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第21話 脅しという名の交渉

 在英日本大使館の二階の会議室には、丹後大使をはじめ、竹内健三東日本電力副社長、藤田明官房副長官、山野武経済産業省副大臣が勢揃いしていた。中央の木目が美しい大きな会議テーブルの上には、それぞれの席にミネラルウォーターのボトルとコップが置いてある。黒牛革の肘掛付の椅子に座っていた昨日日本から来たばかりの三人は、私の案内でリーフ伯爵が会議室に現れると、緊張した面持ちで立って出迎えた。

 最年長である藤田官房副長官がリーフ伯爵と互いにこの場に居る人物の紹介を済ませると、全員が着席した。


「石坂さん、会議の記録は自分がしますが、後でチェックお願いしますね」


 口が堅い事で定評のある相沢涼がこっそり耳打ちしてきた。こういった秘密交渉の記録を取るのは初めてらしく、些か緊張しているようだ。


「お願いされておきましょう。通訳をしつつですが、こちらでもメモはとっておきます」


 リラックスさせるために、冗談めかして言うと、相沢君は明らかにほっとした表情を見せた。

 日本側の出席者は六名、対してリーフ伯爵側はたったの二名。随員は若さからしてフェンリル・ファンドの重役ではないだろう。秘書といったところだろうか。


「この度は我々の提案を聞いて頂くために、御足労頂きありがとうございます」


 まずは藤田官房副長官が口火を切った。

 藤田官房副長官は、財務相官僚の出身で政治家へ転身した人だ。この会議の出席者の中では最年長の68歳で、昨年大病で入院し手術も受けたが、老齢に鞭打って官房副長官を務めている執念の人である。

 何でも消費税を上げるまでは、死ぬに死ねないのだとか。デフレに苦しんでいる時に、デブレを促進させる増税という政策を推し進めようとする姿は、古巣の財務省では拍手喝采されるだろうが、国民にとっては迷惑極まりないことだ。


 公務に私情は挟まない。私は淡々と藤田官房副長官の言葉を英語に置き換えてリーフ伯爵に伝えていく。

 リーフ伯爵は日本語を含む15ヶ国語を操る天才だ。私の通訳がなくとも、十分こちらが言っている内容は分かっているだろう。だからこそ通訳の正確さが求められる。趣旨とかけ離れた内容で通訳してしまうと、リーフ伯爵の信用を我が大使館が失ってしまう怖れだってあるのだ。


『こちらとしても興味深い投資案件をお聞きできる機会を得て、嬉しく思います』


 リーフ伯爵は英語で答えた。それを皮切りに竹内東日本電力副社長から東日本電力への融資についての説明が始まった。


 竹内東日本電力副社長は発電所の現場から副社長まで上り詰めた人物で、親分肌と義理堅い性格で東日本電力内での人望は厚く、次期社長との声が高かった人物だ。実際に今回の大震災による原子力発電所の事故が無ければ、とっくに社長に就任していただろうが、会社の行く末が定まったら、本人は責任をとって辞職するつもりでいるらしい。

 竹内東日本電力副社長の説明は淀みがなかったが、この条件で散々融資を断られている事もあってか、自信がないのか声には張りがなかった。


 通訳しつつの説明は、一時間にも及んだ。リーフ伯爵は質問を挟むこともなく静かにそれを聞いていた。リーフ伯爵の隣に座っている秘書は忙しなくメモを取っていた。

 説明をし終えた竹内東日本電力副社長が着席すると、リーフ伯爵はおもむろに口を開いた。


『この度の大震災で日本が非常に大きな被害を受けたことは私としても心が痛みます。愛しい婚約者を慈しみ育んでくれた日本に、我々でできる事があれば是非力になりたいと考えています。また、この投資案件については、我々から提案したい事があります』


 リーフ伯爵から発せられた前向きな内容を私が英語から日本語に変換した途端、丹後大使を筆頭に喜色を顔に浮かべた。


「では、前向きに東日本電力への融資を検討して頂けるのですね」


 藤田官房副長官が身を乗り出してリーフ伯爵に確認を取ろうとする。しかし、通訳した内容を確認した後、リーフ伯爵はあっさりと希望を打ち砕いた。


『先程、言った事は私の本心です。しかし、それ以上に私の言葉を信じて貰えない人達とは、ビジネスの話はできません』


「それはどういう事ですか。信用するもしないも、私達はつい一時間前に初めて顔を合わせたはずです。その間にあなたの言葉を信用していない素振りを我々はしていないはずだ」


 山野経済産業省副大臣がリーフ伯爵に食ってかかった。テーブルに右手をついて席を立ち、リーフ伯爵を睨んでいる。怒りのせいか左手の拳が細かく震えていた。交渉の席では冷静さを失ってはいけないというのに、こいつの頭は瞬間湯沸かし器か。


 リーフ伯爵は軽く右手を上げて、山野経済産業省副大臣を牽制した。


『何も、あなたの事を言っているのではありません。先日、私の婚約者がパスポートの再発行を申請したのですが、私が彼女は日本人だと証言したにも関わらず、彼女に日本人である証拠がないという理由で再発行を拒否されました。そうですね、石坂書記官』


 ここにいる全ての者の視線が私に集まった。

 確かに私はリーフ伯爵の婚約者であるナカガワ・マリさんのパスポート再発行をしなかった。しかし、それは本省から通達通りに業務を遂行しただけだ。


『確かに、リーフ伯爵のおっしゃる通りです。しかし、あなたの婚約者以外で同じ事例が発生したとしても、私はパスポートの再発行を拒否するでしょう。それは規則に従ったまでで、あなたを信用していないからではないのです。ご理解頂きたい』


 通訳の業務を中断してリーフ伯爵に英語で対応し始めた私を見て、相沢君が慌てて通訳のフォローに入る。


『なるほど。物は言いようですね。しかし、パスポートを再発行しなかった事実が消える訳ではありません。私の婚約者が日本人でないと疑ってかかっているのでしたら、私も貴国に対する投資姿勢を改めなければなりません。何よりもマリを悲しませる相手と友好的になれるはずもない』


 藤田官房副長官が顔色を青くした。腐っても元財務官僚だ。彼の意味するところを正確に理解したようだ。リーフ伯爵は遠まわしに保有している日本国債を売り払うと言っているのだ。

 リーフ伯爵が率いるフェンリル・ファンドは30兆円を超える日本国債や政府短期証券を保持している。それがクリティカルな時期に一気に売り払われれば、市場は混乱するだろう。


 普通ならば過剰預金をたらふく抱えて資金運用に困っている銀行や、安全な運用を求める機関投資家の資金が瞬時になだれ込み、売りを吸収してしまうため多少の混乱で収まるだろう。だが、「神の目をもつ」とまで言われ、大きな勝負には一度も失敗していないリーフ伯爵が売ったとなれば、他のファンドが追随する可能性が多分にあった。売りが買いを上回れば、当然国債の価値は下がる。

 そうなれば、長期国債の金利が跳ね上がり、一定期間国債の消化に問題が起こるかもしれない。

 単なるパスポート再発行の問題をここまで大事にするとは、リーフ伯爵はそれほどまでにナカガワさんを溺愛しているのか。ナカガワさんがリーフ伯爵に与える影響力について分析を誤った自分に(ほぞ)を噛む。


「待って下さい、リーフ伯爵。あなたの婚約者のパスポート再発行については、当大使館で再調査した上で対処致します。再調査の為に暫く時間を頂きたい」


 丹後大使が場を納めるために口を挟んできた。この場での交渉決裂は避けなくてはならないと判断したのだろう。


『それでは、三日後の同じ時間に大使館に参ります。フェンリル・ファンドとしての提案はこちらに纏めてあります。あなた達との障害が解消されずに、この提案が無駄になるなんて事が無いように祈ります』


 リーフ伯爵は隣の秘書らしき青年から書類を受け取ると、我々に差し出した。藤田官房副長官が書類を受け取るのを見届けると、リーフ伯爵は随員と共に席を立ち会議室から退出した。




 リーフ伯爵が去った後、我々は彼が残していった提案書を囲んで今後の方針を話し合っていた。


「石坂君、何故ナカガワ・マリさんのパスポートを再発行しなかったのかね?」


 藤田官房副長官が革張りの椅子の背凭れに体を預けて疲れた様子で力なくそう言った。


「ナカガワさんは記憶喪失になっていまして、日本人だという事以外は覚えていませんでした。しかも、身分証明になる物を一切持ってない状態でした。これでは、パスポートの発行はできるはずがありません」


 私が状況を説明すると、山野経済産業省副大臣が無茶な注文を付けてきた。


「リーフ伯爵との交渉を進める為には、ナカガワさんのパスポートを発行する必要がある。大使館の権限で発行できないのですか」


「それは、日本人と確認できない人物にパスポートを発行しなさいという意味ですか」


 質問に質問を冷たい態度で返すと、山野経済産業省副大臣は押し黙った。官僚を便利な何でも屋とでも思っているのか代議士達は。官僚の権限の限界というものを一から代議士に説明しなければならない日が来るとは想像もしなかった。


「我々、官僚は法律とそれに基づいて発せられた政令・規則に行動と判断が拘束されます。その範疇を超える事象については、超法的措置という事になりますから、然るべき権限を持つ方が全責任を負う形で命令を出して頂くほかありません」


 それこそ、あなたたち民政党が政策に掲げた政治主導とやらを発揮すればいいのだ、と心の中で毒づいた。


「それに、ナカガワさんを身元不明のまま日本人として認めるのならば、問題はパスポートだけに留まりません。戸籍も用意する必要が出てきます。戸籍に関しては大使館の管轄外です。どうするのですか?」


 丹後大使が私の指摘した問題を受けて、藤田官房副長官に話を政府へ上げる様に急かした。


「この問題は、もはや一大使館が扱える物ではなくなっています。東日本電力の存続、ひいては日本の半数の人口の生活がかかっている交渉に関わる問題です。首相の判断を仰ぐべきです。リーフ伯爵の提案が実現すれば、東日本電力は少なくとも数年は資金的な心配はなくなる」


 竹内東日本電力副社長は、リーフ伯爵が残していった提案書のコピーを穴が開くほど見つめながら、苦悩に満ちた表情を浮かべていた。


「確かに丹波大使のおっしゃる通り、少なくとも三年は資金的な問題は解消されるはずです。しかし、この提案が日本にとって良い物かは微妙な所だと私は思っています。あまりにも付帯条項が厳し過ぎる」


 リーフ伯爵が提案してきた内容は、東日本電力の送電に関わる設備と組織を10兆円で買い取るというものだった。

 問題は付帯条項だ。

 東日本電力が持つ負債はリーフ伯爵が設立する送電会社には一切負担させない事。独占禁止法の対象外として送電事業を認める事。送電網の利用料金の計算方式として今後30年間は総括原価方式を維持する事。合意が破られた場合は、日本政府と東日本電力が連帯して買収金額に年利30%の違約金を付加した上で、フェンリル・ファンドから事業を買い戻す事。細々した物は他にもあるが、重大な意味を持つ条項はこの四つだった。

 10兆円を出せるファンドは他にないだろう。しかも送電網の買収金額としては、破格と言える金額だ。その見返りとして厳しい条件を付けてきたのだろうか。リーフ伯爵の狙いが私には分からなかった。


「リーフ伯爵の再訪は三日後です。躊躇っている時間はありません。速やかに菅原首相に話を上げて下さい」


 再度、丹後大使が藤田官房副長官をせっついた。藤田官房副長官は暫く目を閉じ腕を組んで考え込んでいたが、何かを決意したように目を見開いて言った。


「首相にこの案件を上げましょう。首都を大停電の混乱に陥らせるわけにはいきません。官邸と連絡を取ります。石坂書記官はナカガワさんのパスポート再発行の件も含めて、首相に上げる報告書を作成してください」


 藤田官房副長官の指示を受けて私は報告書の作成に取り掛かった。


2012.05.27 初出

2012.05.27 誤字修正

2012.09.14 改行追加

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