している。マリも俺を愛している。愛し合っているのに、何故、結婚を躊躇う必要があるんだ?」
「アーサーは本当に私でいいの? ナント伯爵夫人に相応しい人が他に沢山いるのに……」
「俺はマリがいいんだ。マリしかいらない」
私を見つめているアーサーには、からかいの表情はない。真剣な眼差しが私を捕えていた。
ああ、これはアーサーから逃げられない。そう感じた瞬間、言葉が自然に口から滑り出ていた。
「プロポーズ、謹んでお受けします」
「ありがとう。マリ。君を一生離さないと誓う」
アーサーは感極まったようにそう誓って、私の左手の薬指に婚約指輪をはめた。値段が張りそうな一点物のオーダーメイドの指輪はするりと滑るように薬指の付け根に納まった。
婚約者なのにプロポーズを受けるという奇妙な事になってしまったが、それは私が記憶喪失だから、もう一度してくれたのだろうと自分自身を納得させた。
ここまで私を受け入れ求めてくれたアーサーに、私は感謝の気持ちで一杯だった。何も持たない私に、全てを与えてくれた人に私は何を与えていけるだろうか。
庶民と貴族。日本人とイギリス人。出会える確率は天文学的に低いはずなのに、アーサーに出会えた奇跡を思うと、神々に感謝したくなった。
アーサーの大きな両手が伸びてきて、私はアーサーへと引き寄せられた。そのままソファーから身を乗り出す形でアーサーに抱きしめられてしまった。
アーサーが愛用している森の香りがするコロンが私の鼻腔をくすぐる。息苦しいほど抱きしめられ、アーサーが全力で私の存在を確かめようとしているかのようだった。
「この時をどれほど待ったか……」
アーサーの声が欲望に掠れて震えていた。少し緩んだ腕の中でアーサーを見上げると、そこには艶に濡れ獲物を狩ろうとする肉食獣の眼差しがあった。ぞくりと私の背中に震えが走った。
不穏な光を宿すアーサーの瞳を見ていられなくて俯こうとすると、私の顎に手を掛けられて顔を上げさせられた。あっと思う間もなく、噛みつくようなキスが降ってくる。
「ん……、んぅ……」
呼吸までも奪う勢いで激しく口内を貪られる。息づきの暇も僅かしか与えられずに、深く深く何度も角度を変えてアーサーの舌が分け入ってくる。
待ってと訴えようとする度に、唇が押し当てられて、言葉は口の中に溶けて消えていく。酸欠なのかアーサーから執拗に与えられる刺激のせいなのか、頭が痺れてきて思考力が途切れていく。
力が入らなくなってくる。膝が崩れ落ちそうになって、アーサーが私の腰に腕を回して支えてくれた。
浅い息を繰り返して、ぼーっとする頭でアーサーを見ていたら、不意に抱き上げられた。私を抱えながら器用にドアを開けて奥へと進む。私がそっと降ろされた先は、スィートルーム主寝室のベッドの上だった。
アーサーがベッドに上がってくる。慌てて上体を起こそうとしたけど、肩を柔らかく掴まれて押し倒された。
いくら思考力がぼやけていても、この状況を考えれば、アーサーが何を望んでいるか分かってしまった。結婚すれば、遅かれ早かれ体を繋げ合う事になるとは頭では理解できている。でも、でも、こんな日の明るいうちからだなんて、アーサーは何考えているんだ!
「ちょっと待って」
脚を跨ぐようにして私の体を押さえこんでいるアーサーの胸を押してストップを掛けようとする。
「待てない。一体、何か月お預け状態にされていると思っている? 気持ちが通じ合った以上、マリの体に触れたい。熱を分かち合いたい」
アーサーの手がブラウスのボタンを手際よく外していく。動きを阻もうとアーサーの手首を掴む。アーサーは構わずに素肌の上に手を這わせていった。
「明るいうちから、こういう事をするのはどうかと思う」
「明るいからこそだ。マリの体が良く見える。俺に触れられるのは嫌か?」
「嫌じゃないけど……」
「ならば、俺の望みをかなえてくれ」
アーサーが首筋に顔を埋めてくる。唇が押し当てられ、ちりっと痛みが微かに走る。その感覚に身を震わせると、その場所を舌で舐められた。
首筋、肩、鎖骨、胸へと赤い花を咲かせながら次第に下へと唇が降りてくる。アーサーから与えられる刺激に翻弄されている内に、私は裸に剥かれてしまった。
ライラさんは、アーサーに女性との噂が一つもなかったと言っていたけど、私から服を脱がした手際の良さといい、私の中から快感を引き出すアーサーの手の動きも迷いがなくて、女性に慣れている感じがした。
こんなに明るい中で私の貧弱な体をアーサーに見られるのは恥ずかしいと思考を保てたのは、最初の僅かな間だった。
幾度となくアーサーの手で高みに登らせられて、何も考えられないほど頭の中が真っ白に染まっていく。堪えようとしても堪えきれない、自分と声とは思えないほど甘ったるい嬌声が口から漏れていく。
白い闇に意識が投げ出される瞬間が怖くて、喉が枯れて掠れている声でアーサーの名を呼びながら、力の入らない腕を必死に伸ばしアーサーに縋り付いた。
私が与えられる絶頂が怖いと訴えると、アーサーは額や頬に優しいキスを落として宥めてくれはしたけど、彼の動きが緩む事はなかった。
翻弄されるままにアーサーの想いと熱と欲望を何度となく受け止めた私は、月が中天に上る頃、意識を失うように眠りについた。
2012.10.29 初出
2012.10.30 誤字・脱字修正




