風邪で卒業夜会を欠席した公爵令嬢、欠席しているのに「階段から突き落とした」と断罪される
「39.2度ですね」
「……下がりました?」
「上がっております」
「そうですか……」
卒業夜会当日の朝。
アデライド・ローレンス公爵令嬢は、寝台の上で人生最大級の絶望を味わっていた。
昨夜から喉が痛いとは思っていた。少し寒気もした。
だが、まさかよりによって今日とは。
「先生。夕方まで寝ていれば治りませんか?」
「治りません」
「薬を飲めば」
「熱が多少下がる可能性はございます」
「でしたら――」
「夜会には出られません」
先回りされた。
アデライドは枕へ顔を沈めた。
今日は王立学園の卒業式。そして夜には王城で卒業記念夜会が開かれる。
卒業生にとって最後の学園行事であると同時に、王太子エドガーの婚約者であるアデライドにとっては、公的な役目を伴う催しでもあった。
「殿下に叱られるわ」
「39度の熱を出した婚約者を叱る男なら、叱らせておけばよろしいのです」
「先生」
「失礼いたしました」
全く悪びれていない老医師が薬を調合する。
侍女のマリーも同意するように頷いていた。
「お嬢様、昨夜からほとんどお食事も召し上がっておりません。夜会どころではございません」
「でも、卒業夜会よ?」
「来年もう一度卒業なさいますか?」
「嫌よ」
「でしたら諦めてくださいませ」
身も蓋もない。
アデライドは15年間仕えてくれている侍女を恨めしそうに見た。
しかし、その程度でマリーが折れるはずもなかった。
「欠席の連絡は?」
「すでに旦那様より学園と王城へ使者を出しております」
「お父様、仕事が早すぎない?」
「お嬢様が起きる前に済ませておられました」
「私の意思は?」
「39.2度の方に意思決定させるほど、ローレンス公爵家は人材不足ではございません」
「そう……」
何も言い返せない。
アデライドは諦めて薬を飲んだ。
苦い。
「まずいわ」
「効く薬ほど苦いものでございます」
「迷信じゃない?」
「では、お休みくださいませ」
「無視したわね」
掛け布を肩まで掛けられる。
アデライドは小さく息を吐いた。
「殿下にも、ちゃんと伝わるかしら」
「王城の儀典局だけでなく、王太子殿下の執務室にも欠席届の写しを届ける手配になっております」
「そう」
それなら大丈夫だろう。
最近、エドガーとの関係はあまり良くない。
原因は分かっている。
ミリア・ベネット男爵令嬢。
半年前ほどから、エドガーは彼女を頻繁に側へ置くようになった。
相談に乗っているだけだ。
身分の低い者にも分け隔てなく接することこそ王族の務めだ。
そう説明されていたが、婚約者を放置して別の令嬢と2人で庭園を歩くことまで王族の務めなのか、アデライドには分からない。
一度だけ注意した。
すると、
『君は身分を笠に着てミリアを見下しているのか』
と返された。
以来、何も言っていない。
卒業後には婚姻の具体的な日程を決める予定だったが、その話も進んでいなかった。
「……まあ、いいわ」
今日くらいは。
そう思ったところで、くしゃみが出た。
「お休みくださいませ」
「はい……」
目を閉じる。
薬が効いたのか、すぐに眠気がやってきた。
そしてアデライドは知らなかった。
自分が眠っている間に、婚約どころか人生を左右する大事件が始まろうとしていることを。
同じ日の午前9時12分。
王立学園は、ローレンス公爵家からの欠席届を正式に受理した。
午前9時34分。
王城の儀典局にも同じ内容の書状が届いた。
そして午前9時40分。
王太子エドガーの執務室にも、その写しが届けられた。
「殿下。ローレンス公爵家より本日の卒業夜会についてご連絡が――」
「後にしろ」
エドガーは書類から顔を上げなかった。
「しかし、本日の出席に関する――」
「今は忙しいと言っている」
「……承知いたしました」
侍従が下がる。
封書は机の端へ置かれた。
エドガーには、今夜どうしても成功させなければならない計画があった。
アデライドの悪事を皆の前で暴き、婚約を破棄する。
そのための準備で頭がいっぱいだった。
婚約者の実家から届いた書状など、いつもの儀礼的な連絡だろう。
そう思った。
結局、その封書が開かれることはなかった。
その日の夕刻。
王城の大広間には、華やかに着飾った卒業生たちが集まっていた。
卒業記念夜会。
卒業生だけでなく、その家族や王族、高位貴族も招かれる盛大な催しである。
王太子エドガーもまた、会場中央に立っていた。
その隣にいるのは婚約者ではない。
淡い桃色のドレスをまとったミリア・ベネット男爵令嬢だった。
「緊張しているのか?」
「少しだけ……」
「大丈夫だ。私がいる」
「エドガー様……」
ミリアが安心したように微笑む。
エドガーはその手を握った。
周囲にいた何人かの卒業生が視線を交わしたが、口を挟む者はいなかった。
今日はすべてを終わらせる日だ。
エドガーはそう決めていた。
アデライドがこれまでミリアに行ってきた数々の悪行。それを皆の前で明らかにする。
証人もいる。証言も集めた。
そして最後に、婚約破棄を宣言する。
国王である父には知らせていない。
知らせれば止められる可能性があったからだ。
だが、皆の前でアデライドの罪を明らかにしてしまえば、父とて認めざるを得ない。
エドガーは会場を見回した。
アデライドの姿は見えない。
だが、これほど大勢が集まっているのだ。どこかにいるのだろう。
まさか婚約者である自分が出席する夜会を欠席するなど、思いもしなかった。
今日の卒業式でも姿を見かけなかったが、席が離れていたため気に留めなかった。
まして、その理由を確認するなど考えもしなかった。
「殿下」
側近の一人、伯爵令息ロバートが小声で呼ぶ。
「そろそろお時間です」
「ああ」
エドガーは頷いた。
予定通りだ。
楽団の演奏が一度止まる。
卒業生たちが何事かと振り返った。
エドガーが一歩前へ出る。
「皆、聞いてほしい!」
よく通る声が大広間へ響いた。
会話が止まる。
視線が王太子へ集まった。
「今日、この卒業という佳き日に、本来であれば私も祝いの言葉だけを口にしたかった」
エドガーは沈痛な表情を作った。
「しかし、王太子として見過ごすことのできない悪事がある」
ざわめきが広がる。
その中央で、ミリアが俯いた。
「アデライド・ローレンス!」
エドガーが叫ぶ。
「私の婚約者でありながら、その地位を利用して数々の卑劣な行いを重ねてきた貴様を、今日この場で断罪する!」
しん、と静まり返る大広間。
エドガーは続けた。
「まず3月12日! 貴様はミリアの教科書を破り捨てた!」
返事はない。
当然だ、とエドガーは思った。
言い返せないのだ。
「証人もいる! 前へ!」
「はい!」
一人の令嬢が進み出る。
「わたくしは確かに見ました。アデライド様がミリア様の教科書を手にしているところを」
「聞いたか、アデライド!」
返事はない。
「まだ黙っているつもりか!」
やはり返事はない。
会場後方で、何人かが首を傾げ始めた。
しかしエドガーは気づかない。
「4月2日! 食堂において、貴様はミリアのドレスへ故意に葡萄酒を浴びせた!」
ロバートが進み出た。
「私もその場におりました。殿下のおっしゃる通りです」
「さらに5月16日!」
エドガーは次々と罪を読み上げていく。
「ミリアの机から課題が紛失した! 6月には、彼女と親しくする者へ圧力をかけた! 7月には彼女の実家であるベネット男爵家との取引を打ち切るよう、商会へ働きかけた!」
罪状が積み上がっていく。
そのたびに証人が出た。
見た。
聞いた。
間違いない。
アデライドがやった。
エドガーは確信を深める。
これほど証言が揃っているのだ。
もう逃げられない。
「そして9月!」
さらに一つ。
「ミリアを学園の茶会から締め出した!」
「間違いございません!」
「10月!」
「アデライド様がミリア様へ、殿下に近づくなとおっしゃっていました!」
「11月!」
会場がざわつき始めた。
エドガーは、それをアデライドへの非難だと思った。
実際には違った。
「なあ」
「うん」
「アデライド様、どこにいる?」
「私もさっきから探してる」
「見てないよな?」
「卒業式にもいなかったぞ」
「じゃあ、どうして殿下はあんなに叫んでるんだ?」
「さあ……」
そんな声が少しずつ増えていた。
国王の傍らにいた第二王子アルベルトも、大広間を見回していた。
今夜はアデライドへ1曲申し込めないかと思っていたのだが、先ほどから姿が見当たらない。
兄の婚約者なのだから、正式な挨拶がてら1曲踊る程度は許されるだろう。
そんなことを考えていたのだが。
「……父上」
「なんだ、アルベルト」
「兄上は、アデライド嬢がどこにいるか確認されたのでしょうか」
国王が眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「いえ。私も先ほどから探しているのですが、姿が見えませんので」
国王も会場を見回した。
確かにいない。
しかし、その間にもエドガーは次々と罪を読み上げている。
国王は側近に小声で確認を命じた。
「出席者名簿を持ってまいれ」
「はっ」
側近が下がる。
その間に演説は、ついに最後の罪状へ進んでいた。
「そして本日!」
エドガーが声を張り上げた。
ここが決定打だった。
過去の嫌がらせだけでは弱い。
しかし今日、アデライドは一線を越えた。
「アデライド! 貴様は卒業夜会の直前、ミリアを階段から突き落とした!」
大広間が大きくざわめいた。
ミリアが両手で顔を覆う。
「怖かったです……」
「ミリア」
「わたし……死ぬかと……」
「もう大丈夫だ」
エドガーがその肩を抱く。
「私がいる」
「エドガー様……」
そしてエドガーは再び前を向いた。
「これほど卑劣な行為、到底許すことはできない!」
ロバートも続く。
「私が目撃しております!」
ざわめきが止まった。
「私は今日、ミリア嬢が階段から落ちる瞬間を見ました。その上には、確かにアデライド・ローレンス公爵令嬢が立っていました!」
「私もです!」
別の令息も手を挙げた。
「アデライド様がミリア様の背中へ手を伸ばすところを見ました!」
「私も見ましたわ!」
3人目。
「間違いありません! アデライド様でした!」
完璧だった。
エドガーは確信した。
これで終わりだ。
「アデライド!」
声を張る。
「これだけの証言があっては、もはや言い逃れもできまい!」
返事はない。
「黙っていても無駄だ!」
返事はない。
「貴様のこれまでの行いを思えば、もはや私の婚約者として相応しくない!」
返事はない。
「せめてミリアに謝罪したらどうだ!」
返事はない。
「アデライド!」
返事はなかった。
そこで。
「あの……」
おずおずと手が挙がった。
侯爵家の令嬢だった。
「なんだ!」
勢いを削がれたエドガーが苛立った声を出す。
「大変申し上げにくいのですが……」
「構わん」
「殿下は先ほどから、どなたにお話しになっているのでしょうか」
「は?」
エドガーが眉を寄せる。
「アデライドに決まっているだろう」
「はい。それは分かっております」
令嬢が困った顔をした。
「ですが……アデライド様、本日いらしておりませんよ?」
「…………何?」
エドガーが固まった。
大広間が静まり返る。
「何を言っている」
「ですから、アデライド様は卒業夜会にいらしておりません」
「そんなはずはない!」
エドガーは会場を見回した。
たくさんの卒業生。
色とりどりのドレス。
貴族たち。
教師たち。
家族。
王族。
アデライド。
いない。
「……アデライド?」
呼んでみる。
当然、返事はない。
「アデライド!」
少し大きな声で呼ぶ。
いない。
「どこだ!」
誰も答えない。
先ほどの令嬢が、小さな声で言った。
「ですから、いらしておりません」
「逃げたのか!」
エドガーは即座に結論づけた。
「自らの罪が暴かれると知って逃げたのだな!」
「いいえ」
今度は別の声がした。
王立学園の学園長だった。
「ローレンス公爵令嬢は、本日の卒業式も欠席しております」
「……卒業式も?」
「はい」
「なぜだ」
「風邪です」
「…………風邪?」
エドガーは瞬きをした。
「高熱を出されたとのことで、今朝、公爵家より正式な欠席届が提出されております」
「今朝?」
「午前9時12分に受理しております」
学園長は淡々と答えた。
「卒業式の出席者名簿にも欠席と記録しております」
そこへ、国王の命令で名簿を取りに行っていた側近が戻ってきた。
「陛下。王城の儀典局にも、午前9時34分に欠席届が届いております」
「そうか」
国王は頷いた。
「エドガー。そなたの執務室にも届いているのではないか?」
「……私は存じません」
エドガーが答える。
すると、その背後にいた侍従が青ざめながら進み出た。
「殿下……」
「なんだ!」
「本日、午前9時40分に……ローレンス公爵家からの書状をお届けしております」
「…………」
「ご報告しようとしたのですが、お忙しいとのことで……」
大広間が静まり返った。
国王が息子を見る。
「届いていたのだな?」
「……はい」
「読んだのか?」
「…………」
「エドガー」
「……読んでおりません」
国王はしばらく黙った。
「そうか」
短く言った。
それから視線を上げる。
「では、話を戻そう」
国王がロバートを見る。
「そなたは先ほど、アデライド嬢がミリア嬢を突き落とすところを見たと申したな?」
「は、はい……」
「何時頃だ」
「午後……5時45分頃でございます」
「間違いないか」
「……はい」
「では、そなたが見たという公爵令嬢は、今朝から高熱で寝込んでいる本人なのだな?」
「…………」
「答えよ」
「は、はい……」
ロバートの顔から血の気が引いていた。
「なるほど」
国王は頷いた。
「では確認しよう」
その声は静かだった。
静かすぎて、かえって恐ろしかった。
「王城の警備責任者」
「はっ」
「本日、ローレンス公爵令嬢が王城へ入った記録はあるか?」
「ございません」
「公爵家の馬車は?」
「本日は1台も王城へ来ておりません」
「そうか」
国王はロバートを見る。
「では、そなたが見た女は誰だ?」
「…………」
「答えよ」
「わ、私は……」
ロバートは唇を震わせたまま俯いた。
国王は次に、もう一人の証人を見る。
「そなたも見たと言ったな」
「…………」
「アデライド嬢が、ミリア嬢の背中へ手を伸ばしたと」
「……はい」
「そして、そなたも」
3人目の令嬢が震えた。
「間違いなくアデライド嬢だったと申したな」
「…………」
「3人揃って、本日欠席している公爵令嬢を見たのか?」
誰も答えない。
空気が完全に変わっていた。
先ほどまで断罪されていたのはアデライドだった。
今は違う。
「お待ちください、父上!」
エドガーが割って入った。
「何か事情があるはずです!」
「どのような事情だ」
「例えば……そう、アデライドが欠席すると偽って密かに王城へ来た可能性も!」
「何のために」
「ミリアを害するためです!」
「高熱を出しているという娘が?」
「…………」
そこで王妃が額を押さえた。
「エドガー」
「母上」
「もう黙りなさい」
「しかし!」
「今のあなたは、喋るほど状況を悪くしています」
「ですが証言が!」
「その証言がおかしいという話をしているのです」
エドガーが口を閉じた。
国王は近衛へ命じた。
「ローレンス公爵邸へ使いを出せ」
「はっ」
「アデライド嬢の状態を確認せよ。診察した医師、家人、門衛からも話を聞け。ただし病人をここへ連れてくるな」
「承知いたしました」
国王が証人たちを見る。
「今夜、この場において証言した者は全員残れ」
ざわめきが起きた。
「帰宅は許さん」
「陛下!」
ロバートが青ざめる。
「何か問題でもあるか?」
「い、いえ……」
「事実を話しただけなら、何も恐れる必要はあるまい」
「…………はい」
国王は夜会の中断を宣言した。
事情を知る関係者は隣の広間へ移され、ほかの招待客には帰宅の許可が出された。
卒業生たちは残念そうだったが、今の状況で夜会を続けたい者はいなかった。
ミリアがエドガーの袖を掴んだ。
「エドガー様……」
「大丈夫だ、ミリア」
そう答える声には、もう先ほどまでの自信がなかった。
国王の隣で、アルベルトが小さく息を吐いた。
今夜、兄は王国中の貴族の前で、とんでもない失敗をしてしまった。
そしてその中心にいる公爵令嬢は、おそらく何も知らずに寝ているのだろう。
「お嬢様」
「……ん……」
「お薬のお時間です」
「いや……」
「子供のようなことをおっしゃらないでください」
「苦いもの……」
「存じております」
同じ頃。
アデライドは寝台の上で薬と戦っていた。
「お水を多めに……」
「薬をお飲みになってからです」
「マリーの鬼」
「はいはい」
身体を起こされる。
アデライドは渋々薬を飲んだ。
「まずい……」
「よくできました」
「子供扱いしないで」
「では、お休みください」
「殿下から何か連絡は?」
「今のところございません」
「そう」
少しだけ寂しい。
婚約者が卒業夜会を欠席しているのだから、一言くらい見舞いの言葉が届くかと思っていた。
期待していた自分が馬鹿だったのかもしれない。
「明日には下がるかしら」
「下がるとよろしいですね」
「卒業夜会、行きたかったなあ……」
「また別の夜会がございますよ」
「卒業夜会は一度だけよ」
「では、卒業を取り消していただきます?」
「それは嫌」
アデライドは再び布団へ潜った。
数分後には眠っていた。
その頃、彼女が出席できなかった卒業夜会では、婚約者が人生最大の窮地に陥っていた。
公爵邸から報告が届いたのは、それから1時間余り後だった。
「申し上げます!」
近衛騎士が、関係者の集められた広間へ戻ってきた。
「ローレンス公爵令嬢は、現在も公爵邸の寝室にて療養中です」
エドガーの顔が強張った。
「本日の外出は?」
「ございません」
「間違いないのか!」
「はい。公爵邸の門衛記録も確認いたしました。ご本人は昨日夕刻の帰宅以降、一度も屋敷から出ておられません」
「しかし!」
「さらに本日、午前7時40分と午後5時25分に医師の診察を受けております」
国王が頷いた。
「午後の診察について詳しく申せ」
「はっ。診察は午後5時25分に始まり、5時40分に終了しております。その間、医師のほか、ローレンス公爵夫妻、侍女2名が同席していたとのことです」
午後5時25分から5時40分。
ロバートがアデライドを見たと証言したのは、午後5時45分。
「午後5時25分の体温は39.2度。診察後もそのまま寝台で休まれており、現在も療養を続けておられます」
国王がロバートを見る。
「診察が終わってから5分で、公爵邸から王城へ来たらしい」
「…………」
「なかなか足の速い令嬢だな」
誰も笑わなかった。
ローレンス公爵邸から王城までは、馬車でも30分ほどかかる。
まして39度を超える熱を出した病人が、5分で移動できるはずがない。
「さて」
国王は椅子へ深く腰掛けた。
「もう一度聞こう」
ロバートを見る。
「そなたは誰を見た?」
「…………」
「答えよ」
「見て……おりません」
小さな声だった。
「聞こえんな」
「見ておりません!」
ロバートが叫んだ。
どよめきが起きる。
「私は……アデライド様が階段にいたところなど、見ておりません!」
「ロバート!」
エドガーが叫ぶ。
「貴様!」
「申し訳ございません、殿下!」
「なぜ嘘をついた!」
ロバートは俯いた。
「そう証言するよう……頼まれたのです」
国王の目が細くなる。
「誰に」
ロバートは答えない。
「誰に頼まれた」
沈黙。
そして、ロバートの視線がゆっくり動いた。
ミリアへ。
「…………」
「違う!」
ミリアが叫んだ。
「違います!」
「まだ何も聞いておらん」
国王の一言で、ミリアが固まった。
「私は何もしていません!」
「だからまだ、そなたには何も尋ねておらん」
「あ……」
顔が真っ白になる。
王妃がため息をついた。
「続けなさい」
「はい……」
ロバートが震える声で話し始めた。
「ミリア嬢から……アデライド様に酷い嫌がらせをされていると相談されました。それで……今日、決定的な証拠があれば殿下も婚約を解消できると……」
「階段から落ちることも聞いていたのか?」
「はい」
「では事故ではないな」
「……はい」
ミリアが後ずさる。
「違います! わたしは本当に落ちたんです!」
「落ちたこと自体は本当なのであろう」
国王が言う。
「問題は誰かに突き落とされたかどうかだ」
「それは……」
「自分で落ちたのか?」
「…………」
「ミリア・ベネット。答えよ」
ミリアの唇が震えた。
誰も助けてくれない。
エドガーも、今は黙って彼女を見ている。
「……自分で」
かすれた声だった。
「聞こえん」
「自分で……落ちました」
その場がざわめいた。
「何のために?」
「アデライド様に突き落とされたことにすれば……殿下が婚約を解消してくださると思って……」
涙がこぼれる。
「ミリア……?」
エドガーの声が震えた。
「君は……私に嘘をついたのか?」
「だって!」
ミリアが顔を上げた。
「エドガー様はわたしと一緒にいてくださるのに、結婚するのはアデライド様だって!」
「それは婚約者だから……」
「だから、その婚約をなくしたかったんです!」
エドガーは何も言えなかった。
そして、ミリアから目をそらした。
国王が静かに尋ねる。
「では、今日の階段での一件は、そなたが考えたのだな」
「……はい」
「協力者を集めたのも?」
「……はい」
「アデライド嬢が実際にその場にいるかどうかは、確認しなかったのか?」
ミリアが俯いた。
「……来ると思っていました」
「そうか」
国王は頷いた。
「来ると思っていたから、来ていなくても構わず罪を着せたわけだな」
返事はなかった。
もう一人の証人も耐えられなくなった。
「申し訳ございません!」
頭を下げる。
「私も見ておりません!」
3人目も続いた。
「わ、わたくしもです!」
崩れる時は早かった。
国王はしばらく3人を眺め、それからテーブルの上に置かれていた紙を手に取った。
エドガーが読み上げた罪状一覧だった。
「では」
国王が紙を振る。
「3月12日の教科書について聞こう」
最初に証言した令嬢が震える。
「そなたは見たと言ったな」
「……はい」
「本当に破り捨てるところを見たのか?」
「…………」
「今ならまだ、自分から訂正する機会を与える」
「……申し訳ございません」
一つ崩れた。
「アデライド様が教科書を拾っていらっしゃるところを見ただけです……」
「4月2日の葡萄酒は?」
「…………偶然だったと、思います」
二つ。
「5月の課題紛失は?」
「アデライド様が盗んだところは……誰も見ておりません」
三つ。
「6月の圧力とは?」
「ミリア嬢と親しくするなと……聞いたと……」
「誰から」
「ミリア嬢から……」
四つ。
「7月の商会との取引停止は?」
今度は誰も答えなかった。
財務に関わる話だったため、国王は儀典局の職員へ、会場に残っている関係者の中に事情を知る者がいないか確認させた。
ほどなく、ローレンス公爵家と取引のある商会主が呼ばれた。
「陛下。それについては理由がございます」
「申せ」
「ベネット男爵家が3度支払いを遅延したためです」
「……それだけか?」
「はい」
「ローレンス公爵令嬢は関係しているか?」
「ございません。商会の判断です」
五つ。
その場で確認できたものだけでも、次々と証言が崩れていった。
残りの件については、後日、学園の記録や関係者への聞き取りを行うことになった。
だが、少なくとも今夜の断罪が、確認もされていない証言を寄せ集めたものだったことは明らかだった。
やがて国王が紙を置いた。
「エドガー」
「……はい」
「そなたは、この程度の確認すらせず」
「…………」
「公爵令嬢を公衆の面前で犯罪者として断罪しようとしたのか」
「私は……」
「しかも本人不在のまま」
「…………」
それが一番酷かった。
王妃が頭を抱えている。
「せめて最初に本人がいるか確認なさい」
「……はい」
「あなた、誰もいない場所へ向かって15分近く喋っていたのですよ」
エドガーの耳まで赤くなった。
15分。
最初から最後まで、アデライドはあの場にいなかった。
自分が名前を呼んでも返事をしなかったのは、罪を認めて黙っていたからではない。
反論できなかったわけでも、恐れて逃げたわけでもない。
そもそも聞いてすらいなかったのだ。
「……いなかった」
エドガーが呟いた。
「最初から、アデライドは……ここにいなかったのか」
今さらだった。
国王は短く息を吐いた。
「エドガー。そなたの王太子としての職務は、当面停止する」
「父上!」
「本件の調査が終わるまでだ。王太子位についても、その結果を踏まえて判断する」
「しかし、私は――」
「もうよい」
国王は言葉を遮った。
「ミリア・ベネット、および虚偽の証言を行った者についても、身分に応じた責任を問う。詳しい処分は調査の後に決める」
誰も異論を唱えなかった。
「それから、ローレンス公爵家には、明日、私から正式に謝罪する」
「父上!」
「なんだ」
「婚約は……」
国王の顔から表情が消えた。
「まだ婚約の心配をしているのか?」
「…………」
「今夜そなたがやったことを理解してから聞け」
エドガーは口を開きかけたが、結局閉じた。
その隣で、ミリアも俯いたまま動かなかった。
アルベルトは、ようやく終わった大騒動に目を閉じた。
兄が失ったものは、恐らく本人が考えているよりずっと大きい。
そして、その場に一度も現れなかった公爵令嬢は。
おそらく今頃、何も知らずに眠っていることだろう。
翌朝。
「38.1度」
「下がった!」
アデライドは喜んだ。
「まだ38度ございます」
「昨日より1度以上低いわ」
「病人であることに変わりはございません」
「お腹も空いた」
「それは良い兆候ですね」
マリーがお粥を運んでくる。
アデライドは身体を起こした。
「昨日の夜会、どうだった?」
マリーの動きが止まった。
「……マリー?」
「はい」
「夜会」
「はい」
「楽しかった?」
「途中で中止になりました」
「えっ」
アデライドの匙が止まった。
「何かあったの?」
「ございました」
「事故?」
「事故と言えば事故でしょうか」
「怪我人は?」
「ベネット男爵令嬢が階段から落ちましたが、軽傷だそうです」
「ミリア様が?」
「はい」
「大丈夫なの?」
「身体は」
「身体は?」
妙な言い方だった。
マリーが黙る。
「何?」
「お粥を召し上がってからではいけませんか」
「気になるじゃない」
「熱が上がるかもしれません」
「そんな内容なの?」
「少々」
アデライドは匙を置いた。
「聞くまで食べません」
「子供ですか」
「病人です」
「こういう時だけ」
「マリー」
「はいはい」
マリーは諦めたように息を吐いた。
「昨日、殿下が卒業夜会でお嬢様を断罪なさいました」
「…………」
「…………」
「誰を?」
「お嬢様を」
「私?」
「はい」
「昨日?」
「はい」
「夜会で?」
「はい」
「私、ここにいたわよね?」
「はい」
アデライドは自分の寝台を見た。
次に窓を見る。
そしてマリーを見る。
「……どうやって?」
「そこが問題になりまして」
「でしょうね」
マリーは昨夜の出来事を説明した。
3月の教科書。
4月の葡萄酒。
5月の課題。
6月の孤立。
7月の商会。
そして卒業夜会直前の階段。
アデライドは黙って聞いていた。
「それで、3人の方が、お嬢様がベネット男爵令嬢を階段から突き落とすところを見たと証言されました」
「…………」
「午後5時45分頃だそうです」
「私、何してた?」
「先生の診察が終わったばかりで、寝台に横になっていらっしゃいました」
「そうよね」
「はい」
「39.2度って言われた頃?」
「そうです」
アデライドは額に手を当てた。
まだ熱い。
「私、熱で何か忘れているのかと思ったわ」
「ご安心ください。分身などなさっておりません」
「そう」
「証言は虚偽だったそうです」
「でしょうね」
「そこから過去の件も確認されまして」
「でしょうね」
「昨日の時点で、すでにいくつかの証言が撤回されております。残りについても調査が行われるそうです」
「でしょうね……」
アデライドはお粥を一口食べた。
味が薄い。
風邪のせいなのか、話のせいなのか分からない。
「それで」
「はい」
「私の婚約は?」
マリーが微妙な顔をした。
「なくなる可能性が非常に高いかと」
「私が寝ている間に?」
「はい」
「何もしてないのに?」
「はい」
「卒業夜会にも行ってないのに?」
「はい」
「……風邪ってすごいわね」
「今回に限りましては、私もそう思います」
扉が叩かれた。
父であるローレンス公爵が入ってくる。
「起きていたか」
「お父様。聞きました」
「そうか」
「私、断罪されたそうですね」
「ああ」
「いないのに」
「ああ」
父の眉間には深い皺が刻まれていた。
「陛下が午後にいらっしゃる」
「陛下が?」
「正式な謝罪だ」
「私、寝間着なのですけれど」
「病人だからな」
「着替えます」
「寝ていろ」
「国王陛下に寝間着で会えと?」
「お前は会わなくていい。私が応対する」
「でも」
「38度の娘を国王の前へ連れ出す父親だと思われる方が困る」
「……確かに」
「陛下にも、そのようにお伝えしてある」
父は一度言葉を切った。
「それから」
少しだけ表情を緩める。
「婚約については、こちらから白紙を求める」
アデライドはしばらく黙った。
「よろしいのですか」
「お前はどうしたい」
聞かれて、考える。
以前なら迷ったかもしれない。
王太子妃になるため、幼い頃から教育を受けてきた。
エドガーとも10年以上の付き合いがある。
好きだった時期も、もちろんある。
だが。
「私がいないことにも気づかず断罪を始めたのですよね」
「ああ」
「しかも、私が階段から人を突き落としたと」
「ああ」
「……嫌です」
「分かった」
父はそれだけ言った。
「では、そのようにする」
「ありがとうございます」
「寝ていろ」
「はい」
父が出ていく。
アデライドは再びお粥を食べ始めた。
「マリー」
「はい」
「私、卒業夜会に出られなくて昨日はすごく残念だったの」
「存じております」
「今は?」
「はい」
「出なくてよかったと思っているわ」
「私もでございます」
2人で顔を見合わせた。
その日の午後、国王は約束通り公爵邸を訪れた。
アデライドは医師から面会を禁じられていたため、応対したのは公爵夫妻である。
国王は王太子の行為について正式に謝罪し、虚偽の告発に関わった者たちの責任を明らかにすることを約束した。
アデライド本人にも、自筆の謝罪状が届けられた。
それを読んだアデライドは、しばらく考えてからマリーへ尋ねた。
「ねえ」
「はい」
「私、お返事を書いた方がいいかしら」
「今はお休みくださいませ」
「でも、陛下からのお手紙よ?」
「旦那様がお返事なさいます」
「そう……」
アデライドは便箋を置いた。
「私、何もしなくていいのね」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「……なんだか落ち着かないわ」
「では、お薬を」
「それは嫌」
「お嬢様」
結局、薬を飲まされて寝かされた。
卒業夜会から3日後。
アデライドの熱はようやく平熱まで下がった。
その間にも事態は進んでいた。
エドガーは王太子としての職務を停止され、王太子位についても審議されることになった。
ミリアは階段での自作自演と虚偽の告発を認め、王城への出入りを禁じられた。ベネット男爵家には謝罪と賠償が求められ、本人の処分は引き続き審理されている。
虚偽証言に加担した者たちについても同様だった。
過去の嫌がらせについては、すでに複数の証言が撤回され、学園の記録との食い違いも明らかになっていた。
残る件も調査が続いているが、アデライドを加害者と断定できる証拠は見つかっていない。
婚約については、ローレンス公爵家から正式に解消を申し入れ、王家も受諾した。
あまりにもあっさりしていた。
10年以上続いた婚約が、アデライドが3日間寝込んでいる間になくなった。
「人生って分からないものね」
「そうですね」
「もっとこう……大事件になると思っていたわ」
「十分大事件でございました」
「私は寝ていただけだから」
「お嬢様にとってはそうでしょうね」
まだ外出は禁止されている。
アデライドは部屋の長椅子で本を読んでいた。
そこへマリーがやってくる。
「お嬢様、お客様です」
「誰?」
「第二王子殿下です」
「アルベルト殿下?」
意外な名前だった。
「お見舞いとのことですが」
「もちろん、お通しして」
しばらくしてアルベルトが入ってきた。
エドガーより2歳年下の第二王子。
学園では一年後輩だったため、それなりに顔を合わせる機会はあった。
「具合は?」
「もう熱はございません」
「よかった」
アルベルトは花束を差し出した。
「ありがとうございます」
「兄上からではないから安心して」
「そこは別に疑っておりません」
「ならよかった」
少し笑う。
花をマリーへ渡し、アデライドは尋ねた。
「殿下もあの夜会に?」
「いたよ」
「……全部ご覧になったのですか」
「全部」
「忘れてください」
「無理かな」
「そこをなんとか」
「兄上が誰もいない場所に向かって『アデライド!』と何度も叫んでいた光景は、一生忘れられる気がしない」
アデライドは両手で顔を覆った。
「私の方が恥ずかしくなってきました」
「君は何もしてないだろう」
「それでもです」
「途中から皆、君を探していた」
「誰かもっと早く教えて差し上げればよかったのに」
「勢いがすごすぎて止めづらかったんだ」
「そんなに?」
「うん。誰も間に入れなかった」
「……それはそれで困りますね」
思わず笑ってしまった。
笑うとまだ少し咳が出る。
「大丈夫?」
「はい」
アルベルトが少し心配そうに見る。
「本当は」
「はい?」
「卒業夜会で君と踊りたかったんだ」
アデライドが瞬きをする。
「私と?」
「うん」
「兄上の婚約者だから、最初で最後になると思っていた」
「そうだったのですか」
「でも君はいないし、兄上は君を断罪し始めるし」
「申し訳ございません」
「君が謝るところ、一つもないよね?」
「確かに」
また2人で笑った。
アルベルトが少しだけ迷ってから言う。
「だから、治ったら踊ってくれないかな」
「ダンスを?」
「うん」
「私、婚約を解消したばかりですよ」
「知ってる」
「そういう女性を誘うのは、少々早すぎません?」
「では待つよ」
アデライドは意外に思って彼を見た。
「どのくらい?」
「君の風邪が完全に治るまで」
「殿下」
「うん?」
「それ、全然待つ気がありませんよね?」
「ばれた?」
アデライドはとうとう声を上げて笑った。
また咳が出た。
マリーがすぐに水を持ってくる。
「申し訳ない」
「殿下のせいです」
「私のせい?」
「病人を笑わせました」
「それは悪かった」
アルベルトが素直に謝る。
アデライドは水を飲んだ。
窓の外は晴れている。
3日前。
卒業夜会へ行けないと知った時には、この世の終わりのような気分だった。
まさかその欠席によって、自分に着せられるはずだった冤罪が、その場で崩れるとは思わなかった。
もし熱が出ていなかったら。
もし無理をして夜会へ出ていたら。
偽の証言を完全に否定することは、ずっと難しかっただろう。
そう考えると。
「風邪を引いて、よかったのかしら」
ぽつりと言った。
マリーが即座に答える。
「治ったから言えることでございます」
「そうね」
「次は普通に健康でいてくださいませ」
「努力するわ」
アデライドは笑った。
風邪を引いた。
卒業夜会を欠席した。
欠席しているのに断罪された。
その結果、10年以上続いた婚約がなくなり、身に覚えのない罪まで綺麗になくなった。
ついでに、新しいダンスの相手までできた。
「アルベルト殿下」
「何?」
「完全に治ったら、1曲だけですよ」
「2曲」
「1曲です」
「では、1曲踊ったあとに交渉する」
「ずるい方」
「兄上とは違うところを見せたいからね」
「それは期待してもよろしいの?」
「もちろん」
2人は顔を見合わせた。
今度は、アデライドも咳をしない程度に笑った。
そして王城では、もう一つ。
重大な発表をする際には、まず相手がその場にいることを確認する。
そんな、ごく当たり前の決まりが新しく加わったという。
それを聞いたアデライドは、不思議そうに首を傾げた。
「……今までは確認していなかったの?」
マリーは何も答えなかった。
【完】
なかなか書く余裕がありません……。
相変わらず仕事はデスマーチ中。
早く新規職員を……切実に。
そんな中、娘が風邪を引きまして。
そこから思いついたのが今回のお話です。
風邪で寝込んでいる間に、本人不在のまま勝手に断罪され、勝手に冤罪が晴れていく公爵令嬢。
そもそも相手がいるかくらい確認しましょう(笑)
ということで、相変わらずの状況ですが、ぼちぼち書いております。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。




