第三十三話 マルゴットの体温
すみません。
長くて暗い話になってしまいました。
アイルネの父親は、街で唯一の医者だった。
人の命を救うことを人生の命題としているような男で、いつでも器具の入った医療カバンを持ち、口は悪かったが街の人間からは慕われていた。
母親の方も類友で、父親よりは口の聞き方に常識があったが、夫婦よりも兄妹といった方がしっくり来るほど二人の生き方はよく似ていた。
患者は様々だった。
生まれや立場、貧富に拘らず診ていたから、診療代が無料なんて事もしばしばで、その事を気にするような患者を父親は「バカタレ」と逆に叱りつけた。
そんな両親が殺されたのは、彼女が十歳になったばかりの頃である。
その日、アイルネの家族は、三人連れ立って隣町を訪れていた。
隣町に住む、昔から親交のあった貴族からの呼び出しで、風邪を引いたから、見舞いがてら久しぶりに顔を見せろという事だった。
招かれたのはアイルネ達家族全員で、さすがに自分たち二人共がいなくなるのは不味いだろうと父親は残ろうとしたのだが、準備の良いことにその貴族は使者と一緒に代わりの医者を寄越していた。
そこまでされてはもはや選択肢はない。
父親は軽く悪態をつきながらも、隣町へ行くことを決めた。
「なっさけねえなぁ、マルゴット」
病床を訪れての父親の第一声がこれであった。
貴族に向かってそんな口をきく父親に、アイルネは内心ハラハラしつつ、ベッドに横になった人物をうかがい見た。
ベッドの主は、父親の言葉にさして怒りを見せるでもなく、ゆったりとした動作で上体を起こしていた。
上気した頬、潤んでキラキラ光る瞳は発熱に依るものだろうが、それを差し引いて見たとしても整った顔立ちの、綺麗な女の人だった。
ほっとすると同時に、素敵な女性だなぁと目を奪われる。
これが、アイルネとマルゴット・クラインの出会いだった。
「貴方は、病を憎むあまり時折人を人とも思わない発言をする。私だって風邪くらい引く」
マルゴットはさも不服そうにそう言ったが、顔には笑みがあり、どこか懐かしむような雰囲気があった。
「ばーか、そんなの当たり前だろーが。俺が言ってるのは、風邪くらいで弱気になりやがって、うちに使いなんか出した事を言ってんだよ」
そう言って、ぱちんとデコピンで額を叩く。
「あいたっ」
「あなた」
「へいへい」
さすがに母親が嗜めて、そのままマルゴットの方に笑顔を向ける。
「……お久しぶりマルゴット」
「お久しぶりレラリー」
額を撫でながら、マルゴットも笑顔を返す。
何故か、二人の視線の間で、バチバチと火花が飛ぶのが見えた気がするアイルネ。
よく見ればいつものお母さんの笑顔じゃない……!
お互い笑い顔のまま、見えない戦いを繰り広げる二人から、ジリジリと後退して父親の方に近寄った。
クイクイと上着の裾を引っ張り、小声で話しかける。
「ねえ、お父さん。お母さんとマルゴットさんって仲が悪いの?」
所在無げに部屋の中を見ていた父親は、足元にいるアイルネに屈んで身長を合わせると、ニヤリといやらしい笑顔を浮かべた。
「……ここだけの話……あの二人、昔俺のことを取り合ってたんだぜ」
それがあんまり嬉しそうに言うので、アイルネはこの人って馬鹿なのかなと思ってしまう。
「馬鹿、最低。そんな嬉しそうに言ったらお母さんが可哀想でしょ」
「えー、そーか? だってモテる父親とモテない父親だったら、お前どっちが嬉しーよ?」
「ちゃんとした父親」
「お父さんちゃんとしてない?」
アイルネが躊躇うこと無く頷くと、首が取れそうな勢いで父親が項垂れた。
「アイルネ」
振り返ると、母親が笑顔で手招きしていた。
精神的どん底にいるちゃんとしてない父親は放っておいて、母親へと駆け寄っていく。
「あまり私に近寄ると風邪が感染るかもしれない」
「分かってるわよ。ほら、マルゴットさんにご挨拶して」
そう言って、マルゴットから少し離れた所で背中を押された。
そこには、ついさっき迄の殺伐とした空気はなく、二人共仲良さげに笑い合っている。
二人の間で、何らかの休戦協定がなされたことを敏感に察知したアイルネは、素直にペコリと頭を下げた。
「こんにちわ、初めましてマルゴットさん。アイルネと言います」
「こんにちわアイルネ。来てくれてありがとう。こんな格好ですまないね」
羽織っていたカーディガンを整え、申し訳なさそうに謝るマルゴット。
(ほんとうに綺麗な人だなぁ)
ボウっと見つめてしまっていたアイルネは慌てて首を振った。
「い、いいえ、お体は大丈夫ですか?」
「うん。咳も止まったし熱も下がってきて大分調子も良いよ」
「良かった」
アイルネがほっとして笑うと、一瞬驚いたような顔になった後、くつくつと笑い始めた。
可笑しそうに片目をつむったまま、母親の方へと顔を向ける。
「本当に貴方達の子か?」
「そうだけど」
「凄く可愛らしい」
「……どういう意味かな?」
母親の表情が冷たくなるのを見て、ますます可笑しそうに笑うマルゴット。
アイルネは凄く可愛いと言われて、一人上機嫌で頬を染めた。
するすると着ていた上着を脱ぐと、新雪のように白く滑らかな細い肩が顕になった。
まるで抵抗を感じさせずに、上着はそのまま背中の中ほどまで落ちていく。
後ろを向いているマルゴットは、腕を前で組んで胸元を隠し、片手で髪を前に回してしっとりと汗ばんだ背中を晒した。
父親が大きな手をそこに当て、撫でるように動かし始める。
「……家庭崩壊の危機だ」
「違うから」
隣にいる母親から、頭頂にズビシとチョップを落とされる。
痛む頭をさすりながらよくよく眼を凝らせば、父親は反対の手で、背中に当てた手の甲をトントン叩いていた。
「ああして体の中の音を確かめてるの」
正式には間接打診法という。
「よし、もう服着ていーぞ」
「……うん」
どこか惚けたような表情で服を着るマルゴット。
熱が上がっているのかもしれない。
その理由を思えば、恐ろしくて母親の顔が見れないアイルネだったが、意外にも母親は平板な表情をしてそんな光景を見つめていた。
手こずるマルゴットにそっと近寄り、着替えを手伝ってやると、水差しから水を少量コップに移して、それを口にさせた。
「どこか辛い所はない?」
コクンと無言で頷くマルゴットを横にならせ、上から毛布をかけてやる。
「風邪だな。治りかけだが、死にたくなきゃ大人しくしてろ」
強盗のような文句を口にする父親に、マルゴットは笑いながら首肯した。
「ありがとう、そうする」
アイルネは、そんな両親の姿を食い入る様に見つめていた。
子供の頃から診療所の手伝いはしていた。
勿論、仕事の内容は雑用の更に手伝いが主で、だから、両親が診察している所を見たのは初めてに近かった。
(格好良い……)
素直にそう思う。
いつもとは違う二人の姿に、感動に似たものを覚えていた。
次いで、下世話な想像をしていた自分が恥ずかしくなってくる。
「それで」
アイルネが我が身に恥じ入っていると、マルゴットが口を開いた。
お父さんもちゃんとしているかも、しれない……かも、と複雑な思いを抱えたアイルネはそこで顔を上げる。
「今日は泊まっていってくれるんだろう?」
宿泊の誘いだった。
勿論家族全員にあててだ。
父親は首を振った。
「いや、残してきた患者もいるしな。ご招待はまた次に受けるとして今日は帰る」
「そうか。残念だ」
マルゴットも強くは引き止めなかった。
「それでは、馬車を用意させよう」
そう言って、サイドテーブルにおいてあったベルを鳴らす。
隣町といっても歩いて丸一日掛かる距離である。
まして、子供の足ともなれば更にもう半日余計に歩かねばならない。
直ぐにやって来たメイドに馬車の手配を頼むと、マルゴットは母親に向かって不敵な笑顔を見せた。
「本当に残念。一晩時間があれば、私もちょっとは自信があったんだ」
「憎まれ口もそんな格好だとただ可愛いだけよマルゴット」
そう言って、横になったままのマルゴットを母親は抱きしめる。
「早く良くなりなさいな」
「うん」
親しげに抱きあう二人を指さして、「な、本当だろ?」と自慢気に自分を見てくる父親。
「アイルネ」
やっぱりこいつちゃんとしてなかった、と早くも幻滅入ったアイルネは、声をかけたマルゴットの方に歩いて行く。
「今日は顔を見れて嬉しかったよ。今度はみんなで一緒に街を回ろう。案内させて欲しい」
「は、はい。私も会えて嬉しかったです」
緊張したようにそう答えるアイルネを、母親が優しく撫でていた。
「それじゃあ、またね」
「はい」
その約束が果たされないことを知らないまま、三人はクライン家を後にした。
異変が起こったのは、帰途も半ばに差し掛かった時だった。
突然激しく馬が嘶いたかと思うと、馬車が、車輪が転がる音と共に進む足を止めた。
馬車の外からは誰かが言い争うような声が聞こえてきていて、同時に何か鈍い音が響いていた。
アイルネはその時、母親に抱きかかえられるようにして眠っていた。
今日一日の疲れが出たのだろう、馬車に揺られて十分としない内に瞼が重くなっていき彼女は眠りについた。
「……お……達……でも逃……」
アイルネが目を覚ましたのは、自分を抱きしめる母親の腕に力が篭ったのと、父親の深刻そうな声が聞こえてきたからだった。
「……どうしたの?」
まだ眠りに未練のある眼をこすりながら、アイルネは父親に尋ねた。
「アイルネ」
自分の名前を呼ぶ父親の顔を見て、一瞬で目が覚めた。
初めて、なにか良くないことが起こっていることに気がついた。
「な、何があったの?」
アイルネは辺りを見回すが、馬車の窓はカーテンが降ろされていて、外の様子はおろか中の状態すら暗くて正しく窺うことができない。
「良いか、今からお前がするべきことだけを言う。よく聞いてちゃんと守れ、良いな?」
困惑しながらも頷こうとした時、強い力で馬車が揺れた。
「きゃあー!」
思わず叫びそうになったアイルネの口を抑えて、母親が悲鳴を上げた。
それを見て、父親が諦めたような顔で、敷かれた絨毯をめくる。
床が剥き出しになる。
木で組まれた床が見えたが、目的は座席の下部分だった。
父親が、同じく木板で出来たその座席の下の部分を強引に取り外すと、座席の下にポッカリと暗いスペースが出来た。
「お前はここに隠れるんだ。目を瞑って、耳を塞いでろ。多少狭いが我慢して、出来るだけ静かに、何があってもここから出てくるな。分かったな?」
こくこく頷くと、父親は一瞬ほっとしたような顔をして、母親ごと彼女を抱きしめた。
「いいか、忘れるな……モテる父親は自慢できr――いてえっ!」
どうやら母親に頭をド突かれたらしい父親は、体を離すと、にっこりと笑って愛してると言った。
母親はアイルネを抱きしめていた腕に一瞬力をこめてから体を離すと、頬にキスして愛してると言った。
アイルネは棺桶のように狭い椅子の下に入りつつ、自分はもう二度とこの二人に会えないんだと思いながら、私も愛してると言った。
胸がつぶれるほど悲しかったが、彼女は泣くのを必死で堪える。
父親との約束を守るつもりだった。
座席の下に入ると、父親が木板で入り口を塞いだ。
絨毯が元に戻され、僅かに入り込んでいた光が閉じて暗闇が訪れる。
アイルネは暗闇の中、自分のやるべきことを思い出す。
そうして、出来るだけ静かに、耳を塞いで――目を瞑った。
次に気がついた時、アイルネはマルゴットに抱きしめられていた。
「アイルネ!」
思い出せるのは、誰かが自分を暗闇から出した事。
その時に開いていた扉から、微かに見えた赤い地面と、動かなくなった父親と母親の姿。
それから、必死で自分の名前を呼び、泣きながら自分を抱きしめるマルゴットの、少しだけ熱い体温だけだった。
読んでいただいて、ありがとうございます。