第三話 少女――アイルネ
「お世話になりました」
人間の国。
とある貴族領にある屋敷の玄関先で、少女は深々と頭を下げた。
「こちらこそ、世話になったよアイルネ。君は私達家族に本当に心を尽くし、よく勤めてくれた。もし、この先勤め先が見つからないような事があれば、まあ、そんな事はないだろうが、いつでも戻ってきなさい」
敷居の向こうにいる初老の紳士が、気遣わしげに笑いながらそう言ってくれる。
眦に浮かんできた涙を指ですくって、少女はもう一度頭を下げた。
顔を上げると、彼の隣に隠れるようにして立っていた少年が、もじもじとしながら手を差し出してくる。
ん、と無言のまま突き出された手の中に見えるのは淡い彩り。
「お坊ちゃま、これは?」
手に握られていたのは、黄色い小さな花だった。
腰を屈めて視線を合わせると、そばかすの浮いた頬に赤みが増した。
「お前にやる。綺麗だったから、お前が喜ぶと思って」
そう言って花を渡し、照れたように父親の足元に隠れてしまう。
思わず少女の胸が詰まった。
目を瞑って花の香りをかぐと、胸いっぱいにこれまでの思い出が蘇えってくる。
思えば、最初は随分と嫌われていたものだ。
ここに来たばかりのころ、まだ母親を亡くしたばかりだった少年は、誰にも深く心を閉ざしていた。
少年の頑なな態度に、古参のメイド達も匙を投げていたのだが、辛抱強く優しさを示し、時に厳しく接して本心をぶつけ合ったおかげで、今ではすっかり彼女に心を開いてくれている。
(もう、お別れなのね)
時の移ろいの速さに、一抹の寂しさが少女の体を過ぎっていった。
「もう行きなさい。馬車に間に合わなくなってしまうよ」
少年の頭を撫でながら、館の主人は微笑んだ。
この屋敷との契約は今日までの事だった。
本当はもっと長く勤めていたかったのだが、事情があってそうも言っていられない。
後はいつものように、紹介してもらった別の家へと旅立つだけである。
「はい。今日までありがとうございました。こちらでお世話させていただけて、アイルネは本当に幸せでした」
少女が最後に微笑むと、父親の膝を抱えるようにして顔を押し付けていた少年がこちらを振り返ってきた。
「……アイルネ、絶対にまた来い」
「……はい!」
力強く頷いて、少女は歩き始めた。
街道へと続く道を歩きながら、少女は振り返りそうになるのを何度も我慢した。
背後で少年の泣き声が漏れ聞こえてきて、それが寂しくて誇らしかった。
小さな花をぎゅっと胸に抱く。
(もし、この先、私の旅が終わって、その時にお坊ちゃまが私を必要としてくれたなら、アイルネは必ずここに戻ってまいります)
そう心で呟いて、少女――アイルネは歩き続けた。
本日のbgmは奥田民生さんの『And I Love Car』でございました。