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待ち続ける愛

作者: ...
掲載日:2026/03/18

雨の匂いがする日だった。


駅前の小さなベンチに、ひとりの老人が座っていた。

手には古びた弁当箱。中身はもう空で、蓋だけが少し歪んでいる。


彼はそれを、何度も開けては閉じていた。


「……今日は、少し遅いな」


誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。


周囲を行き交う人々は忙しそうで、足を止める者はいない。

老人の視線は、ただ改札の方に向けられていた。


やがて、ぽつりと雨が落ちてくる。


それでも彼は動かない。

弁当箱を膝に乗せたまま、ただ待ち続ける。


——毎週、水曜日。


この時間、この場所で、彼は「息子」を待っていた。



かつて、その息子はよくここで待ち合わせをした。


「父さん、今日も弁当ありがとう」


そう言って、照れくさそうに笑う青年だった。


忙しい仕事の合間に、ほんの短い時間だけ顔を出して、

父が作った弁当を嬉しそうに食べる。


「こんなの、買えばいいのに」


そう言いながらも、毎回きれいに食べきった。


その時間が、老人にとって何よりの誇りだった。


——だが、ある日を境に、息子は来なくなった。


仕事が忙しいのだろう。

そう思って、老人は待ち続けた。


一週間。

一ヶ月。

半年。


それでも、やめなかった。


やがて、周囲の人間は事情を知る。


息子は——帰ってこない人になっていた。


事故だった。


知らせはとっくに届いていた。

葬儀も、終わっていた。


それでも老人は、ここに来るのをやめなかった。


「……今日は、きっと来る」


誰に否定されても、そう信じていた。



雨は強くなり、ベンチは濡れていく。


通りすがりの女子高生が、思わず足を止めた。


「おじいさん、大丈夫ですか? 濡れちゃいますよ」


老人はゆっくりと顔を上げる。


「……ああ、大丈夫。もうすぐ来るから」


その言葉に、少女は何も言えなくなる。


知っていたのだ。

この人のことを。


駅前で、ずっと同じ時間に座っている老人。

誰かを待ち続けている人。


少女は、自分の傘を少しだけ老人に傾けた。


「……優しいね」


老人は小さく笑った。


「でもね、大丈夫なんだ。あの子、雨の日は必ず走ってくるから」


「濡れるの嫌いだったのにね、弁当が冷めるのが嫌だって」


その言葉に、少女の喉が詰まる。


何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。


ただ、目の奥が熱くなる。



やがて、電車が一本、到着する。


改札から人が流れ出てくる。


スーツの人、学生、親子連れ。


老人は、その一人ひとりを丁寧に目で追う。


そして——


ふっと、表情がやわらいだ。


「……来た」


少女は思わず振り向く。


だが、そこには誰もいない。


それでも老人は、確かに誰かを見ていた。


空いたベンチの隣に、そっと弁当箱を置く。


「今日は、少し遅かったな」


静かな声で、そう言う。


そして、蓋を開ける仕草をする。


中には、何もない。


それでも老人は、そこにあるはずの弁当を差し出した。


「ほら、好きだったやつだ」


沈黙。


雨音だけが、世界を満たす。


やがて老人は、ゆっくりとうなずいた。


「……ああ、うん。ちゃんと食べろよ」


少女の視界が、にじむ。


何も見えなくなるほどに。



電車がまた出発する。


人の流れも途切れ、駅前は静けさを取り戻す。


雨は、少しだけ弱くなっていた。


老人は弁当箱を閉じる。


そして、大事そうに胸に抱く。


「……また来週な」


誰もいない隣に向かって、そう言った。


その声は、とても優しくて——


とても、寂しかった。



次の週、水曜日。


同じ時間、同じ場所。


ベンチには、誰もいなかった。


ただ、そこには小さな花束が置かれていた。


その横に、見覚えのある古い弁当箱。


蓋は、少しだけ開いていた。


まるで——


誰かが、最後にちゃんと食べたかのように。

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