第十五話 単純な楽しみ
木立の中を風は走っていた。
葉叢を枝ごとしならせ、高く低く。
右に左に。
疾く、疾く。
やがて、風は森を抜けて、開けた場所へと出た。
そこには小さな湖があり、岸には桟橋とボートがあった。
森から続く道は、狭く二股に分かれ、片方はそちらへ、もう片方は湖の畔に建つ屋敷へと続いている。
ちょうどその分岐路で、風は進路上に立っていた何かにぶつかった。
衝撃で幾筋かに分かたれる。
――ビュオオオォォゥ……。
抗議するように一鳴きして風は去っていった。
湖に、対岸に向けて波頭が立っていく。
そんな様子を見送り、分岐路に立っていた老齢の魔族の男は、口唇に微笑を浮かべた。
歩みを再開し、屋敷の方へと分かれ道を曲がる。
鎧を纏った巨大な体を揺らしながら、屋敷の玄関前へ立った。
躊躇うことなく大木のような腕で扉を開き、中へと入る。
白髪と皺の深い顔を乗せた太い首を巡らせ、家内に変わりがない事を悟ると、すう~っと体が膨らむほど息を吸い込んだ。
「帰ったぞォー!」
建物全体が震えるような大声でそう言って、男は耳を澄ませた。
少しの後、階上からバタバタと慌てる足音が聞こえてきて、ひょっこりと小さな体が踊り場に現れた。
「お祖父様!」
嬉しそうに顔を輝かせた少年は、逸る気持ちを慎重に抑えるような足取りで、階段を降りてくる。
一段一段足元を見ながら。
そんな様子を見て、老魔族はつと視線を上げた。
少年は最後の一段を飛び降りると、老魔族の足元へと駆け寄って来た。
「おかえりなさい! お祖父様!」
「……ふむ、これは不思議な。声はすれど姿が見えん……」
白い眉の上でわざとらしく手で庇を作り、あたりをきょろきょろと見回す。
「こちら、こちらでございます! お祖父様!」
両手を広げて、足元で必死にぴょんぴょん飛び跳ねる小さな体。
跳ねるたびに真珠色のおかっぱ頭が小さく広がる。
それ以上やると、あ、これ泣くね。 と言う絶妙のタイミングで、老魔族は"目ざとく"少年を見つけた。
「おおお! こんな所におったか!」
「はい! こんな所におりました!」
視線を下げると若干涙目のほっとしたような表情に出会った。ほんの少し手遅れだったらしい。
それにしても、出掛ける度に毎回やってるネタなのに、こうして毎回きっちり騙されてくれるのはどうなのだろう。
ちょっとばかり将来が心配にならないではないが、そんな所も含めて愛おしかったりするものだから、"お祖父ちゃん"というのは救い難い存在らしい。
そんな風に思いながら、老魔族は大きな手で少年の滲んだ目尻を拭ってやった。
黙ってされるがままになっている小さな体を両脇から抱え上げる。
「どれ、わしの小さなお星様の顔をよく見せてくれ」
「はい!」
良い返事をして、少年はゆるんだ表情をおすまし顔に引き締めた。
そうすると、菫色の瞳が賢者のような理性的な光を宿す。
「ほう、相変わらず、良い男ぶりだ!」
「きゃーーー」
そのままぐるぐると体を回転させると、少年は途端に表情を崩して嬉しそうな悲鳴を上げた。
「ほれスピードアップだ」
「うきゃーーー」
そう言って回転の速度を早める。
常軌を逸した高速回転に床が悲鳴をあげだした時、あまりの回転の速さに円筒状に見え始めた二人に声がかかった。
「ふふ……その辺りになさってください。興奮して夜眠れなくなってしまいますわ」
「お母様!」
声の主は少年の母親だった。
少年とよく似た面立ちと、真珠色の長い髪。
瞳の色だけは似ず、只今の空のような深い蒼色をしている。
階段の下で柔和に笑うその姿を確認して、老魔族は回転を止めて少年を解放してやる。
「お母様! お祖父様が帰って来られました!」
「ええ、そうね」
まるで、台風にでもあったかのように、おでこ丸出しのボサボサ頭で駆け寄ってきた少年の髪を直してやって母親は老魔族に向き直った。
「おかえりなさいお義父様」
「うむ。わしの留守中なにか変りなかったか?」
「はい。お義父様こそご無事で何よりでした」
「人間相手にそうそう遅れはとらん。ちょっと撫でてやったら途端に逃げていきおったわ」
「まあ」
口元を手で隠しながら、母親は微笑んだ。
「お祖父様、お祖父様」
ついついと手を引かれて、老魔族は視線を下げる。
「お祖父様は人間と闘ってこられたのですよね」
「うむ」
頷くと、尊敬のまなざしを向けてくる小さな体を抱き上げてやる。
「人間とはどのような生き物なのですか?」
「そうさな」
顎髭を撫でつつ、腕の中に居る少年を見る。
無邪気な瞳の中に、好奇心の萌芽のような煌きがあった。
「まず人間には四十八対の太い牙が生えておる」
「ええええええええええ!」
全然想像と違ったのだろう、その顔いっぱいに驚きが満たされる。
「その牙で、魔族の子供など骨ごとバリバリ食ってしまうのだ」
「ひう、ひぃ……」
怯える少年に老魔族はわざと生真面目な顔を向ける
「厄介なのはその再生力よ。何度たたき折ってやろうとその度に生えてきおる」
「そ、それでは」
震えるような声で少年は続ける。
「まるで鮫ではありませんか」
「鮫も食うぞ」
「ひぃいぃぃぃぃ」
目をつむり、聞きたくないというように顔を背けた。
「お、お茶の準備をしてきますわね」
「うむ」
ふるふると肩を震わせながら、母親がキッチンの方へと消えて行く。
時折くつくつとうめき声のような音をさせるその背中を見送る。
「それに、人間はあまり湯浴みをしない」
「はえ?」
「人間のこんな歌がある。月曜日にお風呂を炊いて、火曜日にお風呂に入る」
「え! なぜ、なぜ月曜日にお風呂に入らないのですか!?」
思いの外食いついてきたが、老魔族は首をかしげて見せる。
「さてな。人間の考えることなどわしには分からん」
「おおお恐ろしゅうございます」
何故かガタガタと震えながらも、少年は顔を上げた。
「で、でも、お祖父様はそんな人間をやっつけてこられたのですよね!」
「……楽勝でな」
ニッカと笑ってみせると、心底ほっとしたような顔になった。
喜色を浮かばせ小さく跳ねながら、体からも力が抜けたのがわかる。
「やっぱりお祖父様は凄いのです!」
鼻息荒く興奮する少年に、老魔族は酷く優しげな笑みを浮かべた。
「凄いだろう。だから、一人でこの森を出てはならんぞ。外にはそんな人間がわんさとおるからな。出るときは必ずわしと一緒だ」
「はい」
ももも、もちろんんですよ、そんなの真っ平御免です、と言わんばかりにこくこく頷く。
そんな様子を見て、老魔族は大きな手でその頭を撫でてやる。
「……お主に孫が出来る頃には、こんな風に語らずに済む世の中が来とればいいな」
「はい? なんですか?」
不思議そうに見上げる表情に、なんでもないと答えてやる。
――それまでは、怯えてるくらいがちょうどいい。
そうなのですか。と素直に納得する少年を見て、老魔族はそんなふうに思うのだった。
「あ、それからな。人は機嫌がいいと鼻から火を噴く」
「き、機嫌が良いのになぜ!? そ、それではまるで竜ではありませんか!」
「竜も食う」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ……」
あと、ちょっと単純に楽しいのだった。
いつも読んでいただいてありがとうございます。
もうちょっと続きますので出来れば最後までお付き合い下さいませませ。
それではー。