第三十八話 嫌です
一方、あずかり知らぬ所で心配されたりされなかったりしているアイルネは、ぐったりと一人で長い廊下を歩いていた。
人気のない寂しげな通路で、全身を雨で打たれたような重い疲労感は、精神的なダメージによるものである。
数時間前の教育係とのやり取りを、未だに引きずっていた。
仕事においては単純明白な思考を持つ彼女も、こと自身の恥の処し方となるとからっきしだった。
普段あまり落ち込むことがない分、耐性がなかった。
唐突に足を止め、じっと足元に視線をやったまま固まったかと思うと、あああ、と頭を抱えて顔を赤くする。
しばらくグネグネやってたかと思うと、はあ、とため息を吐いて歩き始め、数歩進んだ所で再び足が止まリ固まる。のくり返し。
長い廊下はいつまでも長い廊下のままだ。
「なんだか大変そうね」
何度目か、そんな事を繰り返している内、声がかかった。
聞き覚えのない声に、ビクッと体をすくませ、振り返るアイルネ。
そこにいたのは、背の高い男だった。
派手な赤髪と人を斜めに見ているような表情。
見覚えがない。
見覚えがない相手に、今の痴態を見られた……!
……いや、別に見覚えがあればいいというわけでもないが。
「い、今のを?」
コクリと頷く男。
「うん。まあ、なんて言うか、誰にだってそういうのあるわよ」
「……」
優しく慰めるように言われて、余計いたたまれない気持ちになる。
「え、えと、失礼ですが、お目にかかったことがありましたでしょうか?」
「ううん、あたしが一方的に知ってるだけよ、子猫ちゃん」
……まさか、それは自分の呼び名だろうか。
男は首を横に振り、ニッコリと微笑む。
「そ、そうですか」
引きつった笑顔を返しながら、なんとなく身に覚えのある悪寒が走った気がして、アイルネは首をかしげた。
「それにしても、良くこの短期間でここまで綺麗に修復したわね」
感心したようにあたりを眺める男に、アイルネは気を取り直して笑顔で頭を下げる。
「ありがとうございます。皆さんのお陰でなんとか間に合いました」
世俗的な謙遜半分事実半分という所だった。
実際、作業に携わった魔族達の働きぶりが大きい。
アイルネの態度をどう取ったか、男はそう、とだけ言って微笑んだ。
「あたしの名前はシド、魔族よ」
「あ、アイルネと申します」
ペコリと頭を下げるアイルネ。
頭を上げて見つめ合う。
「…………」
「…………」
沈黙。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………あ、言わないのね」
「……えと、なにを?」
シドと名乗った男は、ハッとしたように口に手を当てた。
だいぶ衝撃を受けた顔をしたかと思うと、そのまま膝から崩れ落ち、四つん這いになって動かなくなる。
突然目の前で倒れてしまった(そう見えた)シドの方へ、慌ててアイルネは走り寄った。
「だ、大丈夫ですかっ? 気分が優れないのでしたら誰か人を……」
そう言って振り返りかけた時、グッと腕を握られる。
「ううん、待って。いいの、大丈夫。……ちょっと毒されてた自分を自覚しただけだから」
「は、はあ……」
苦々し気な表情でシドは独り言のように呟いた。
どうしてかは一生言いたくないが、なんとなく調子が出ないのである。
「まあ、そんな事はどうでもいいんだけど!」
多少強引にではあったが、話題を転換することにする。
声に空元気を注入して、萎えていた足をたたき起こす。
勢い込んで立ち上がったシドに、ほっとするアイルネ。
自分は飽くまでグネグネしていただけで、話しかけてきたのはあちらだ。
本題に触れないまま、わけの分からないことで長いこと落ち込まれるのも困るのである。
「そ、そうですね」
お互い脛に傷ある身としては、これ以上藪をつつく気にもなれなかった。
というか、この人は本当になにしに来たんだろう……。
「あたしは」
そんなアイルネの内心に答えたわけではないだろうが、シドが口を開いた。
「あなたを手伝いに来たのよ」
アイルネの顔色が変わる。
でも、ほとんど仕事は終わっちゃたし……なんて、すっとぼけたりはしない。
目の前の男は、先ほど修復の出来を口にしたばかりだ。
「……どういう事でしょうか?」
暗い声に、シドはむしろ嬉しそうな顔をした。
「そう怖い表情しないの。あの甘えたな坊ちゃんに頼まれたのよ」
「お坊ちゃまに?」
甘えたな坊ちゃんでピンとくる辺りどうかと思うが、シドの口から思わぬ人物が登場した事にアイルネの顔から呆けたように力が抜ける。
「ちょっと知り合いになってね。あなたの事情は聞いてるわ」
シドはわざとそんな言い回しをした。
アイルネが再び表情に警戒を現す。
「魔族なのに……って思ってるんでしょうけど、まあ、こっちにも色々あるのよ」
ぱちりと片目を瞑られる。
それだけで信用できるものでもないが、そう言えば、と以前の教育係の言葉を思い出した。
『なんと言いますか、魔族の中には恐れ多くも魔王陛下の意に反する者おりますので』
あの時は、人間である自分が原因だと思ったし、事実そういった面もあったのだろうが、どうやら言葉通りでもあったらしい。
魔王というだけあって敵も多いのだろう。
アイルネ自身がその内の一人だと考えれば、カイルの護衛には監視の意味もあったのかもしれない。
そこでふと違和感を覚えたが、正体が知れない内に、シドの言葉によって遮られる。
「それじゃあ、時間もないし、終わらせちゃいましょうか」
まるで、庭仕事に行くような調子で気軽に言って、振り返るシド。
返答を待たずに歩き始め、有無を言わせぬように足音を響かせる。
決定的な言葉はなくても、それが何を意味するかは分かった。
――魔王を殺す。
甘やかな響きを持った言葉が、ようやく現実味を帯びた。
それを理解した瞬間、胸の内で何かが定まる音がした。
妙に心が静まり、それがなぜだか酷く可笑しかった。
(……今日カイルさんたちと過ごしたのは、無駄だったかな)
密かに苦笑して、そう思った。
アイルネは顔を上げる。
一歩踏み出し、シドの背中を追う。
「すみません」
アイルネはシドに声をかけた。
振り返るシド。
廊下の中ほど、数歩の距離で視線があう。
「なに? 早く行かないと面倒なのが出てきちゃうわよ」
面倒なの筆頭の髪の長い綺麗な魔族を思い、フラッシュバック気味に頭を抱えたくなるのを何とか堪えて、アイルネは瞳に力を込める。
あるいは、このまま黙っていても良いのだろうが、それはなにかダメな気がした。
面倒具合で言えば、彼女も相当である。
すみませんともう一度口にして、頭を下げる。
「だから何が……」
「私、魔王様を殺したくないみたいです」
キッパリと言った。
ここの所ずっと難しい顔をしていたのが嘘のように、晴れ晴れとした表情。
シドは何を言われたのか分からないような顔で、きょとんとアイルネを見つめていた。
そんな視線を正面から受け止めながら、アイルネは自分の気持を確かめるように胸に手を当てた。
そうして、もう一度頷く。
今日半日、自分が魔王を殺せるのかどうか、確かめようとしたが、そこで答えはでなかった。
私は優柔不断だと思う。
結局、こうして決断を迫られなければ、自分の気持ちひとつ決めかねていたのだ。
その事を実は少しだけ意外に思いながらも、それは不思議と嫌な驚きではなかった。
アイルネはシドの方を見る。
この結論を得られたのは、間違いなくこの眼の前の人物のお陰だ。
だから、一言お礼を言いたい。
「ありがとうございます」
呆然とするシドに対して、アイルネは本当にありがたそうにそう言う。
更に口を開いた。
「でも、殺すのは嫌です。申し訳ありません。それから、本当にありがとうございました」
この度は読んで頂いてありがとうございます。
次話では、今回分かりにくかったアイルネの心の動きなんかを、もう少し詳しくお話できると思います。
という訳で、次回更新で最終回です!
四十話越えないと思ってたけど、多分越えます!すみません!w
それではまた!(逃げるように)