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第12話 婚約者

 麻酔が覚め切った後、マックスさんが食事を持ってきてくれた。私は二日間飲まず食わずの状態だったらしいので、ゆっくりと体を食事に慣らしていくのだそうだ。

 イギリスの流動食ならオートミールでも出てくるかと思ったが、お米のお粥が出てきたのは感激した。怪我を治療してもらっただけでもありがたいのに、日本人の私に合わせた食事まで作ってもらえるなんて、何だか申し訳ない気分になる。


 お腹が満たされると思考も自然と前向きになってくる。

 記憶が無いにしても日本へ帰る算段をつけないといけない。日本大使館か領事館へ行き、事情を説明して帰国するために助力を仰ぐのが一番良い方法だろう。ここから大使館まで、どれほどの距離があるのだろうか?

 そんなことをつらつらと考えているとノックの音がした。どうぞ、と答えると病室のドアが開き、マックスさんと二人の見知らぬ人が入ってきた。


 一人は夢で見た男性だった。

 銀の髪とダークブルーの瞳。緩やかに波打つ髪と精悍な頬、筋の通った優美で高い鼻はギリシャ彫刻のアポロン像を思わせる。

 もう一人は人の目を引きつける赤い髪に深い琥珀色の瞳を持つ女性だった。

 贅肉の一切ない引き締まった体をして、薄い唇と滑らかな輪郭の頬と短く纏めている髪が中性的な雰囲気を彼女に与えていた。高潔な野生の獣を人型にしたようだと、ふと思った。


 ベッドに横になっている状態では失礼だと思い、ベッドから起き上がって床に立とうとするが、マックスさんに止められた。私はベッドの端に腰掛ける形になり、彼らはパイプ椅子を出してきて座った。


「マックスさん、先程は食事をありがとうございました。やっと一息つけました。お米のお粥まで用意して頂いて、本当に感謝しています。あの、そちらの方々は……?」


 マックスさんに流動食のお礼を言ってから、私は見知らぬ人のことを問うた。


「ああ、失礼しました。この方はアーサー・リーフ様で、この館の主人で私の上司です。おそらくイギリスであなたの過去を僅かでも知っている唯一の方です。こちらの彼女はカリン・ロータス。治療を共に担当した医師です」


 医師が常駐している家の主人って、ご家族に病人がいるのだろうか。狭いとはいえ、それなりの医療設備が整っている部屋があることに違和感を覚えてしまう。


「リーフさん、この度は私の怪我を治療して頂き、お世話になりました。本当にありがとうございました」


 頭を下げてお礼を言うと、リーフさんの戸惑いと苦悩に満ちた声が絞り出された。


「マックスから聞いてはいたが、本当に何も覚えていないのだな……」


 顔を上げると、彼がダークブルーの瞳で悲しげに私を見つめていた。

 リーフさんにこんな表情をさせるなんて、彼と私の間には何があったのだろうか?


「あなたは私の事をご存じなのですよね? どんな事でも良いので、教えて頂けないでしょうか。私は記憶を取り戻したい」


 初対面なので礼儀正しく丁寧な言葉でリーフさんにお願いすると、彼は明らかに困惑した様子を見せた。


 えっ? 何故?


 彼は右の掌を胸に当ててシャツをぐっと握り締め、気持ちを落ち着かせるために、息を一つ吐き出すと迷いを振り払った。


「君の名前は、マリ・ナガガワ。俺の婚約者だ」


 ん? 今、何て言ったの? 婚約者ぁ!?


 驚きのあまり呆然としている私に追い打ちを掛ける言葉が続く。


「マリとは三ヶ月半前にロンドンで知り合って、一週間共に一つ屋根の下で過ごしたじゃないか。君はプロポーズを受け入れてくれて、生涯俺の傍にいるって約束してくれたのは覚えてないのか?」


 思い出せない。一週間という短い期間で婚約までしてしまうほど、私は彼を想っていたのだろうか。

 婚約者である私が彼のことを覚えてないという事実だけでも耐え難いだろうに、彼は我慢強く真摯に私に接してくれている。けれど、こんなに良い人を私は忘れてしまっている。


「ごめんなさい。覚えてません……。三ヶ月半の間、私はどうしていたのですか?」

「婚約した後、君は仕事の引継ぎや借りているアパートの引き渡しの為に日本へ一時帰国していた。それが終わってイギリスに入国したのが二週間前。その直後に事件に巻き込まれて行方不明になった。空港で待つように言ったのに、自力でここへ来ようとする途中で連絡が途絶えて……。俺が動かせる伝手(つて)を全て利用して君を救出できたのが二日前だ。気が狂いそうになるほど心配した」


 リーフさんは腕を伸ばして私を抱き寄せようとしたが、私が身を強張らせたのを見て力なく腕を下した。

 何故だろう。彼が私に触れようとしたとき、咄嗟(とっさ)に怖いと思ってしまった。婚約者なのに。私を助けてくれた人なのに。夢にまで見た人なのに。


 ……どうして?


「ご、ごめんなさい……」


 きっと彼を傷つけた。罪悪感で一杯になって思わず俯いて謝ると、彼は首をゆっくりと横に振って寂しそうに苦笑した。


「いや、いいんだ。マリは記憶を失くしているのだから、俺とは初対面も同然だ。見知らぬ男に急に抱き寄せられたら怖がるのも無理はない。君が異性とのスキンシップに慣れていないのは一緒に過ごして十分に理解しているから、気にしなくていい」


 リーフさんと過ごした一週間に何があったのだろう?

 彼の言い方に何か含みがある気がして、心の中で密かに冷や汗が流れる。何も思い出せないのがもどかしい。

 私の動揺をよそにして、彼は私の右手を大きな両手で包み込み自分の胸の前まで引き寄せた。真剣な眼差しで私の瞳を捕える。


「記憶喪失の君に婚約を押し付けることはしない。結婚もマリが俺を愛してくれるようになるまで待つ。だから、少なくとも記憶が戻るまでは俺の傍にいてくれないか。このまま日本に帰っても、仕事も家も家族も記憶もない君を一人にすることはできない。そして、俺の事を少しでも知って受け入れて欲しい。出会った頃から、もう一度始めよう、マリ」


 私には家族もいないのか。そうなら頼れる人は目の前にいるリーフさん唯一人という事になる。


「リーフさん、記憶を失う前のように、あなたを好きになるかどうかも分かりません。それでも良いのですか?」

「それでも構わない。だから、ここに居てくれるね」

「はい」


 念を押すように確認したリーフ氏に私が頷くと、彼はほっとしたのか安堵の表情を浮かべた。

 それに見惚れていた自分に気づき思わず赤面して私は目を逸らした。彼は包み込んでいた私の手を解放して、持ってきた紙バックから真新しい若草色の携帯電話を取出し、私に手渡した。


「君の荷物は回収できなかった。携帯電話は無いと不便だろうから、こちらで用意させてもらった。俺とマックスとカリンの携帯電話番号とメールアドレスは登録してある」

「ありがとうございます」


 細かな心遣いをしてくれたリーフさんにお礼を言った。

 荷物が回収できなかったのなら、パスポートもお財布も同様ということなのだろう。特にパスポートが無いと出入国が通常の手続きではできなくなるので困る。


「私からもお知らせがございます。私とカリンとで相談した結果、カリンがあなたの主治医になることが決まりました。私は年末に向けて執事の業務が忙しくなってきますし、カリンは臨床心理学の知識もありますので、記憶喪失にもなっているあなたの主治医として適任だと思います」


 マックスさんがそう言うと、カリンさんが茶目っ気たっぷりにウィンクした。


「宜しく、マリ。アーサーに何かされたら、私の所に駆け込んできて良いからね。彼の毒牙から守ってあげるから」


 リーフさんは、この言葉を聞いてぎょっとし、狼狽していた。


「俺は飢えた狼じゃないぞ」

「さて、どうだか」


 カリンさんが彼を氷点下に凍えきった目で彼を斜めに見据えた。疑わしいと思っているのが彼女の顔にありありと浮かんでいた。

 マックスさんが見かねて、アーサーに助け船を出した。


「アーサー様、マリさんのお部屋は既に整えてあります。病室から移ってもらっては如何(いかが)でしょうか」

「そうだな……、そうしてもらおう」

「リーフさん、何から何までお世話になって、本当にありがとうございます」


 感謝を込めて深くお辞儀すると、彼は一つお願いをしてきた。


「リーフさん、じゃなくて、あの頃の様にアーサーと呼んで欲しい。俺も君をマリと呼んでいるのだから」

「分かりました、アーサー」


 婚約者だったら、ファミリーネームで呼ぶのは確かに不自然だ。

 アーサーは婚約を押し付けるようなことはしないと約束してくれたが、周りは私をどう扱うのだろうか? 一抹の不安を抱えながら、私は彼の館の住人となった。


2012.05.18 初出

2012.09.12 改行追加


 この話から、主人公は偽物の名前をアーサーから与えられたため、ナカガワ・マリと名前の表示が変わります。

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