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第23話 物はやりようで何とでもなる

ぴったりとくるタイトルが思い浮かびませんでした……。

 北島由紀の捜索願が出された際に申立人から聞き取った調書が本国の警察庁から届いたのは、ナカガワさんがDNA検査の為に採血した日の翌日の事だった。メールの添付ファイルを開き慎重に読み進めていく。

 捜索願は北島さんがアルバイトで勤務していた喫茶店のマスターと書店の店長から連名で出されていた。

 地元の警察官が彼らから聞き取った北島さんの経歴は、大震災がいかに多くのものを奪っていったかを物語るものだった。


 北島由紀さんは父と母、妹の四人家族で福島県相馬郡双葉町に住んでいた。父は陸上自衛隊のレンジャー部隊の一曹、母は市民病院の看護師、妹は中学二年生だったらしい。

 三年前の大震災の時、父と母は親戚の結婚式に出席して津波にあい死亡、妹もクラブ活動で中学校にいて家に戻る途中で津波に呑まれ死亡した。由紀さんはたまたま高台にある友人の家に遊びに行っていて難を逃れたらしい。


 高校を卒業して東北大学英文科に進学が決まっていた由紀さんだったが、家族と親戚を一度に失い、父と母の退職金や保険金も住宅ローン返済に全て消え、家があった土地も原発事故で立入禁止区域になってしまった事もあって進学を断念せざるを得なかったようだ。

 その後、千葉県浦安市に転居し、二つのアルバイトを掛け持ちして生計を立てていた。

 いつか翻訳の仕事に就きたいと話していたらしいが、生活を維持することに精一杯でそれどころではなかったようだ。


 雑誌を見て応募していた海外旅行の懸賞に当選して、喜び勇んで人生初の海外旅行に出かけたのだが、ヒースロー空港到着後に由紀さんは失踪した。空港で荷物が出てくるのを待っているというメールを職場の同僚に送っているから、ヒースロー空港までの足取りは掴めている。そのメールを最後に彼女は連絡を絶っていた。

 友人・同僚関係にもトラブルはなく、何かに悩んでいた様子もなかったという。海外旅行へ出発する前日に「お土産買ってくるから楽しみにしていてね」と周囲の人に約束していたらしい。これらの事を考えると自発的に行方をくらましたとは考えにくい、というのが地元警察の見解だった。



「この調書を読んでいると、北島由紀さんがかわいそうになってきますね」


 調書を読み終わって私が感想をぽつりと漏らすと、先に読み終えていた葉山さんは忌々しげにパソコンの画面を横目で睨みながら吐き捨てる様に言った。


「懸命に真っ当に生きてきて犯罪に巻き込まれてしまうなんざ、この世には神も仏もありゃしねぇ証拠さ」


 家族、親戚、進学、住む家、故郷、将来への希望。これほどの物を一度に失った由紀さんに、更に犯罪に巻き込まれて失踪するという試練を与える神がいるなら、それはもはや神ではない。悪魔だ。

 ナカガワ・マリさんが北島由紀さんだと証明できれば、私達は援助の手を差し伸べる事ができる。日本であなたを探している人が待っていると告げて帰国の援助をしてあげれる。早くその日が来るといいと願っているとデスクの電話が鳴った。


「はい。こちら在英日本大使館、小林です」


 受話器を取ってそう伝えると、向こうは落ち着きのある低い声で話してきた。


『警察庁刑事局の神崎です。葉山さんはいますか?』

「少々お待ち下さい」


 電話機の保留ボタンを押し、葉山さんに受話器を差し出した。


「葉山さん、警察庁の神崎さんから電話です」


 私と葉山さんの席は隣同士なので、こういう時はとても便利だ。彼は受話器を受け取ると、不敵な笑みを浮かべて電話の向こうの相手を渾名(あだな)で呼んだ。


「よお、『青二才』。久しぶりだな」


 本国の警察庁にも私と同じように葉山さんから名前で呼んでもらえないお仲間がいるんですね……。

 そう思って暫く黄昏(たそがれ)ていると、電話を終えた葉山さんが不意に横から私を呼んだ。


「おい、ひよっこ。北島由紀のDNA検査結果が出たそうだ。ナカガワ・マリのDNA検査結果はいつ出るんだ?」

「明日の午前中には出るはずですが。なんでそんなに由紀さんの検査結果が出るのが早いんですか? 微小資料からの検査は、他人の物が混じらないように前段階の処理があったり、検査に必要な量までDNAを培養したりするので、一、二週間はかかるのがざらでしょう?」


 今までの捜査の経験からも、こういった場合に収集できる生体資料はごく少量である場合が多い。また、本人以外の生体資料が混在していないか慎重に確認する作業が必要となる。例えば、自宅にブラシがあって、それに髪が付着していても、本人以外の髪が混じっていないか慎重に見極める必要があった。第三者が彼女の部屋にお泊りしてそれを使った可能性だってあるからだ。

 こういった事情から、どうしてもDNA検査には時間が掛かるはずなのだ。

 いくらなんでも早すぎる。その思いが顔に出ていたのか、葉山さんはできの悪い生徒に教える先生の様に根気よくそのカラクリを教えてくれた。


「微小資料からの検査であればそうだな。神崎は彼女の自宅を家宅捜査して生体資料を収集するのと同時に、彼女の職場の同僚にもう一度聞き込み調査をしていたんだ。そこで彼女が海外旅行に行く数日前に400ml献血を同僚と一緒にしていたのを聞き出してな。日本赤十字関東血液センターに検体用として冷凍保存されていた彼女の血液を分けてもらったんだそうだ。これなら科学警察研究所に依頼すれば一日で検査結果が出る」


 私も日本で献血をしたことがあるが、献血カードか身分証明書によって本人確認が受付の段階でなされるため、DNA資料としては確かな資料となり得る。

 ここに気付いた神崎さんは良い仕事をしたことになる。調査にかかる時間を大幅に短縮したのだから。

 ふと葉山さんが神崎さんを青二才よばわりしていない事に気づき聞いてみた。


「神崎さんをついさっきまで青二才って呼んでましたよね? 何故、今は名前なんですか?」


 なんで今そんな事を聞くんだと不思議そうな顔をして、葉山さんは読もうとしていた別の捜査資料から顔を上げてこちらを見た。


「あいつは青二才卒業だ。捜査を行う上でベストを尽くし、成果を出した。一人前になった男を青二才とは呼べんだろ」

「……私はいつ名前で呼んでもらえるんでしょうか?」


 ぼそりと呟いた私の言葉を葉山さんに聞きとめられてしまったらしく、彼は横目で私を一瞥(いちべつ)した後わざとらしくため息をついた。


「ナカガワさんの主治医に事情聴取しようとして失敗しているんじゃあ、まだまだ先だな」

「知ってたんですか!」

「医務官の石橋さんから聞いたよ。若い女医に手痛く拒否されたそうじゃねぇか」


 カリンとかいうあの女医は相当気の強い女に違いない。こっちが取り付く島も与えず、一方的に私が言い込められてしまったのだから。


「医者の守秘義務を盾にされたら、どうしようもありませんよ。こちらはこの国での捜査権を持っていないから、聴取も強制できませんし……」

「一般論としてはその通りだな。だが、あの場面ではまだ方法があったんだ」

「方法?」


 どんな奇策があったというのだ。あの鼻っ柱が強い女医を籠絡すれば良かったとか言うんじゃないだろうな。

 怪訝な顔をしていると、葉山さんは仕方ないなと言ってデスクに左肘をついて左手に顎を乗せて斜め上に私を見据えた。


「ヒントをくれてやろう。その医者はナカガワさんの主治医なんだろ? で、その場にはナカガワさんがいた」

「はい、そうです。それが何か?」


 数秒沈黙が流れたのは、私が何かに気がつくのを葉山さんが待っていたためだろうか。ほんの少し葉山さんの目が険しくなったのは、気のせいだと思いたい。


「患者であるナカガワさんが自身の治療についてお前に公開する許可を主治医に与えたらどうなる?」

「少なくとも、その時点で私に対しては許可を与えた部分についての守秘義務は解除されます……」


 そこまで解答に近いヒントを出されて、葉山さんが言いたかった事がようやく分かった。自分の頭の固さを思い知る。確かに守秘義務の壁は厚い。しかし、方法がないわけではなかったのだ。


「もう分かるな? あの場面ではナカガワさんを落とし込むのが先だったんだよ。順番を間違えたな、ひょっこ」


 葉山さんの言う通りだ。ナカガワさんに治療情報についての開示の許可をもらっていれば、あの女医も拒む理由がなくなる。そうなれば聴取もできたかもしれないのに。

 自分の不甲斐(ふがい)なさにうな垂れるしかなかった。なんでそこに気づかなかったんだろう。


「もう私の渾名(あだな)は『脳筋(のうきん)』でいいですよ……」


 警察という組織と権力の通用しない外国での調査活動が思いのままにならない事に、今まで培ってきた捜査技術と自分自身の能力に自信がなくなりそうだ。


「まあ、そう落ち込むな。不自然だったナカガワさんの治療について解明しようとした熱意は認めてやる。精進するんだな、ひょっこ」


 意気消沈している私の背中を励ますように軽く掌で叩くと、葉山さんは捜査資料に再び目を落として速読を始めた。



* * * * * * * * * *



 ロンドンの高級店街ニュー・ボンド・ストリートにある宝石店「グラフ」に私とアーサーは来ていた。

数多くの素晴らしい宝飾品とブランド品とわかるスーツをセンス良く着こなしている店員さんを前に、また場違いな場所に来てしまったと肌で感じた。そんな私をよそに、アーサーは慣れている感じで店員に声を掛けた。

 お待ちしておりました、との言葉と共に私達は商談用の個室に案内された。出された紅茶を飲んでいると、壮年の男性店員が数点のカタログをもって現れた。続いて小ぶりなスケッチブックを持った女性店員が入ってくる。


「リーフ伯爵、この度は当宝石店にご来店頂き、ありがとうございます。今日はどのような物をお求めでしょうか?」


 お互いの自己紹介はなく、アーサーが店員と簡単な挨拶だけで、いきなり商談に入ったという事は、彼らが顔見知りであるという事を意味していた。つまり、このお店を何度かアーサーは利用していたという事だ。

 彼が肌身離さず付けている赤黒い水晶のついた銀のチョーカーも、ここで買ったのだろうか?


「今日は婚約指輪を作ってもらうために来た。こちらがマリ・ナカガワ。俺の婚約者だ」

「初めまして。マリ・ナカガワです」


 ちょっと買い物に行こうとアーサーに誘われて、ロンドンのお店ってどんな風なのだろうと興味津々でついて行ったら、着いたところは高級宝石店。どこが「ちょっと買い物」なんだろ? アーサーの金銭感覚にはついていけないと思った。


 婚約を押し付けるような事はしないってアーサーは言ったのに、どうして婚約指輪の購入を急ごうとするのだろうか。婚約指輪がなくても婚約した事実はなくならないと思うんだけど……。

 アーサーはきっと不安なんだ。婚約指輪を急ぐのも、本気で私を婚約者という位置に縛り付けたいからなんだ。

 それが嬉しくもあり、恐ろしくもあった。


「ご婚約おめでとうございます。アンカー・ヘルパーと申します。リーフ伯爵にはいつもご贔屓(ひいき)にして頂いています」


 壮年の男性店員が挨拶をすると、続いて若い女性店員がにっこりと微笑んで挨拶をした。


「メアリー・アルマシーと申します。この店で宝飾デザイナーをしております。こんな可愛い婚約者の方の指輪をデザインできるなんて光栄ですわ」


 指輪って店頭で選んでサイズを合わせて、それで終わりじゃないのかな? 何故、宝飾デザイナーさんがこの場にいるんでしょうか? まさか、まさか……一から作るの!?

 ギギギと油が切れたブリキ人形の様にアーサーの方にぎこちなく顔を向けると、彼はあっさりと私の推測を全面肯定してくれたのだった。


「マリの婚約指輪はデザインしてもらって、オーダーメイドで作るからな。一生で一回しか作らないものだから、最高の物を贈りたい」


 この時の私の心の叫びは、まさにムンクの叫びだった。

 そんな高そうでおっかないものは、持っているだけで怖すぎる。私自身に価値がなくても、指輪の価値だけで誘拐の危険率が数倍は跳ね上がりそうだ。ごくごく普通の指輪でいいのに!


「あの、アーサー、一から作らなくても、婚約指輪はシンプルな指輪でもいいんじゃないかな?」

「駄目だよ。俺の楽しみを奪わないでもらえるかな」


 あわあわと狼狽(うろた)える私を置き去りにして、アーサーとグラフの店員の方達は指輪の選定に入った。


「婚約指輪に使う宝石はどうされますか? 婚約者様の誕生石にするのも良いですし、定番のダイヤモンド、ダイアナ妃が贈られた婚約指輪に使われていたサファイアを使うのも良いのではないでしょうか?」


 アンカーさんは持ってきたカタログを広げて宝石の説明を始めた。ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、真珠、サファイア、オパール……、色とりどりの宝石の写真がそこには並んでいた。


「マリは記憶喪失でね。自分の誕生日も忘れてしまっているんだ」

「まあ、それはお気の毒に……」


 メアリーさんが同情の眼差しを私に向けてきた。次の瞬間、私の左手は彼女の両手に包まれていた。デザイナーとしての創作欲が湧き出したのか、彼女の瞳が輝き出した。


「マリ様が幸せになれる様に、精一杯心を込めて素敵な婚約指輪を作らせて頂きますわ」


 ふむ、とアンカーさんは少しだけ思案して、カタログをめくって3種類の宝石が載っているページをアーサーに見せた。


「誕生石が分からないのでしたら、ダイアモンドかサファイア、ルビーをお勧めします。硬度的にこれらの石だと頑丈ですので、一生使って頂ける指輪になるかと思います」

「使う宝石はダイヤモンドとサファイアにしよう」


 アーサーが指輪に使う宝石を素早く決めると、メアリーさんがデザインの構想を話し始めた。


「中央にサファイアを配置してその周りにダイヤモンドをあしらうのがよろしいですわね。そうすれば中央のサファイアがダイヤモンドの輝きの中で映えます」


 彼女の提案に一も二もなくアーサーは承諾した。


「マリ様はどんな指輪のデザインをお望みですか?」

「落ち着きのある感じで、日常的にどんな場面でも指輪をはめていられるようなものが良いです」


 こう答えておけば、きっとシンプルで派手ではない指輪に仕上がるはず。お値段も心臓に響くような高さには、たぶんならないはず。ならないといいな……。


「分かります。愛している婚約者から送られた愛の証ですからね。ずっと身につけたくなる気持ち分かりますわ」


 乙女思考全開の方向でメアリーさんは私の言葉を理解したらしく、そう言うと指輪のデザイン画を数種類描き出していった。


「台座となる指輪の素材はどういたしましょう? ゴールドかプラチナあたりが良いかと思いますが……」


 アンカーさんは指輪のサンプルを深い紺色のベルベットのトレーに並べた。プラチナ、ゴールド、シルバー、様々な貴金属の光沢が私を惑わせる。どれが良いかなんてわからない。私が答えられずにいると、アーサーはプラチナを選択した。

 アンカーさんが宝石の現物を取りに行っている間に、メアリーさんは私の左手薬指の第二関節に糸を巻いてサイズを測った。実際にサイズ計測用の指輪を数回指に通してサイズを確かめた。


 研磨され宝石の輝きを磨き出されたダイヤモンドとサファイアの原石がアンカーさんによって部屋に持ち込まれた。婚約指輪に使う宝石をこの場で選ぶようだ。アーサーは数個の宝石を白手袋を着けた手で手に取り、見比べてから大粒の蒼いサファイアの原石1個と7個の小粒のダイヤモンド選んだ。

 最後に私の希望を取り入れてメアリーさんが描いてくれた指輪のデザインをアーサーが決めるのに一番時間が掛かった。デザイナーのメアリーさんと話し合いながら細部に修正を加えてようやく完成したのは、店に入ってからたっぷり三時間は過ぎた頃だった。


 つ、疲れた……。主に精神的に。


 婚約指輪のオーダーメイドの値段をアンバーさんがアーサーに提示したのを見て、すぐに疲労はどこかへ吹っ飛んだ。0(ゼロ)が五つもついていたのが見えたからだ。

 今、1ポンド何円だったかな……。

 そう現実逃避をしているとアーサーは事もなげに提示された金額で小切手をその場で切った。


2012.06.04 初出

2012.06.04 ルビ、誤字修正

2012.09.15 改行追加


 献血の際、検体用に採取された血液は、血液センターで1年間、血液管理センターで10年間、合計11年間冷凍庫で保管されるそうです。


 また、後書き執筆時点では、1ポンド = 約120円となっております。


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