待ち続ける愛
雨の匂いがする日だった。
駅前の小さなベンチに、ひとりの老人が座っていた。
手には古びた弁当箱。中身はもう空で、蓋だけが少し歪んでいる。
彼はそれを、何度も開けては閉じていた。
「……今日は、少し遅いな」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
周囲を行き交う人々は忙しそうで、足を止める者はいない。
老人の視線は、ただ改札の方に向けられていた。
やがて、ぽつりと雨が落ちてくる。
それでも彼は動かない。
弁当箱を膝に乗せたまま、ただ待ち続ける。
——毎週、水曜日。
この時間、この場所で、彼は「息子」を待っていた。
*
かつて、その息子はよくここで待ち合わせをした。
「父さん、今日も弁当ありがとう」
そう言って、照れくさそうに笑う青年だった。
忙しい仕事の合間に、ほんの短い時間だけ顔を出して、
父が作った弁当を嬉しそうに食べる。
「こんなの、買えばいいのに」
そう言いながらも、毎回きれいに食べきった。
その時間が、老人にとって何よりの誇りだった。
——だが、ある日を境に、息子は来なくなった。
仕事が忙しいのだろう。
そう思って、老人は待ち続けた。
一週間。
一ヶ月。
半年。
それでも、やめなかった。
やがて、周囲の人間は事情を知る。
息子は——帰ってこない人になっていた。
事故だった。
知らせはとっくに届いていた。
葬儀も、終わっていた。
それでも老人は、ここに来るのをやめなかった。
「……今日は、きっと来る」
誰に否定されても、そう信じていた。
*
雨は強くなり、ベンチは濡れていく。
通りすがりの女子高生が、思わず足を止めた。
「おじいさん、大丈夫ですか? 濡れちゃいますよ」
老人はゆっくりと顔を上げる。
「……ああ、大丈夫。もうすぐ来るから」
その言葉に、少女は何も言えなくなる。
知っていたのだ。
この人のことを。
駅前で、ずっと同じ時間に座っている老人。
誰かを待ち続けている人。
少女は、自分の傘を少しだけ老人に傾けた。
「……優しいね」
老人は小さく笑った。
「でもね、大丈夫なんだ。あの子、雨の日は必ず走ってくるから」
「濡れるの嫌いだったのにね、弁当が冷めるのが嫌だって」
その言葉に、少女の喉が詰まる。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
ただ、目の奥が熱くなる。
*
やがて、電車が一本、到着する。
改札から人が流れ出てくる。
スーツの人、学生、親子連れ。
老人は、その一人ひとりを丁寧に目で追う。
そして——
ふっと、表情がやわらいだ。
「……来た」
少女は思わず振り向く。
だが、そこには誰もいない。
それでも老人は、確かに誰かを見ていた。
空いたベンチの隣に、そっと弁当箱を置く。
「今日は、少し遅かったな」
静かな声で、そう言う。
そして、蓋を開ける仕草をする。
中には、何もない。
それでも老人は、そこにあるはずの弁当を差し出した。
「ほら、好きだったやつだ」
沈黙。
雨音だけが、世界を満たす。
やがて老人は、ゆっくりとうなずいた。
「……ああ、うん。ちゃんと食べろよ」
少女の視界が、にじむ。
何も見えなくなるほどに。
*
電車がまた出発する。
人の流れも途切れ、駅前は静けさを取り戻す。
雨は、少しだけ弱くなっていた。
老人は弁当箱を閉じる。
そして、大事そうに胸に抱く。
「……また来週な」
誰もいない隣に向かって、そう言った。
その声は、とても優しくて——
とても、寂しかった。
*
次の週、水曜日。
同じ時間、同じ場所。
ベンチには、誰もいなかった。
ただ、そこには小さな花束が置かれていた。
その横に、見覚えのある古い弁当箱。
蓋は、少しだけ開いていた。
まるで——
誰かが、最後にちゃんと食べたかのように。




