第14話 カリンの決意
あの腹黒執事め、マリはアーサーが見知らぬ婚約者として現れて戸惑っているのに、使用人の主だった者を集めた場で、マリをアーサーの婚約者だと周知させやがった。
私は陸軍譲りの放送禁止用語を含むありとあらゆる罵詈雑言を脳内でマックスに浴びせかけていた。一方で両手は医療用のワゴンに消毒セットや内服薬を揃える為に着々と動いている。
アーサーはナント家唯一の血統だから、彼が次代をなさなければ、彼の死と同時にナント家は断絶することになる。そうなれば、この領地も膨大な資産も国庫に没収されることになるだろう。それは同時に、ここで働く者の生活基盤を奪う事を意味していた。
マックスが潜在的に使用人達の抱えている不安を煽って、マリがアーサーから逃げられないように周りからじわじわと追い込んでいこうとする意図が透けて見えて、むかっ腹が立った。
私だって乳兄弟のアーサーを本当の弟のように思っているし、彼女との恋愛を後押しして想いを叶えてやりたい気持ちはある。だが、今までどこか人生を諦めていたようなアーサーが、これまで見せた事が無かった過剰なまでの強い執着をマリに向けたのを見たとき、このままでは彼女は精神的に押し潰されてしまうと直感した。人のよさそうな彼女にアーサーが隠し持つ激情の全てを受け止めきれるとは到底思えなかったからだ。
もし、マリがアーサーを拒絶して逃げるようなことがあれば、彼は躊躇なく地下室に彼女を再び監禁するだろう。それだけは避けたい。
ただでさえ記憶喪失のショックで彼女の精神状態は不安定になっている。急激に変化した環境もストレスになっているはずだ。ここに新たな混乱要因を付け加えることは、マリの治療にはマイナスにしかならない。
往診の用意を整えていると、ライラ母さんが忙しく医務室へ入ってきた。
「カリン、マリ様が熱を出されたわ。診て貰えないかしら」
「母さん、マリの専従メイド兼看護師になったらしいね。マックス執事から連絡があったよ。丁度、傷口の消毒に行く準備をしていたところだから、少し待っててくれないかな? 一緒にマリの部屋に行こう」
「その前に、カルテを見せて。それとマリ様のことについて聞きたいことがあるの」
カルテを母さんに渡した。母さんは医務室のドアを閉め、ざっとカルテに目を通してから、カルテをわたしに返して、言いにくそうに口を開いた。
「マリ様を着替えさせた時に、背中に最近付いたような鬱血痕が五つあったのだけど……、体のあちこちにある打撲痕のことも考えると、マリ様は誘拐犯達にレイプされたの?」
あの馬鹿、マリが生気を回復できるからといって、キスマークが何個もつくほど生気を貪ったのか。ただでさえ体が弱っている時に、徒に彼女の体に負荷をかけるなんて何を考えているのだ、アーサーは。
後でアーサーには山ほど文句を言ってやることにして、マリを気遣っている母さんを安心させることに意識を集中させた。
「妊娠検査は陰性だったし、治療と並行して他の検査もしたけど、レイプはされなかったみたい。背中のキスマークは、アーサーが付けたものよ。マリの怪我の状態を説明する前にマリに面会してもらったのだけど、なかなか医務室に戻ってこないと思って様子を見に行ったら、麻酔をかけられてベッドで眠っているマリにのし掛かって、背中に唇を落としてしたわよ。その時のものじゃないかしら」
母さんの顔が曇った。確かにアーサーのした事は褒められた行動ではない。母さんの知る「品行方正なアーサー坊ちゃま」からは、かけ離れた行いに映るだろう。
「それだけアーサーの独占欲が強いってことよ。マリは年も離れているし記憶も失っているから、アーサーも不安なのでしょうね。だから、自分のものだという証を刻んでおきたいのでしょう。やる事が子供じみている気がしないでもないけどね」
母さんはマリが犠牲者であったことを知らない。白の巫女としてアーサーに見出されたことも知らない。そして、彼女の傷と怪我が監禁されていた地下室から逃げ出した際にできたものであることを知らない。
マリの看護には裏の事情を知る者を当てるのが一番良いのだろうが、それを知る者は両手の指の数にも満たない。
だから、裏の事情が暴かれた時に何とか丸め込めそうな人物をマリに付けたのだろう、あの腹黒執事は。
「それで、マックスはあたし以外のメイドは後で付けるという変わった方法を取ったのね。彼の先見性には恐れ入るわね」
母さんが感心したように独りごちた。私が意味が分からないといった顔をしていると、母さんは困ったような表情を見せて説明してくれた。
「あなたがマリ様の主治医となったことが、使用人の間で嫌な憶測を呼んでいるのを知っているの?」
「いや、知らない」
「アーサー様が経営している病院にはカリンより経験豊富な医師が多くいるでしょ? それになのに数少ない女医で若いカリンに主治医を任せたのは、マリ様が性的暴行を受けたからではないかって噂が流れているのよ。カリンはアーサー様とは乳兄弟で、私は乳母だった。親密な関係にある人物でマリ様の周りを固めたことも、病院に搬送せずに館の医療設備で治療したことも、この噂を勢いつかせているわ。だから、マックスは少なくともマリ様の内出血の跡が消えるまで、メイドはあたし以外近づけないつもりだと思うわ。打撲痕とキスマークを他の者に見られるわけにはいかないもの。下手をすれば噂にもっともらしい根拠を与えることになってしまうでしょう?」
……なるほど。あの執事は腹黒いだけでなく、頭も切れるという事か。そうでなければ執事なんてやっていられないか。
噂は噂に過ぎない。私がマリの主治医になった本当の理由を皆が知ったら、十人中九人は呆れ返るだろう。
「私がマリの主治医になった最大の理由は何だと思う?」
母さんに意地の悪い笑みを浮かべて聞いてみた。母さんは分からないといった風に首を横に振った。
「アーサーが自分以外の男がマリの体に触れるのを嫌ったからよ。医師であっても我慢できないそうよ。独占欲が強すぎて呆れるでしょ?」
母さんは軽く目を見開いた。今まであまりアーサーが一つの事に執着したことが無かったから、驚いているようだ。
「アーサー様がそんなにもマリ様に執着されるのは、やはり一目惚れ効果なのかしら」
裏の事情を知らない人は幸いだ。母さんはマックス執事が作り上げた話をすっかり信じているようだった。
そうこうしている内に往診の準備ができたので、マリの診察をするために医療用のワゴンを押して、母さんを部屋に案内するように促した。
「準備ができたから、マリの所へ行こう」
わたしと母さんは医務室を後にした。
マリの部屋に行くと、彼女はベッドで毛布を首元までしっかり引き寄せ、体を丸めて寝ていた。熱のせいか顔が赤く、呼吸も浅く少し早くなっていた。
マリに声を掛けると、彼女は深くは眠ってなかったようで、目を開けてわたし達を見た。熱があって苦しいだろうに、彼女は弱々しい笑みを浮かべてベッドから起き上がろうとした。
「マリ、そのまま寝てていいよ。熱があると聞いたけど、どんな感じかな?」
問診を続けながら、マリの脇下に体温計を差し込み体温を測った。
「熱のせいなのか体が怠いです。体の節々が少し痛くて。病室で目を覚ました頃から喉がいがらっぽい感じがしていたのですが、今は少し咳が出ています」
マリは力なく症状を伝えてきた。
ただでさえ地下室での監禁生活と低体温症で体力が低下しているマリは、風邪をひいてしまったようだ。地下室では接触する人物はアーサーに限られていただろうが、この館だけでも80名近い人間が働いている。そのうちの何人かが風邪のウィルスを持ち込んでいても不思議ではない。
アラームが鳴って体温計を取り出すと、37.8度と表示されていた。聴診器を取り出して、マリが着ている夜着を肌蹴て胸の音を聞く。心臓も呼吸も特に異常は見られない。今は風邪で済んでいるが、マリの免疫力が予想以上に弱っている場合には、肺炎に発展しかねない。ここ数日は注意が必要だろう。
「風邪をひいているようね。熱が出るのは免疫司る細胞が働きやすいようにする体の防衛反応なの。一応、熱さましも出しておくけど、体温が38.5度を超えるなら服用してね。治すには体を温かくしてよく睡眠と栄養を取ることよ。熱がある間はこまめに水分補給も心掛けてね」
私がマリの夜着を元に戻しながら説明すると、彼女は素直に頷いた。
続いて頭の裂傷の消毒をしていると、マリは不意に質問をしてきた。
「カリンさんは、記憶喪失の患者を診たことがあるのですか?」
一瞬だけ消毒をしている手が止まった。マックスには、マリに期待を持たせるような紹介をされてしまったが、ここは正直に話すべきだろう。私は医師として此処にいるのだから。
「記憶喪失自体が稀な症例なのよ。私も今まで診たことはないわ。知識はあっても、マリが記憶喪失の患者としては初めてということになるわね」
消毒を終えて傷口をガーゼで覆い、その上から包帯を巻いて固定する。
「ありがとうございます」
マリはベッドの上で上体だけを起こすと、礼を言って頭を下げた。日本の礼儀なのだろう。マリと私達の文化の違いを垣間見たようで、記憶が無くても体に身に付いたものは残っているのだなと感心した。
「とにかく、今は記憶喪失の事は何も考えないで、怪我と風邪を治すことに専念してね。焦りは禁物よ」
「はい」
マリは熱で潤んだ目でわたしを見上げて答えた。心細いのだろうか、まるで子犬が母犬に縋るような目をしていた。
「また、夜に様子を見に来るわ」
元通りにマリを寝かせて毛布を被せると、私は母さんを伴って別室へと移った。そこで母さんに医師としての指示を出す。
「母さん、マリの呼吸音に異常が出始めたら、すぐにわたしに連絡してくれない? もしかすると、気管支炎や肺炎に病状が進行するかもしれない」
「マリ様はお若いから、そこまで深刻なことにはならないのではないの? カリンがそう言うなら注意しておくけど」
「お願い」
母さんがマリの看護をするために寝室へ戻ろうとする背中に思わず言葉を投げかけた。
「ねぇ、母さん。万が一、アーサーの幸福を願う使用人の立場と、看護師としてマリを保護する責務が相反することになったら、母さんはどちらを選び取るの?」
母さんは狐につままれたような顔をして、わたしに向き直った。
「変な事を聞くのね。そんな事にはならないわよ。でも、もしあなたが想定した事態になってしまったら、私は迷わず看護師としての立場を貫くわ。だって、使用人は他にも沢山いるけど、医療的な視点からマリ様を支えてさし上げれるのは私達しかいないのよ。それを放棄することは、自分自身を否定することになるわ」
「それを聞いて安心したよ。母さんは昔から変わらないね」
「カリン、褒めても何も出ないわよ」
母さんは照れ臭そうに笑って、マリが寝ている寝室へと入っていた。
ああ、そうだった。母さんは看護師として強烈な自負心を持っている人だった。少なくとも全てを知れば、マックス側に取り込まれる事は無いだろう。
だが、記憶も名前も失って、偽りの過去を押し付けられたマリに、全てを知った上で差し伸べられる救いの手は、この館にどれほどあるというのか。彼女には何の罪もないのに、こちらの都合で異国の地に囚われて、見えない鎖でアーサーに捕縛されようとしている。あまりにも哀れだ。
せめて私だけは、マリの味方でいよう。彼女の心が壊れないように。記憶が戻った時に、彼女を現実に繋ぎ留めれる錨となれるように。
そう決心して、マリが風邪をひいた事を知らせるべく、私はアーサーの書斎へと向かった。
2012.05.20 初出
2012.09.12 改行追加




