第二十三話 魔王城へ続く空の下
大きなお腹を触らせながら、彼女は優しく囁いた。
「アレックス、ここにあなたの弟か妹がいるのよ。……そう。ほら……ね? ……うん。ふふ、優しいお兄ちゃんになってあげてね」
言われて、幼いアレックスは愕然とした。
手のひらに触れた部分、母親のお腹越しに、まだ肺呼吸も出来ていないはずの弟だか妹だかが、自分のことをやたらと蹴ってくることも気になったが、彼女の言葉はそれ以上に彼に衝撃を与えていた。
――優しいお兄ちゃんになってあげてね。
自分はそもそも魔族だったはずだ、と彼は思う。
それが、気がつけば、縁もゆかりもない戦場跡で拾われ、名を与えられ、人間の両親が出来、顔見知りのいない土地で、人間の服を着て、知らない家に住んでいる。
誰の所為かといえば、ぼーっとしていた自分以外にないのだが、それでもようやく今の状況に慣れてきていたところだったのに、この上優しいお兄ちゃんになれと、母親は言う。
えらい難題を押し付けられた気分だった。
普通の人間のこともよく分からないのに……そういう思いはあったが、同時に、そういう事なら仕方ない、とも思った。
こうして、アレックスの手探りの優しいお兄ちゃんへの道は始まった。
間も無く妹が生まれ、フィナと名付けられた。
フィナはベビーベッドの上で一日中横になって過ごし、時折、白くて酸っぱい匂いのするものを口からケロッと吐く以外は、寝てるか泣いてるかのどちらかだった。
商人だった両親はいろいろな用事で外出する事が多く、フィナの面倒は自然アレックスが見ることになった。勿論、お手伝いさんなどはいたが。
優しいお兄ちゃんの手がかりは少なかったものの、近所に住む別の家の兄弟たちの見よう見まねで接している内に、この、初めて出来た人間の妹の事が色々と分かって来た。
泣いてる時は大抵お腹が空いてるかオシメが汚れているかのどっちかだという事、それ以外の時は抱っこすると安心して泣きやむ事、食後背中をトントンしてやるとゲップをして白くて酸っぱいものをケロッと吐かなくなる事、泣き止んだ後の瞳がキラキラしてて綺麗な事。
やがて歩けるようになったフィナを連れて散歩に出ると、近所の奥様方から微笑まし気な視線と共に「仲の良い兄妹ね」と言われるようになった。
優しいお兄ちゃんには程遠いと、アレックスは肩を落とした。
その頃になると、フィナはアレックスにベッタリのお兄ちゃん子になっていた。
が、これは無理からぬ事だった。
忙しい両親の代わりに、フィナの寂しい気持ちを、全てこの不器用な魔族が埋めていたのだ。
母親の言葉は、本人が思っているよりもずっと、彼の潜在意識の深いところに根付いてしまっていた。
その根は広がりこそすれ、枯れることは決してなく、更に、時間は経過する。
ベッドで眠っていたアレックスは、扉が開く気配と、廊下から漏れ入った光に重たい瞼を瞬かせた。
上半身を起こして部屋の入口を見ると、もはや見慣れた小さなシルエットが、枕を大事そうに両手で抱えて立ち尽くしている。
「……どうした?」
深夜であった為、彼は声を潜めてその影に語りかけた。
「……おにいちゃん……こわいのでた……」
少しの沈黙の後、舌足らずな、明らかな涙声が返ってくる。
怖い夢でも見たのだろう、眠い目をこすりながら、アレックスは部屋の入口まで迎えに行ってやる。
傍によれば、涙と鼻水で感心するほどぶちゃいくな顔になったフィナがいた。
屈んで両腕を開くと、すぐさま首っ玉に抱きつかれる。
「……今日はどんなのだった?」
「しらん……5」
「知らん、って……多いな」
今日は数で攻めてきたようだ。
顔を押し付けてくるフィナの背中を叩いてやりながら、アレックスは諭すような声を出す。
「何も心配いらない。どれだけ出てこようがお兄ちゃんは負けないからな」
事実だった。
そりゃ今でこそ、人間の子供以上優しいお兄ちゃん未満というよく分からないポジションにいたが、これでも根っこは魔族である。
たかだか人間の見る悪夢ぐらいに負けていては、とてもやっていけないのだ。
自信を持って応えてやると、フィナはおずおずと顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんと」
フィナの鼻から自分の頬に掛かった粘っこい橋を解体しながら、止めにちんと鼻を噛ませたハンカチをポケットに入れて、アレックスは妹の頭を撫でた。
ポンポンと軽く叩いてやって、自分の背中に両手を隠した。
「よし……フィナ、良いものをやる」
まだ不安そうな顔をしている妹の前に、握った両手をつきだした。
「なに? ……へいわ?」
「大きすぎる。手の中に入らないだろ」
冷静にツッコミつつ、両手を軽く振ってみせた。
「……どーっちだ?」
途端に、フィナの顔が輝いた。
しばらくうんうん考えた末、右手に手を伸ばす。
指先が触れかけた寸前、すっと手が引かれた。
ビックリしたようなフィナに、アレックスは首を横に振る。
「フィナ、よく考えて。……どーっちだ?」
もう一度、今度は左手をやや前気味に、両手を出す。
どーっちだ、も、なにもない。
「わかった」
首をかしげて考える素振りを見せ、フィナ。
「フィナ、良いか、よく考えろ」
すぐさま右手に踊りかかってきたフィナを抑えつつ、アレックス。
しばらく、異様に右手に執着を見せるフィナを抑えていたが、やがて、アレックスはため息を付いた。
一度体を離して、背中にもう一度両手を隠し、中身を入れ替える。
「……ゆびわだ!」
そうして、ようやくフィナはその中身を手に入れた。
あるいは、手に入れさせることに、アレックスは成功した。
それは銀の指輪だった。
装飾もなく、輝きはくすみ、明らかに安物とわかるシロモノだったが、子供のお小遣いで買うには高い買い物だったろう。
「銀には魔除けの効果があると言われてる」
それを魔族である自分が所持できている事に疑問は感じるものの、この場合は背景と説得力が大事だった。
物質的にフィナにかかる実害は、全て自分が叩き潰す気でいるアレックスである。
夜一人で寝られないフィナの為に、精神面での気休めとして先日買っておいた物だった。
「ほー」と感心したような声を上げ、人差し指にはめてみる。
ブカブカのそれを見て面白そうに笑声をあげた。
「これで、一人でも安心して寝られる」
「うん」
暗闇の中でも輝くような笑顔で、まだ居心地が悪そうな指輪をフィナは眺めた。
「おにいちゃん」
いつの間にか旅立っていた枕をピックアップし、フィナは兄の方へと顔を向けた。
「いっしょにねていい?」
「……何故だ」
いつものようにベッドの半分を占領されつつ、アレックスが"優しいお兄ちゃんへの道の険しさ"を実感したかどうかは、誰にも分からない。
(……なんか、変なこと思い出しちゃった)
純白のドレスに身を包んだ少女は、クスリと笑みをこぼし、首元に手を伸ばした。
既に慣になってしまっているその仕草で、小さな輪を指先で弄ぶ。
かつて指輪だったそれは、体の成長と共に本来の居場所を失い、今はネックレスとしての役目を果たしていた。
「フィナ、準備できた? ……やだ、すっごい綺麗」
「ありがと」
感極まったように口元を抑える付き添い役の友人に笑顔を返して、フィナは首を傾げる。
「もう時間?」
「そろそろ。……いよいよね~!」
自分より余程気合の入っているような友人を苦笑で見送りつつ、フィナは近くにあった椅子に腰掛けた。
静かに目を瞑り、銀色のお守りをくれた人の事を思う。
(お兄ちゃん……どうか、無事に帰ってきてね)
その人は、今、聖剣に選ばれた勇者と共に、魔王城へと続く空の下にいる筈である。
間が空いてしまってすみません(土下座)
読んでくださって、本当にありがとうございます。
今回出てきた『フィナ』が時々『フィノ』になっているかも知れませんが、別のキャラと言うわけではないので、ご注意ください。
一応「誰だこれ、誰だこれ……」って言いながら修正したんですが、見落としがあったら直しますのでそっと一言いただけるとありがたいでごわす。
ではでは。




