第三十四話 教育係、右拳で顔の中心を殴られる
やけに印象に残っているのはその口元。
アレはいつの事だったろうかと、アイルネは幼い頃の記憶を探る。
顔の下半分から胸元だけが見える女性。
腕の悪い写真家から、不本意に切り取られた一枚のような光景。
その相手がマルゴットだったことまでは確信が持てるものの、あれは何時何時のどこだったかと考えると、記憶は途端に曖昧になる。
相手がマルゴットである以上、少なくともクライン家にいた頃だということは分かっている。
なんとなく、マルゴットに引き取られてから、そう時が経っていない頃ではないかとも思うのだが、自信はなかった。
なにせ、あの頃の自分ときたらいつも下ばかり向いているような子供だったから。
ならば、印象に残っているマルゴットの姿も、記憶を元に後から作られた映像なのかもしれない。
形の良い唇が開いた。
わずかに赤みがかっていて、小さく白い歯がこぼれた。
私は(・・)、なんと問いかけただろう。
あの頃の私はずっと塞ぎ込んでいて、周りの人達にはそれが許せなかった。
「せっかく助かった命を大切にしなさい」
「ご両親が、君がそうして下を向いていることを、本当に望んでいるとでも思うのか?」
「きっと、お父さんとお母さんは君が全てを忘れて、前を向くことを望んでいるよ」
今なら分かる。
それがとても優しい想いだったことが。
だけど、当時の私にはその事がよく分かっていなかった。
…………だから尋ねたんだ。
ただ一人、一度も私にそんな事を言わなかったマルゴットに。
「本当にお父さんとお母さんは、私が全部忘れてしまうことを望んでるんでしょうか?」
マルゴットは、一度きゅっと唇を引き締めると、悲しそうに、わからない、と首を横に振った。
「……死んでしまった人が何を望んでいるかは、生きている人間が決めるしかないんだよ」
彼女は優しい声で、私が安易に答えを得ることを許さなかった。
「レラリー達が何を望んでいるか。ゆっくりでいいから、それを考えてみるといい」
そうして、私はようやく顔を上げた。
答えはまだ出ていない。
だから、悪夢を見た朝は、決まってアイルネを少しだけ憂鬱な気持ちにさせた。
アイルネの旅は、そのまま復讐の旅であり、答えを探す旅でもある。
それらの手がかりとして、両親の仇を探し、各地を転々としていた。
メイドという仕事を選んだのは、それ以外、特技といって他に思いつくものもなかったからだ。
マルゴットは、両親を殺したのは誰だか分からないと言った。
あの日、アイルネたちを載せて出かけたはずの馬車馬が、たった一頭だけで街に戻ってきたと知らされて彼女は異変に気がついたらしい。
兵を連れて慌てて駆けつけたものの、全ては終わった後だった。
犯人の姿はなく、遺体の中に両親の姿を見つけ、呆然としていた所でアイルネの姿がないことに気がついた。
一縷の希望が湧くのと同時に、もしや攫われたかとも思ったが、結局、馬車の中から彼女を発見した。
だから、両親を殺したのが誰かは分からない、と。
アイルネは、ただ黙って、頷くこともしなかった。
その後、ごたごたと雑多なことが、いくつもアイルネの周りを通りすぎていった。
それらをほとんど無関心に過ごし、近くに親戚もいなかった彼女は、結局マルゴットに引き取られることになる。
下を向くのをやめたアイルネは、クライン家のメイドとして働き始めた。
マルゴットからは気にしなくて良いと言われていたが、住まわせてもらっている以上は何か力にならなければと思った。
これからはクライン家の一員だとまで言われたものの、それと、それに甘えることとの間には、ナイフ一滑り分以上の乖離があるようにアイルネには感じられた。
頑ななアイルネの態度に、ようやくこれが彼女の性格の問題だと気がついたマルゴットは、渋々それに了承し、アイルネがメイドとして働くことを許してくれた。
アイルネは喜んだ。
正直な所、塞ぎこむということをしなくなると、どうにも暇だったのである。
ただ、そうなった以上、暇つぶしというには、マルゴットは厳しかった。
一切の妥協は許さず、仕事中は他のメイドと変らずに接することを徹底した。
それはアイルネも望む所で、中々体育会系の関係をこの義理の親子は築いていった。
そうして、周囲の支えに助けられながら、彼女は日常と笑顔を取り戻していく。
決着のつかない個人的な感情の部分が、だからこそ歪んでいったのは、皮肉としか言いようがない。
マルゴットの家族や屋敷の使用人たち、新しく出会う街の人々は、優しい人達ばかりだった。
あれほど耳についた言葉の数々も、不思議と気にならなくなっていた。
そういう出会いがある度に、彼女の想いは徐々に一つに定まっていく。
"『人間』は優しい。こんなに優しい『人』たちが、両親を殺したりするわけがない"
それは大いなる誤解だった。
ただ、犯人が見つからないこともあり、それを正すだけの材料が何処にもなかった。
おそらく盗賊かなにかの仕業だろうと言われていても、犯人は結局捕まること無く、またその正体も不明のまま。
それでもこの頃から、アイルネの中に、はっきりと魔族を憎む心が芽生え始めていた事だけは確かだった。
四日目の朝。
見覚えのある光景は、彼の所有物である魔王城のものだった。
その大広間で一人、彼は首をかしげている。
(にゃ~、皆……何処に行ったのかな?)
誰もいない大広間は、うらびれていてやけに寂しく見える。
「あ」
心細く辺りを見回していると、広間の入口辺りで、ようやく人影を見つけた。
表情を華やがせながら、おーい、と駆け寄るものの、その人物は後ろを向いていて、こちらを振り返る気配もない。
それでも構わずに声をかけ続けながら、魔王陛下は彼の後ろに立った。
光沢のある綺羅びやかな鎧を身につけ、立派な体躯をしたその人物に、魔王陛下の期待がいや増した。
「ねえねえ、君誰? もしかして勇者さん?」
ワクワクした眼で尋ねると、その人物が小さくコクリと頷いたのが分かった。
「にゃ! 本当っ!?」
再び、コクリ。
「ねえねえねえ、こっち向いて? どうしてなにも言わないの?」
いかにも落ち着かないといった様子で、その人物の体を揺さぶっていると、おどろおどろしい声が返ってくる。
「理由を知りたい……?」
「うんうん」
「そう……それはね……」
体から手を離して、律儀に頷く魔王陛下の前で、その人物はゆっくりと振り返る。
「今からお小言を言うつもりだったからですよ~!」
「にゃ"ぁーー!!!」
魔王陛下は叫び声をあげていた。
振り返ったのは、唇がカサカサの青い顔をした教育係だった。
いつの間にかやけに小さな鎧を身に纏い、カカシのような姿でこちらにゆらりゆらり近づいてくる。
全身を総毛立たせながら、一歩後退しようとする魔王陛下。
が、何故か足が動かない。
「ひぃ…」
思わず悲鳴が溢れた。
足元を見ると、そこにはもう一人青ざめた教育係が足にしがみついていた。
「言葉遣い~」
魔王の背中をぞわぞわ~っと悪寒が走ったかと思うや、ドンと何かが腰にぶつかってきた。
嫌な予感がしつつそっとそちらに目をやる。
案の定、そこには三人目の教育係がいて、視線が合うとニタリとこちらを見て笑った。
「ご自分を呼ばれる時は余か俺様と仰ってください~」
「きゃああああああああ~~~!」
絶叫。
まるでその声を聞きつけたように、部屋中から教育係の恨みがましい声が響き始める。
「はい、そこで相手を嘲る笑いを~」
「違います~」
「それは日々の暮らしの中で小さな幸せを見つけた時の高笑いです~」
声だけでなく、気がつけば体中に教育係が纏わりついていた。
完全に動けなくなった視界の中で、カカシの教育係が、相変わらずゆらゆらと近づいてきていた。
不気味な笑顔を浮かべながら、折れてるのかな? 首が変な方向に傾いている。
一歩歩くたびにサクランボのように首が揺れ、唇もカサカサだった。
やがて、不自然に上半身がねじれて、ぴんと伸ばされた腕で肩を掴まれる。
木の虚のような口から、音が溢れた。
「そろそろ起きて下さい陛下~」
「陛下、陛下。そろそろお目覚めになってください」
目を覚ますと、こちらを覗き込む教育係の顔があった。
一瞬、まだ夢の続きのような心地がして、泣きそうになりながら(ちょっと泣いた)はね起きた。
「どうなさったのですか? 陛下!」
そんな魔王の態度に、目の前の顔が不安気に歪んだ。
体調を心配して、直ぐにでも医者を呼びかねない勢いで顔を近づけてくる教育係。
魔王陛下は、ベタベタと全身を触られながら、彼をじっと観察する。
……いつもの教育係だった。
有効に活用されたことのない整った美貌は血色も良く、艶の戻った髪には、朝日を浴びて無駄にエンジェルリングが輝いていた。
青白い顔もしてないし、むやみに沢山いたりもしない。
見慣れた礼服姿にホッと安心すると、不安と入れ替わるように、直ぐに腹が立ってきた。
涙目のまま、ぷくーっとホッペタをふくらませる。
大丈夫ですか? と心配そうに目を合わせてくる教育係に、魔王陛下は右拳を振り上げあそばれた。
「鎧が小さすぎ!」
「どうしてそれぐはっ」
この日の早朝、魔王陛下の寝所では、顔の中心を殴られる教育係の姿が見られたという。
この度は読んで頂いてありがとうございました。
魔王陛下が久しぶりに出てまいりましました。
ねじ込みました。
正直、どう扱っていいかが分からないですw