第11話 絡め取る腕
ユキが地下室から脱走してから一日半が過ぎようとしていた。
マックスからの連絡を受けて、別館の一角に設けられている医務室に入った。そこにはマックスだけでなく、カリンも居た。
マックスは俺を見るなり、ユキのいる病室へ行かせようとした。
「アーサー様、ユキさんの記憶喪失の状態を報告する前に、彼女の生気を食べておいて下さい。今なら麻酔で眠っていますので、あと一時間ほどは起きることはありません」
「いや、先に報告を聞こう」
俺が報告を急かすと、マックスは苦笑しながら諭すように廊下に出るドアへと導いた。
「坊ちゃま、彼女に張り付けた監視は麻酔が効いているからと言って一時間の休憩を取らせてあります。坊ちゃまが飢餓状態になって使用人に被害が出ないようにするためにも、お願いします。彼女が大切な人であるのは百も承知しておりますが、同時に坊ちゃまはこの館の主人でもある事もお忘れなきように」
マックスにそこまで言われて、仕方なくユキが眠る病室へと足を向けた。
彼が言った通り病室の前には誰もいなかった。病室へ入るとユキは昏々と眠っていた。
点滴は全て外され、治療を受ける前には血の気を失い真っ白だった頬も今は赤みがさしていた。頭に巻かれた白い包帯が痛々しい。
そっとユキの頬に手で触れると、ほんのりと温かさが掌に伝わってきて、彼女が確かに生きていることを俺に知らせてくれた。絹の滑らかさを持つ彼女の黒髪を一房掬い上げ、そこにキスを落とした。
――ユキが生きてくれた。神よ、感謝します。
チョーカーによって蘇生してから神に祈りも感謝も捧げる事を止めた俺だったが、ユキが処置を受けている間、ずっと神へ彼女の回復を祈り続けていた。俺には、それしかできる事がなかったから。
マックスはユキは助かると言っていたが、それでも応急処置で傷口に当てたガーゼがじわじわと赤く染まっていき、声を掛けても反応しない青ざめた顔をした彼女を思い出すたびに、胸が搔き毟られるように苦しくなった。
暫く彼女の頬の温かさを感じていたかったが、マックスとカリンを待たせているので、そうもいかない。生気を眠っている間に貰っておかなければ。
俺はおもむろにベッドのリモコンを操作してベッドのマットを水平に戻した。ユキの肩を掴んで体を反転させ、俯けにさせた。肩の下に手を入れてガウンを掴んで左右に肌蹴させ、ユキの両肩を露にさせる。襟首を人差し指で引っ掛けて、ぐいっと下へ引っ張ると小さな背中が晒された。
ユキの背中には右肩下と腰の上と左肩甲骨に打撲があり、どれもが青黒く内出血を伴っていた。
彼女を地下室から逃がす失態を犯さなければこの傷がつくことは無かったはずだ。
俺は早く内出血がもたらす痣が消えることを願って、打撲の跡にそっと口づける。そして、生気を食べるために心臓の位置へと唇を落とした。
今までの犠牲者では出会えなかった極上の生気が俺の中に流れ込む。生気に飢えていた訳ではなかったが、その甘さに陶然とし貪ってしまう。
いつもは生気を抜かれる感覚に必死に耐えている彼女が、今回は麻酔で静かに眠っている事も俺を増長させたかもしれない。
心ゆくまで生気を貪った後、ユキを仰向けにした。背中まである黒髪に手を入れて梳き、絹以上に滑らかな手触りを心ゆくまで堪能する。それだけでは足りずに、ユキの額、瞼、頬に次々とキスを降らせた。
唇を重ね合わせようとした時、背後からブリザートよりも冷ややかな声が投げつけられた。
「アーサー、意識の無い少女の上にのし掛かって何をしようとしているのかしら。今すぐ病人用のベッドから降りないなら、今後はロリコンと呼ぶわよ」
ユキのガウンは、はだけられて胸の半分ほどが見えていた。俺はベッドの上に跨って、彼女の体に体重を掛けないように両腕を顔の両脇についているような状態だ。
これではユキを襲おうとしていたと思われても仕方がない。だが、俺はこの場で彼女を抱こうと思っていた訳では決してない。言っても信じてはもらえないだろうが……。
俺はユキのガウンを整えてやると、素早くベッドから降りて声の主に向き合った。
カリンが両腕を胸の前で組み、こめかみに青筋を浮かべる勢いで俺を睨んでいた。美人が怒るとなかなか迫力がある。
「食事にしては遅いと来てみれば、怪我人相手に何やってるの? 使用人達がさっきの光景をみたら嘆くわよ。マックスが彼女の怪我と記憶喪失の状況を説明するらしいから、さっさと医務室へ戻ってもらえないかしら」
「分かった」
経験則上、カリンが怒っている時に反論して勝てた試しがないのだから、ここは黙って従っておくのが賢明だ。
医務室に戻ると、マックスが紅茶を用意して待っていた。俺とマックスとカリンの前に紅茶が配られると、マックスからユキの怪我と記憶喪失についての報告が始まった。
「彼女は低体温症と右側頭部裂傷でした。低体温症については治療済みです。裂傷は四針縫っていますが怪我自体は大した事はありません。抜糸は一週間後を予定しています。こちらで確認できる範囲では脳機能に障害はありませんが、やはり記憶喪失になっています。失った記憶の範囲は広大で、自分が日本人であること以外は覚えていないようです」
「自分の名前も思い出せないのか?」
驚いて聞き返すと、マックスはカルテに目を落として淡々と答えた。
「そうです。彼女と会話した限りでは、少なくとも拉致以降の記憶は完全に飛んでいると感じました。不得意なはずの英語を流暢に話していたので。時々、米英語の発音が混じるのが玉に傷ですが……」
「え? 俺が英語で話かけても全く反応が無かったのに、どういうことだ?」
英語で書かれた本をユキに差し入れても読めないと突き返され、マックスとの携帯電話のやり取りも聞いていたはずだが全く理解できないという様子だったのに……。
「英語が理解できないふりをして、我々から情報を引き出そうとしていたのでしょう。つくづく彼女がイギリス人でないのが悔やまれますな。イギリス人であれば、是非、情報局にスカウトしたいものです」
カリンはそれまで俺とマックスの会話を黙って聞いていたが、話が脇へ逸れそうなのを感じて口を挟んできた。
「それで、アーサーは彼女をどうするもり?」
カリンの中で俺の評価はさっきの所業で随分と下がってしまった様で、その言葉には険があった。
「婚約者として館に迎え入れる。彼女が心を開いてくれるまで待つつもりだが、いずれは妻にする。生涯彼女を手放すつもりは無い」
俺がそう宣言すると、マックスは柔和な笑みを浮かべて賛意を示したが、カリンは表情を硬くした。
「彼女がアーサー様の伴侶となれば、この地に縛られる必要が無くなります。何しろ、枯れぬ生気の供給源が傍らにいることになるのですから。彼女が一緒なら行動範囲が格段に広がることになりますし、使用人達も安心することでしょう」
生気が取れない日が三日続くと飢餓状態になり、無差別に人から生気を奪いかねない状況になるため、呪具に縛られた後は犠牲者を閉じ込めているこの地を中心に活動せざるを得ない状況が続いていた。
たまに犠牲者の供給が間に合わない時は、飢餓状態に陥る前に睡眠薬を点滴で注入して地下室の一角で新たな犠牲者が来るまで眠り続けることになっていた。
ユキさえいれば、そんなことも無くなる。新たな犠牲者を生まずに済む。彼女が俺を愛してくれなくても手放せるはずがない。
彼女の記憶が無いのなら、それを最大限利用させて貰おう。記憶が戻る前に俺から逃げられないように雁字搦めにしてしまえばいい。
「少し待って。彼女はまだ少女でしょ? いきなり32歳のアーサーが婚約者だというのは、色々と無理があるのでは?」
カリンの危惧も当然だ。見た目だけならユキを婚約者として発表した日には、俺が白い目で見られることは確実だ。
「カリンは、ユキを何歳だと思っている?」
「15歳ぐらい」
「21歳だよ」
「21歳!? 冗談でしょ? 幼さの残るあの顔で、あの小さな体に、肌のきめ細かさと柔らかさはとても21歳とは思えないわ。アーサー、私を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!」
カリンは琥珀色の瞳をギラリと光らせて俺に詰め寄った。
おいおい、嘘なんかついてないぞ。
目でマックスに助けを求めると、彼はカリンを宥める様に言葉を紡いだ。
「彼女の身分証明書やパスポートは全部破棄してしまいましたが、確かにそこに書かれていた情報は、彼女が21歳であることを示していました。本当です」
「アジア系の人間は幼く見られがちだとは聞いていたけど、あんなに若く見えるとは意外ね。……分かりました。21歳ならば年齢的には婚約者であっても不自然じゃないわ」
カリンは突き刺さるような鋭い眼光を和らげて話の続きを促した。どうやら納得したようだ。
「ユキが全てを忘れているなら、過去も名前も全て俺が与える。彼女には記憶を呼び起こすものは欠片も渡しはしない」
ユキから本当の名前を取り上げ、偽物の過去を刷り込む。ユキが記憶を取り戻した時、今からすることは絶対に許してもらえないだろう。
それでもユキを俺に縛り付けておきたい。
醜い独占欲だと思われてもいい。人でなしの自覚もある。それでも俺は自分を止められない。
どうか俺の腕の中に堕ちてきて、ユキ。
2012.05.17 初出
2012.09.12 改行追加




