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第13話 外堀を埋める者たち

 約一時間後、あてがわれた広く品の良い部屋の中で、私は自分が置かれた状況に頭を抱えることになった。


 アーサーは私を部屋に案内した後、仕事があるから夕食の時に会おうと言って出て行ってしまった。

 これから私が住むことになる部屋の寝室には造りがしっかりした高そうなダブルベッドがあり、その近くの壁際には寝椅子まであった。寝室の奥の扉は浴室、右の扉はお茶を楽しめそうなテーブルセットが置かれた居間があった。寝室のサイドテーブルもワードローブもライティングデスクもアンティークな趣があり、繊細な装飾と行き届いた手入れで、しっとりと落ち着きのある上品さを醸し出していた。

 間違って傷でもつけてしまったら弁償するのにいくらかかるのだろうと思ってしまうあたり、私には貧乏性が染みついているのかもしれない。


 (しばら)くしてマックスさんは赤い髪に淡い緑の瞳を持つ中肉中背のメイドを連れてきて私に紹介した。


「彼女はライラ・ロータス。カリン医師の母親でもあり、看護師資格も持つ優秀なメイドです。これからあなたの専従メイドとなります。他にライラの補助として二名メイドを付けますが、現在選抜中なので決まり次第紹介させて頂きます」


 にこにこと笑顔を絶やさないライラさんは、人を包み込むような温かい雰囲気を持っていた。


「あの、マックスさん、身の回りの世話は自分でできますから、人を付けて頂かなくても大丈夫です。ここに住まわせてもらうだけでも、とてもありがたいと思っているのです。それに、この部屋は広すぎて落ち着かないので、他の部屋へ移ることはできないでしょうか?」

「申し訳ありませんが、部屋を変えることはできません。あなたがアーサー様の婚約者である以上は、空いている部屋で一番良いこの部屋を使用して頂きます。この館は広いですし、敷地も広大です。せめてマリさんがここでの生活に慣れるまでの間だけでも、ライラを付けさせてもらえませんか?」


 マックスさんは丁重に私のお願いを却下して、彼の主張を押し込もうとしてきた。


「マリ様。遠慮なさる事はないのですよ。アーサー様の奥様になる御方をお世話するのが夢でしたもの。アーサー様は長年浮いた噂一つなくて、女性がお嫌いなのかと、私達はとても心配していたのです。一昨日初めて女性を館にお連れになって、それも婚約者だと言うじゃありませんか。もう嬉しくって、嬉しくって……。これでソフィア様にも顔向けできます」


 初めて聞く名前が出てきて思わず聞いてしまう。


「ソフィア様って、どなたですか?」

「アーサー様のお母上でございます。既にお亡くなりになっていますが……」


 マックスさんが補足してくれた。

 ライラさんが私を見る目はキラキラと輝いている。とっても期待に満ちた輝き。凄いプレッシャーを感じてしまう。

 この様子ではアーサーに好きになれるかどうか分からないって言ったことが知れたら、ライラさんに泣き出されかねない。それにしても、婚約は押し付けないってアーサーは言っていたのに、私が婚約者である事がどうして広まっているのだろうか……。


 ちらりと斜め上に目を上げてマックスさんの様子を伺うと、彼はとてもいい笑顔を返してきた。まさしく確信犯のそれだ。

 犯人は、マックスさん、あなたですか……。


「分かりました。でも、ライラさん、私を様づけて呼ぶのは止めてもらえないでしょうか? マリ、と呼んでもらって構いませんから」


 年上の人に「マリ様」と呼ばせるのは強い抵抗感がある。アーサーは慣れているみたいだけど、私は駄目だ。様づけされるほど私は偉い人間ではない。


「それはできかねます。マリ様はナント伯爵夫人になられるのですよ。今から使用人である私共からマリ様と呼ばれる事に慣れて頂きませんと」


 ライラさんの言葉を私の脳が理解するのを拒みかけた。何度も彼女の言ったことを脳内でリピートさせて、ようやく言葉に込められた意味を掴んだ。

 伯爵夫人って、何ですか。もしかしなくても、アーサーは伯爵ってこと!? 私はそんなこと聞いていない。いや、単に記憶喪失で忘れているだけなのか? それも承知の上で、私はアーサーと婚約したのだろうか?


「アーサーは貴族だったの? どうして、そんな人と私が出会えて婚約まですることになったのか、不思議でしょうがないのですが……」

「まあまあ。マックス執事から聞いた話では、アーサー様が一目惚れしたらしいですよ。記憶喪失でマリ様から馴れ初めを聞けないのはとても残念ですが、余程、情熱的に口説かれたに違いありませんわ。そうでなければ、一週間でご婚約まで辿り着けませんもの。若いって、いいですわねぇ……」


 彼女は右の掌を頬にあて、ここではない遠い所を見ながら、うっとりとしていた。微かに頬が薄く朱に染まっているのが見て取れた。

 ライラさん、お願いですから想像を(たくま)しくして妄想の世界に旅立つのは止めて下さい。目を細めて温かい眼差しで意味ありげに私を見て微笑(ほほえ)まないで下さい。私がいたたまれなくなるのですが!

 居心地の悪さを感じていると、マックスさんが知りたくもない情報をご丁寧に追加してくれる。


「アーサー様はナント伯爵家の当主ですが、リーフ侯爵家の後継者でもあります。複数の爵位を持つ場合、最上位の爵位を用いるのが慣習ですので、将来的には、マリ様はリーフ侯爵夫人となる訳ですな」


 公・候・伯・子・男。どこかで覚えた爵位の序列がこんな所で役に立つとは、思いもしなかった。記憶喪失でも身に付いた知識は、あっさりと出てくることに皮肉にも気づいて、どこで習ったのか、誰に教わったのかを思い出そうとするが無理だった。


「さあ、これから忙しくなりますよ。マリ様の服はまともな数が揃っていませんし、パーティードレスは全くない状態ですもの。靴も小物もアクセサリーも必要ですわね。ウェディグドレスを作るのに半年はかかりますから、明日にでもナント家なじみのブティックの方に来てもらって採寸して頂きましょう。ソフィア様が亡くなって以来ですわね、女物の服を仕立てるのは」


 ライラさんは喜色満面の表情で計画を立て始める。その勢いに私はたじろいで、思わず半歩後ろへ下がってしまった。


「お待ちなさい、ライラ。マリさんは頭部裂傷の抜糸も済んでいないのですよ。外部の人間に包帯姿を見られて、噂好きな人物に情報を流されてみなさい。あっと言う間に社交界に尾びれ背びれのついた悪い噂が蔓延するに決まっています。せめて包帯が取れるまでは待つべきです」


 マックスさんが諌めると、彼女はとても残念そうな顔をした。


「……とはいえ、ご結婚に向けた準備はする必要はありますな」


 彼の呟きに私は(おのの)いた。アーサーへの気持ちも定まってないこの状況で、婚約も結婚もあり得ない。このままだと、ずるずる流されて本当に結婚まで持って行かれかねない。一言、言っておかなければ。


「私は記憶喪失で、とても今、婚約や結婚のことは考えられません。アーサーは私を好きなのかもしれないけど、私にはまだそこまでの感情はないのです。ですから、結婚の準備をされても困ります」


 失礼にならないように、必死に言葉を選んで彼らに戸惑っている私の心情を伝えたが、マックスさんの強引な理論に捻じ伏せられてしまった。


「準備をして無駄になるよりも、準備をしなかったことで間に合わなくなる方が私共には怖いですな。これも勉強だと思って付き合って下さい。アーサー様は記憶を失ったあなたを口説く気満々ですから、ご心配なさらなくても大丈夫です。ひたむきに想いを寄せられて何も無かったことにできるほど、あなたは冷酷な方ではないはずです。無論、私共も後押しさせて頂きます」


 アーサーは私が彼を好きになるまで待つと言ってはくれたけど、マックスさんを始めとするこの館の使用人達が寄ってたかって外堀を埋めていこうとしているのが、鈍感な私にもはっきりと分かってしまった。

 どうしようも無くなった時に速やかに日本に逃げ帰れるように、パスポートだけは日本大使館に再発行してもらって確保しておこう。

 意識が戻って早々にそう思ってしまった私を、誰も責めないだろう。


「まず、イギリスの歴史、リーフ侯爵家とナント伯爵家の歴史の習得と、それに合わせて時々混じる米英語の発音を矯正させて頂きましょうか。これは明日からでも始めましょう。テーブルマナーのチェックもさせて頂きます。また、日本の方は社交ダンスをする機会が少ないと聞きますので、社交ダンスのレッスンも必要ですな。アーサー様は社交界には、ここ八年はほとんど出ていらっしゃいませんが、毎年、年末から年始にかけてアーサー様主催のニューイヤーパーティーがこの館で開催されますので、それまでには踊れるようになって頂きませんといけませんな」


 マックスさんは次々に私の学習項目を決めていく。

 年末まであと四週間ほどしかないのに、全部覚え切れるのだろうか。心配になってきた。


「それでは、ニューイヤーパーティがマリ様のお披露目になるということですね。私達も精一杯お手伝いさせて頂きます。頑張りましょうね」


 励ましてくれるライラさんには、曖昧に微笑んで誤魔化したが、これから始まる婚約者としての教育や諸々の厄介事に、私は憂鬱になりかけていた。


「ああ、それと言い忘れていたことが一つあります」


 マックスさんが思い出したように告げた。私は力なく顔を上げて彼を見上げた。


「……何でしょうか?」

「あなたを誘拐した犯罪組織ですが、まだあなたを狙ってくる可能性がありますので、暫くは護衛を付けます。館の中に居る時は結構ですが、外に出る場合は、必ず護衛を伴って下さい。それと安全が確認できるまで、敷地の外には出ないようお願いします」


 護衛って大袈裟(おおげさ)だなと思ったが、実際に事件に巻き込まれて怪我を負ってしまった身としては受け入れるしかない。再び拉致されてアーサーを始めとするこの館の人々に迷惑をかける訳にはいかないのだから。


「分かりました。安全が確認されてからで結構ですので、パスポートを再発行してもらうために最寄りの大使館か領事館へ行かせて貰えないでしょうか」

「パスポートですか。アーサー様にお伝えしておきましょう」


 マックスさんはそう言うと、ライラさんを残して部屋から退出した。



「護衛が必要なほど厄介な犯罪組織に狙われたのかな……」


 ぽつりと漏らした言葉をライラさんに聞きとめられてしまったらしく、彼女は私にココアを勧めながら慰めてくれた。


「アーサー様は貴族であると同時に、世界有数の資金量を誇るファンドの代表でもあります。ですから、裏の組織の標的になりやすいのですよ。アーサー様は幼少の時からマフィアやテロ組織や犯罪集団に狙われるのは慣れていますが、マリ様は平和で治安のいい日本で生きてこられたのですもの。戸惑われるのも無理ありません。でも、大丈夫です。きっとアーサー様がお守り下さいます」


 私の望みとかけ離れて、日常が平凡とは程遠いものになっていく苦々しさを、甘く温かいココアを共に飲み込んだ。

 まずは体の調子を戻し、怪我を完治させることが大事だ。体のあちこちにある打撲は動くとまだ微かに痛みが走る。それになんだか体が怠い。寒気もする。低体温症になったせいで体力を消耗しているのだろうか。

 ココアを飲み終わると、ライラさんはマグカップを回収しようとして、私の手に触れた。

彼女の手はひんやりして気持ちがいいなと思っていたら、失礼しますと声が掛けられて彼女の右手が私の額に当てられた。


「マリ様、お熱があるようですね。娘のカリンを呼んで来ますので、ベッドでお休み下さい」

「あ、大丈夫です。ちょっと疲れているだけだと思います。一晩寝れば元通りになると思うので、わざわざカリンさんを呼んで貰わなくても……」

「いけません。怪我もして病み上がりの状態なのですよ。無理をなされては治るものも治らなくなります。それに、アーサー様が心配されます」


 ライラさんは有無を言わせない雰囲気で私の服を剥ぎ、夜着に着替えさせてから私をベッドに押し込んだ。

 ライラさんの手を冷たいと感じたのも、寒気も、私が熱を出していたからなのか。ほんの少し触れただけで体温が分かってしまうなんて、すごいな。看護師資格は伊達じゃないわけだ。

 彼女がカリンさんを呼ぶために部屋から飛び出して行った姿をふかふかのベッドの上から眺めながら、徐々に強まっていく寒気に彼女が掛けてくれた毛布を首元にしっかりと引き寄せた。


2012.05.19 初出

2012.09.12 改行追加

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