第10話 記憶喪失
15分程車を走らせていると目的の橋が見えてきた。雨が降りしきる中、目を凝らして周りの風景と予知で見た映像を擦り合わせていく。
「あの橋を渡った所で止めてくれ。そこから少し上流へ回らないといけない」
運転手に話しかけると、その通りの場所で車が止まった。ガーディアン二名は車に待機して、残りの二名と俺とマックスでユキを探すことになった。
橋から50メートルほど上流へ歩き、川岸に背高く伸びる雑草を踏み分けて進むと、ふと草のカーテンが途切れて目の前が開けた。目の前には激しい音をたてて流れる川の濁流が広がり、足元にはユキの白い手が見えた。
「ユキ」
俺の呼びかけにもぴくりとも反応しない。
邪魔な草を左右に押し倒して視界を確保して見たものは、うつ伏せに倒れているユキだった。
右側頭部から出ている血が彼女の右頬を伝って緩慢な間隔で地面にポタンポタンと落ち、小さな血だまりを作っていた。唇は血の気を失って紫に変色し、肌は不吉なほどまでに真っ白だ。白いはずのワンピースは、泥水を吸って灰色に染め上げられていた。下半身は川の中に浸かったままで、ユキの腰が川岸に寄せる波で洗われていた。
俺は川に入り込むと、ユキの体を仰向けにさせて膝裏と背に手を回して抱え上げた。服に含まれていた水が彼女の体を伝って流れ落ちていく。長時間低温に曝されたユキの体は驚くほど冷たい。微かでも呼吸していなければ、死体と間違えそうなくらいに。
生きていてくれた――。
心が温かい感情で満たされる。想いが命じるままにユキの額に唇を落とすと、彼女の瞼が僅かに動いて魂までも吸い込まれそうな漆黒の瞳がぼんやりと俺を見た。
「あなたは……誰?」
ユキが震えるか細い声で放った問いは、俺の時間を止めた。
もしかして何も覚えてないのか。俺のことも、地下室から逃げ出したことも、追手に追われたことも……、全て。
ユキを抱えて呆然としている俺に、更にユキは何かを言おうとして意識をまた失った。
その様子を近くで見ていたマックスが、素早く彼女の右手首を掴んで脈をとり、険しい表情をした。
「アーサー様、早く彼女を車の中へ。心拍数が下がっています。頭部の外傷よりも、低体温症の応急処置を急がなければいけません」
マックスの声で我に返った俺は、ユキを抱き上げたまま車へと急いだ。ワンボックスカーの後部ドアからユキを広い荷物室へ運び込むと、防水シートを敷いた床の上に横たえた。水がじわりとシートに広がり始める。
「濡れている彼女の服を全部取り払ってください」
マックスは荷物室へ乗り込むと鋏を俺の手に押し付け、自らももう一つの鋏を持って、迷いなくユキの服を切り始めた。作業しながら小型無線機でカリンを呼び出す。
「カリンですか。応急処置室の準備はできていますか? 患者は右側頭部外傷と低体温症です。縫合セットを用意して下さい。輸液は全て加温して。ミリアに命じて、ペットボトルにお湯を詰めた物を多数用意させて下さい」
交信が終わる頃には、ぐっしょりと濡れすぼった衣服は下着を含めて全て取り払われ、ユキは生まれたままの姿を晒していた。
子供並みに身長は小さいが、すらっと伸びる華奢な手足に均整のとれた体つきが、彼女に大人の艶と少女の無垢さを兼ね備えた危うい魅力を漂わせていた。
男ならその細い腰を掻き抱き、組み敷いてみたくなるほど征服欲を煽られる存在――本人は無自覚だから全く始末に負えない――を目にした気の毒な運転席のガーディアンは、ごくりと喉を鳴らした後、俺の刺すような視線に気づいて、慌ててルームミラーを明後日の方向へ曲げた。
「次は、毛布で彼女の体を包みます。手伝って下さい」
マックスの指示で、意識のないユキを広げた毛布の上へそっと移し、包み込んだ後に担架の上へと戻す。更に毛布を上から掛けてやる。
マックスはユキの頭を右側が上になるように動かし、出血部にガーゼを当てて包帯できつく巻いた。一通りの応急処置が終わると、運転手に応急処置室のある別館へ向かうように告げた。車が走り出す。
「アーサー様、彼女は処置を受ければ高い確率で助かります。心配いりません」
余程、俺が思い詰めた顔をしていたのか、マックスが安心させるように落ち着いた声で宥めてくれた。
「ユキは記憶喪失かもしれない。初めて会う他人のように俺を見ていた」
それにはマックスも気づいていたようで、元情報局員として思考回路が働き始めたのか、彼の顔が一転して無表情になる。
「三ヶ月半の間ストレスの溜まる環境下にありましたから、頭を強打したショックで記憶が飛んだとしてもおかしくはありません。問題は、どれだけの範囲の記憶を失っているか……ですな」
拉致された以降の記憶が失われていなければ、ユキを再び地下室へ閉じ込める他ない。
事が露見すれば、リーフ侯爵家の醜聞として大々的にマスコミに取り上げられてしまうだろう。それは避けなければならない。
「それはユキが意識を取り戻してからしか分からない。治療が終わったら、護衛と称して逃亡しないように監視を貼り付けてくれ」
「承知しました」
マックスは無表情のまま頷いて、一つ提案をしてきた。
「意識回復後の彼女への聴取は、私が行います。記憶喪失の程度を探った上で、今後彼女をどう扱うか決めるのが良いでしょう。それまではアーサー様は彼女にお会いになってはいけません。使用人達にも彼女の事はお話しになりませんように。宜しいですね」
「分かった。ユキの治療は頼む」
別館の裏口に車が止まり、後部ドアが開かれた。カリンがストレッチャーを持ってこちらへ駆けてくる。
担架からストレッチャーへユキを乗せ替えて応急処置室へ急ぐ。カリンは応急処置室に入ろうとする俺を押しとどめた。
「アーサー、ここから先は我々医師の領域よ。低体温症の処置には時間が掛かるから、部屋に行って服を着替えてきて。風邪をひいたりされると困るから」
応急処置室の扉が俺を拒むように目の前で閉じられ、処置中の赤いランプが灯った。
* * * * * * * * * *
長い夢を見ていたような気がする。どんな夢かと問われれば、ほとんど覚えてないので答えられないのだけれど、一つだけ覚えている事がある。
薄い闇の中で、月の光を凝縮したような銀の髪と氷結した海を思わせるダークブルーの瞳を持つ男性が私を悲しみに満ちた表情で見つめていたこと。精悍な頬にも筋の通った鼻梁にも雨のせいで水が滴り落ちているのも構わずに、私へ注がれる視線に当惑だけが募る。
あなたは誰なの? どうしてそんな悲しい顔をしているの?
彼への問い掛けは闇に溶けて消えた。
ゆらゆらと眠りの海に漂いながら、何故、外人が出てくる夢を見たのだろうと不思議に思った。私は日本人なのに。
――そろそろ起きなければ。お腹空いた。ご飯の用意をしないといけない。
起きるために微睡の中から意識を浮上させる。寝ぼけながら目を開けると、見覚えのない白い天井があった。周りを見ると、よく病院で見かけるようなキャスター付のベッドが二つあった。マットには白いシーツが、枕も白いカバーが掛けてある。
上半身を少し起こした状態のまま、厚みのあるガウンを着てベッドで寝ていた。眠気が遠のくと右側頭部と背中が微かに痛みを訴え始めた。頭に手を当ててみると包帯の感触が伝わってきた。
怪我でもしたのだろうか。
それに、右腕を動かすと右肩と首の境辺りに引きつるような違和感がある。それが何なのか確認しようと手で触った時、白一色で統一された部屋に白衣を着た男性が入ってきた。年齢は50歳くらいだろうか。瞳と同じ色である明るい茶色の髪の所々に白髪が混じっている。
人の良さそうな笑顔を浮かべ、ゆったりとした足取りでこちらへ近づいてきた。
「お目覚めですか。右の首元は触らないで下さい。中心静脈への点滴ラインを確保していますので。眩暈がする、気分が悪い、目が霞む、体の一部が痺れる、動かせないといった症状はありませんか」
そう言われて右上に首を回してみると、輸液パックが点滴スタンドに二本ぶら下がっていた。
英語でいきなり話しかけられて驚いたが、英語なら話せるので相手に合わせることにした。
入ってきた男性に向き直り英語で答える。
「そういった症状はありません。あの、あなたは誰ですか? 白衣を着ているので、お医者様だとは思うのですか……」
「申し遅れました。私はマックス・リンドブルムと申します。ここで執事兼医師をしております。あなたの治療をもう一人の医師と共に担当しました。まずは脳に障害がないか簡単な検査をさせて貰います。その後に、あなたの怪我の状態についてお話を致しましょう」
マックスさんは私に両手を握らせたり、指が何本見えるか質問したり、瞳孔反射を確認したり、体のあちこちを触ったり動かした後に、問診に切り替えた。
「名前と年齢と住所は言えますか」
彼が何気なくした質問に、私は答えることができなかった。
「……わかりません。思い出せない」
彼は困ったような顔をして、暫く考え込んでから次の質問を出してきた。
「ここはどこか分かりますか?」
「日本のどこかではないのですか?」
質問に質問で返すと、彼はゆっくりと言い含めるように教えてくれた。
「ここは、イギリスです」
「イギリス……?」
何故、イギリスに居るのだろうか。分からない。思い出せない。私が何者なのかさえも記憶から消えてしまっている。覚えているのは自分が日本人だという事だけ。
怖い。
自分が空虚な器になってしまった感じがして体を震わせた。
「何かあなた自身のことで思い出せる事はありますか?」
「日本人だという事以外は、何も思い出せません……」
マックスさんは深いため息を吐くと、ステンレスのワゴンにあったカルテを取り上げ、カルテにボールペンを走らせた。
「記憶喪失になるとは、あなたは余程怖い目に会われたようですね……。怪我の状況を説明させて頂きたいのですが、宜しいですか?」
マックスさんは私が頷いたのを確認すると、カルテに目を落として説明し始めた。
「主な症状は低体温症と右側頭部の裂傷でした。低体温症については治療済みです。右側頭部の裂傷は五針縫合しました。縫合の邪魔になりましたので、裂傷の周囲は髪を剃らせて頂きました。傷跡はいずれ生えてきた髪の下に隠れるでしょう。あと細かい所では全身に十数か所の打撲、脚に細かい擦過傷がありますが、こちらは大した怪我ではありません。見たところ脳機能障害も無いようですし、心配なさることはありません」
心配ないって……。記憶喪失になっていることは私にはとても気に掛かる。それとも、短期間で記憶が戻る場合が多いのだろうか?
聞いてみよう。『聞かぬは一生の恥』とも言うことだし。
「記憶はすぐに戻るのですか?」
「私は専門医でないので詳しくはないのですが……。一般論を申し上げると、記憶がいつ戻るかどうかは分かりません。ふとした切っ掛けですぐに思い出すかもしれませんし、長くかかる場合もありますし、……一生思い出せない場合もあります」
「……そう、ですか」
堪えていた涙が頬を伝って右手の甲に落ちた。記憶が無い不安が心を押し潰しそうになる。
何故、私はイギリスに来たのだろうか? 家族や友人は誰だったのか? どうして怪我をしたのか? 何も思い出せない。
私が私である証が、何も……ない。
泣いても記憶は戻らないことは分かっている。けれど、私は次々に溢れてくる涙を拭うこともせずに声を押し殺して泣いた。
混濁した諸々の感情を流し切ってしまわないと立ち上がって前へ進めない。泣くのは今だけ、今だけだと自分に言い聞かせる。
落ち着いた藍色のハンカチが私に差し出された。見上げると、マックスさんがすく傍に立っていた。
「どうぞお使い下さい」
「ありがとうございます」
ハンカチで涙を拭う。
マックスさんは点滴の様子を見てから、パイフ椅子を手元に引き寄せてそこに座り、私が落ち着くのをじっと待ってくれた。
「あなたには会って頂かないといけない方がいるのですが、もう少し後にしましょう。意識が戻ったので、もう点滴ラインも必要ありません。ただ、血管の中に留置しているカテーテルを抜く時に動かれると危険なので、今から麻酔を軽くかけます。次に目が覚めたら、流動食から食事を始めますので、楽しみにしていて下さい」
マックスさんの言葉に私のお腹がぐぅと鳴って返事をした。恥ずかしさのあまり顔を赤くした私を見て彼は穏やかに微笑んだ。
白衣のポケットから取り出したアンプルから注射器に液を吸出し、上に向けてから液を押し出して空気を抜いた。それを点滴ラインの差込口に入れた後コックを捻り、ゆっくりとシリンダーを押し込んで中味を私の体の中に流し込んでいった。
次第に意識が朦朧としてくる。
会う必要がある人って誰だろ? 私の過去を知っている人なら良いな……。
そんな事を思いながら私は再び眠りについた。
2012.05.16 初出
2012.09.12 改行追加
ナント伯爵家の敷地内で働く人は約200人、その家族を含めると700人ほどいます。あまりにも敷地が広く、病院へ行くのも時間がかかるため、従業員とその家族の健康管理の為に診療所と応急処置室があるという設定にしています。
低体温症関係の描写をここで書ききったので、低体温症について補足しておきます。
低体温症は条件が揃えば、誰でもなります。中心温度(直腸温など)が35度以下になると低体温症となります。
中心温度が下がれば下がるほど、体の震え、歩行困難、すぐ眠くなる、意識障害、心拍数・呼吸数の低下、心停止等の症状が出てきます。寒さによる震えは、体熱を上げようとする体の発熱反応なのですが、低体温症が進行し、これが消失するとかなり危険な状態になるそうです。
軽度の場合は、体表からの加熱は有効ですが、中度以上の重傷になると、逆に末梢血管にある冷たい血液が心臓に行ってしまい、逆に中心温度を下げ、ショックを引き起こすことがあります。
中度以上の重い低体温症の場合は、病院に搬送できる環境下であれば、体表加熱は行わずに、急いで病院に担ぎ込むのが良いそうです。
何よりも、低体温症にならないのが一番です。予防が大事です。
水にぬれない事。風雨を避ける事。体熱が奪われないような服を着る事。体熱が奪われる環境下では、カロリーと水分をじっと座っているだけでも消耗します。ですから、これらの補給を心がける事。
登山の場合は、悪天候になりそうなら、すぐに避難の行動に移ることが大切なのだそうです。海難事故でも海中を漂い続けるのは危険です。可能な限り水に濡れないようにしなければなりません。




