第15話 求める心
夕食の席にマリは居なかった。カリンはマリが風邪で熱が出て寝ている事を知らせてくれたが、同時に説教も雨あられの如く落していった。
病み上がりのマリが体力を回復するまでは生気を食べるのは必要最低限にしろだとか、マリの肌にキスマークを残さずに生気を食べる方法を考え出せとか、日本人はハグの文化を持ってないから嫌われたくなければ、いきなりマリを抱きしめる真似はするなとか、いろいろとカリンから忠告と言う名の文句を受け取る羽目になった。
兄弟のいない俺にとって、カリンは姉のような存在だ。厳しくもあり優しくもあるカリンは、この館では最も使用人らしからぬ使用人と言えた。当主である俺と対等の立場で物を言い、時には本気で怒る。それでも彼女を辞めさせることは考えたことはない。最も苦しい時に一番近くで支えてくれた親友なのだから。
マリが白の巫女だと分かってから、俺は彼女の内にある極上の生気を遠慮なく貪るようになっていた。マリ以外の犠牲者の生気は味なんてしなかったが、彼女の生気は理性の箍が飛びそうになるくらい甘く感じるのだ。
最初に生気に甘さを感じた時は気のせいかと思ったが、それは日増しに少しずつ甘さを増していき、今ではその甘さを貪りたくなるほどになっていた。
マックスは、彼女が生気を奪われたショックを切っ掛けに、生気がある程度一気に奪われても生命の危機が生じないように、無意識下で本能的に体の内により密度の高い生気を蓄えるようになったのではないかと推考していた。これも白の巫女の能力の一部なのだろうか?
白の巫女についての研究は、親父を中心に何人かの研究者が伝承や古文書を解読して進めているらしいが、過去の巫女にどのような能力が発現していたかは、ほんの一部分しか分かっていなかった。生きている白の巫女が出現した事で、親父からはマリに研究に協力させるよう要請がきていた。マリを研究材料にするなんて、とんでもない。即座に断った。彼女を俺の下にもたらしてくれた親父には感謝するが、それとこれとは話が別だ。
仕事をしながら、つらつらと思考を巡らせていたが、今日ファンドの日本支社から上がってきた最後の報告書に目を通す。
内容は、大震災によって引き起こされた原子力発電所事故の莫大な賠償を背負った日本の東日本電力の経営状況と、日本政府が世界の名だたる金融機関や資産家に東日本電力への出資要請を誰構わずにしているという情報だった。
マリから生気を貰うようになってから俺の予知の力は、より正確に、より遠い先の未来を視せるようになっていた。この情報も俺は一か月ほど前に視ていた。
欧州も米国も予想される金融危機に備えて、どの金融機関も自己資本比率を高めるべく、融資を縮小し、貸し剥がしを行っている。そのせいで新興国にはバブル崩壊の兆候が見え始めていた。そんな状況の中、長期に渡る資金を相手側に委ねて寝かしておく物好きはいない。しかも、日本政府の提示している条件は、お世辞にも食指が動くものだとは言えなかった。
この条件での出資要請は失敗に終わる。それが俺の予知の結果だ。失敗の先からが俺達のファンドの出番となるはずだ。
俺はメモを付けて処理済みのトレーへ報告書を置き、日本支社の羽柴にメールで指示を出す。それが終わると革張りの椅子の背凭れに全体重を預け、後方に反り返るようにして背伸びをした。
時計を見ると午後九時を指していた。いつもなら五時までには仕事は終わるのだが、今日は午後からの三時間ほど仕事から離れていたので、すっかり遅くなってしまった。
仕事場にしている一階の書斎から玄関ホールの階段を上って二階にあるマリの部屋へと向かった。
マリの部屋は俺の自室の隣に用意させた。婚約者なのだから、部屋を離すことは考えられなかった。本音を言えば、同室にしてもらっても良かったぐらいだ。だが、マリは記憶喪失だ。無理強いをして彼女に嫌われてしまっては元も子もない。マリが自ら俺を受け入れてくれるまでは我慢しなければならない。
マリの部屋をノックすると、ライラが静かにドアを開けて彼女が眠るベッドまで案内してくれた。
「マリ様、アーサー様がお見舞いに来られてますよ」
ライラが熱を出して眠っているマリの耳元で囁くが、眠りが深いのか目を覚ます気配は無かった。
「ライラ、マリを起こさなくてもいい。顔を見に来ただけだから。暫くはマリの傍にいるから、君は休憩を取ってきなさい」
俺は近くにあった椅子をベッドの傍まで引き寄せて座った。ライラは何か言いたそうにしていたが、一礼して部屋を出て行った。
マリは熱があるのか赤い顔をして額はしっとりと汗ばんでいた。薄く開かれた唇に手をかざすとマリの呼気が熱く感じられた。ハンカチで額の汗を拭ってやり、汗で張り付いた前髪を丁寧に掻き分けてやると、苦しそうな寝顔が僅かに緩んだ気がした。
上掛けの中からマリの左手を取り出して、俺は指先に掌に手の甲にキスを降らせた。マリが熱を出した原因が俺にあるかもしれないというだけで堪らない気持ちになった。生気を貪ったことで病み上がりのマリの体に負担をかけ、そのせいで免疫力を下げてしまったかもしれないとカリンは言ったのだ。
睫毛が細かく震えて、マリがゆっくりと目を開けた。魂が吸い込まれそうに黒い瞳は熱に浮かされて、どこか焦点が合っていなかった。
「あ……、アーサー?」
「起こしてしまったかな」
マリは十分覚醒していないようで、俺の両手に包まれた己の左手をそのまま預けていた。安心させるように俺は微笑んだが、マリは俺を見て泣きそうな顔をして小さな声を紡いだ。
「ごめんなさい……」
「マリが謝る事なんて何もない」
マリは俺の言葉を否定するように、白い枕の上で頭をゆっくりと横に振った。
「誘拐されて怪我をして、散々アーサーに心配かけて、記憶を失って、今度は熱を出して皆に迷惑をかけている……」
体が弱っているせいなのか、マリは後ろ向きの思考を展開して一人で勝手に落ち込んでいた。今日一日、マリにとっては色々な事があり過ぎたから、不安になっているのも原因の一つなのだろう。
「誘拐されたのも、記憶喪失になったのも、熱を出したのも君のせいじゃない。長い人生の中には同時に不運が重なる事が時にはある。そんな時は、君を助けようと差し伸べられた手に頼っていいんだ。頼っていいんだよ」
マリが気に病んでいる原因の全ては俺にある。少しでもマリの心が安らぐように頭を撫でてやる。ほんの数日前までは嫌がっていた行為なのに、今は何の抵抗もなく受け入れてくれた。あの時、俺はよほど警戒されていたのだなと改めて実感する。
「マリは今まで一人で生きていたから、何でも一人で背負い込もうとする悪い癖があるみたいだね。これからは俺が傍にいる。少しは俺を頼ってくれないか。俺は君の全てを受け止めたい」
「どうして、そこまでしてくれるの? 私があなたにしてあげれる事は、ほとんどないのに……」
マリの自身に対する評価は、過小評価にもほどがある。どれだけ君が俺を狂わせているか気づいてないのだろう。許されるなら、この瞬間にだってマリを俺のものにしてしまいたいと思っているのに。
「マリを愛しているからだよ。君を苛む苦痛は取り除いてあげたい。君は俺にしてあげれる事がほとんどないと言ったけど、希望も救いもない闇の中で生きていたような俺に、君は初めて光をもたらせてくれた。君といると生きていて良かったと思えるようになったし、俺は変わる事が出来た。君から多くの恩恵を既に貰っている。マリはもっと自分に自信を持つといい」
俺が真剣な態度で言い切ると、マリは熱で朱に染まった顔を更に赤くさせた。毛布を目の上まで引き上げて、真っ赤になった顔を隠そうとする。
「マリ、そんなに毛布を頭から被っていたら、酸素不足になってしまうぞ」
マリの手から毛布を少々強引に奪い、元の位置に戻してやると、マリと目が合った。熱で潤んだ黒い瞳が戸惑いを含んで俺を見上げていた。見つめ合うのが恥ずかしいのか、すぐに視線が逸らされた。
地下室に閉じ込めていた時は、俺を恋愛対象として全く見てくれなかった――自分を監禁した犯人をそんな目で見れるはずもないが――マリが、少しでも俺を意識し始めた事を感じて嬉しくなった。同時に嗜虐心がむくむくと湧き上がってきて、マリを更に追い込んでみたくなった。
マリの顎に手をかけて無理矢理視線を合わせさせた。意地悪な顔をした俺が映り込んでいるマリの瞳には、不安げな光が奥で瞬いていた。
「アーサー?」
「おやすみのキスを許してくれるかい?」
「え? ええっ!?」
動揺しているのかマリの瞳が逃げ場を求めるかのように左右に揺れる。その隙に付け込んで顔を寄せていくと、マリの小さな掌が進路を阻むように俺の唇に押し付けられた。
「ええと、その……、アーサーに風邪がうつるといけないので、キスは止めよう、ね」
「風邪はうつすと早く治るらしいぞ」
「いやいや、それは迷信ですから!」
半ば口元を引きつらせて懇願するマリの慌てぶりが手に取るように分かって、俺は邪悪な笑みをますます深めた。
もっと苛めたくなるな。
「アーサー、マリが嫌がっているじゃない。強引に迫ると嫌われるわよ」
「カリンさん!」
不埒な事を思った俺にカリンの感情を抑えた声が待ったをかけた。いつから見ていたんだと舌打ちをしそうになったが、そんな俺をよそにカリンはドアからこちらへ歩を進める。マリが明らかにほっとした顔をするので、俺は少々面白くない。
「ノックしても返事がないし、マリの焦る声を耳が拾ったから入らせてもらったわよ。マリ、ここは日本じゃないから、以心伝心とか婉曲な言い方とか通用しないからね。嫌なら嫌とはっきり言わないと、都合よく解釈されて良いようにされてしまうのが落ちよ。分かった?」
「はい……」
素直にマリはカリンの助言を受け入れる。マリから身を離した俺は、聴診器を黒い鞄から取り出し始めたカリンに席を譲った。これから診察を始めるようだ。
「アーサー、これからマリを診察するから席を外してもらえる?」
「分かった。マリ、おやすみ。明日、また会いに来るよ。よく体を休めて、早く元気になってくれ」
別れ際にマリの艶やかな黒髪を一筋すくってキスを落とした。
「おやすみなさい」
そう言ったマリに拒絶の気配が浮かんでない事が確認できて俺は安堵していた。名残惜しいがマリの寝室を出て自室へと向かう。
今の俺はマリが愛おし過ぎて、彼女の全てを求めていた。唇に触れたい。その細い首に顔を埋めてマリの体から微かに香り立つ甘い香を堪能し、腕の中に閉じ込めてマリの体温を思うままに感じたかった。
マリに傍に居て欲しいがために、婚約を押し付けないと言った事を俺は早くも後悔していた。大人の余裕なんて微塵もありはしない。どうすれば、この渇望は治まってくれるのだろうか。
いい歳して、まるで初恋に溺れる少年のようだな。
自嘲気味の苦笑が自然とこぼれた。しかし、胸の奥に確かに存在する甘い疼きは不快なものではなかった。
2012.05.21 初出
2012.09.13 改行追加
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感謝の気持ちを込めて、短いですが裏話を書いてみました。本編に出てない裏で何があったのか、少しでも感じて頂ければ幸せです。
――おまけ裏話―― カリン視点
「……。やっと出て行ったわね」
私はカバンから取り出した聴診器をしまうと、体温計を取り出してマリの脇の下へ差し込んだ。
「あれ? カリンさん、診察しないのですか?」
「ああでも言わなきゃ、アーサーは部屋から出て行かないでしょ。夜は患者の容態が急変しやすいから、様子を見に来ようと思ってはいたのよ。それが少し早くなっただけ」
ライラ母さんがアーサーとマリを夜の寝室に二人きりにすることに危惧を覚えて、私に知らせてくれたのだ。本当にすぐに来てよかった。
「さっきだって、婚約者だからアーサーがすることを受け入れなくてはいけない、なんて思ってなかった?」
「……」
マリは黙ったままだった。
図星か。本当にマリは人が良すぎる。日本人は相手の気持ちを慮って自分の本音を言わないという事があるらしいが、ここではいい方向には作用しない。
「もっと自分の心に忠実になりなさい。婚約者だから、ナント家にお世話になっているからと、心を押し殺しているといつか無理が来るわよ」
「でも、記憶を失う前はそうしていたかもしれないし……」
自分をこんな状態にした張本人に気遣いするなんて、気遣いする相手を間違っていると言ってやりたかった。




